都内のある病院で働く看護師から聞いた話。
ひとつのカルテが、いまだにロッカーの奥で封もされずに残っているという。
古ぼけた記録紙には、血液データ、手術記録、栄養計画、そして異常の兆候が克明に記されていた。だが、奇妙なのはそのカルテの表紙に、赤いマジックでこう書かれていたことだという。
「毎朝、すべてがはじめてです」
ある男性患者のものだった。
四十代の前半、背筋の真っ直ぐな、物静かな印象の人物。かつては外資系の広告代理店に勤め、家には妻とふたりの子どもがいた。胃がんが見つかったのは、健康診断での偶然だったという。
ステージは早期だったが、がん細胞の広がりが広範で、結局、胃を全摘するしかなかった。
食事は摂れず、点滴だけで命をつなぐ日々がはじまった。口寂しさをまぎらわせるため、常に小さなラジオを流していた。FM局の軽薄な笑い声だけが、あの病棟の空気を和らげていた。
だが、術後数週間が経ち、病室で異変が起きた。
点滴台に繋がれながらも、病室のベッドの上で、彼は唐突に言った。
「……ここ、どこですか?」
看護師が冗談かと思い、笑って返すと、彼は怯えた目をして繰り返した。
「ここ、どこなんですか? なにか事故に遭ったんですか……?」
それが、すべての始まりだった。
記憶の断絶だった。
昨日の朝のことも、朝食のことも、話した会話も、ぜんぶ十数分で忘れてしまう。だが不思議なことに、過去の断片は少しだけ残っていた。妻の顔、子どもたちの名前、働いていた会社……ただし、それも次第に薄れていった。
医師たちは「ウェルニッケ脳症です」と言った。
脳の特定部位に障害が生じる疾患で、原因はビタミンB1の欠乏だった。
調査が進むにつれ、なぜビタミンが投与されなかったのかが明らかになってくる。
市の医療予算の逼迫を受けて、役所が「特定ビタミン類の点滴投与は保険適用外」とする内規を出したのだ。しかも、それを現場の医師たちに周知する文書は、ほぼ一枚のFAXだったという。
「記録には残ってます。でも、指示はありませんでした」
主治医はそう証言したらしい。つまり、誰も「入れるな」とも「入れろ」とも言っていなかったのだ。患者の命が、そのあいまいさに沈んだ。
退院してからも、彼の日々は奇妙なままだった。
目覚めるたびに、部屋に見知らぬ少年がいる。
「おはよう、お父さん」
そう言われても、心のどこかで納得がいかない。
それも数分後には、疑念ごと霧のように消える。
朝食のとき、妻が優しく笑いながら「今日は何曜日か覚えてる?」と尋ねる。
笑ってごまかそうとするが、口に出したその瞬間には、なぜ笑ったのかさえ分からなくなっていた。
彼の生活は、巨大なループになった。
冷蔵庫にあるメモを見る。
「牛乳、卵、パン」
着替えて出かける。
途中でメモの存在を忘れる。
店に入ると、何を買えばいいか分からず、ただうろうろと棚の間をさまよう。
家に帰ると、何も買っていない袋を見て「なぜこんなものを持ってるのか」と首をかしげる。
その数分後、メモの紙を発見して驚く。
そしてまた、忘れる。
妻は彼のすべての行動に付箋を貼り、ラベルを付け、タイマーを鳴らし続けた。
風呂場の壁には「今入浴中です 五分以内に出てください」と書かれた紙が貼られ、台所の冷蔵庫には、過去一週間の献立が写真つきで並んでいる。
取材に訪れたテレビクルーの前でも、彼はカメラを見つめて言った。
「……すみません、どちらさまでしたっけ?」
記者が答えようとすると、再び口を開く。
「事件でもあったんですか?」
彼自身が「自分が被害者である」という事実を記憶できない。
家族に支えられながらも、現実との間に膜を張ったような生活を続けていた。
悲しみも怒りも、すべて忘れてしまう。
笑い声も、涙も、数分後にはただの音になる。
役所は彼の障害を「三級」と判断した。
「日常生活は可能ですから」
そう言って、妻の労力や心労をまるで存在しないもののように扱った。
だがその後、裁判で「二級」へと認定が改められた。
彼はそのことも、知らない。
いまも毎朝、鏡の前で老けた顔に眉をひそめ、
隣の妻に「これは誰?」と訊ね、
ベッドの向こうで眠る子に「なぜ赤ん坊がいるの?」と呟く。
そしてまた、FMラジオをつける。
軽い笑い声が流れる。
十数分後、その音さえ、風にさらわれた落葉のように消えている。
それでも、彼の中でたったひとつだけ、奇妙に消えない記憶があるという。
ある朝、鏡に映る自分が、じっとこちらを睨んでいた。
動きもしない、瞬きもしない、口の端をかすかに吊り上げたままの自分。
慌てて後ろを振り返っても、誰もいない。
だが鏡の中では、もうひとりの自分が、ずっと笑っていた。
そのときだけは、なぜか……忘れられなかったのだという。
[出典:544 :本当にあった怖い名無し:2016/08/27(土) 08:20:53.33 ID:S/lXglXu0.net]