この話を打ち明けると、必ず周囲が黙り込む。
語り手は私ではない。友人から伝え聞いた、彼の弟に起きた出来事だ。けれど、妙に湿った空気や、あの場に居合わせた者たちの口調までが、まるで私自身がその場を体験したかのように思い出される。
——夕刻。季節はまだ暑さの残る頃だったらしい。
住宅街に伸びる細い小道は、街灯が点く前の曖昧な明るさに包まれ、どの家からも夕餉の匂いが漂っていた。排水溝をかすめる風に混じって、醤油の焦げる甘い匂いと、濡れたアスファルトの匂いが重なり合う。学校帰りの小学生たちが並んで歩いていたが、その空気は一瞬で切り裂かれることになった。
突然、車のエンジン音が狭い路地に響き、猛スピードの車が飛び込んできた。誰もが反射的に身を引いたが、友人の弟だけが間に合わず、衝撃音と共に倒れ込んだ。目撃者たちは声を失い、音の余韻だけが細い道に反響していた。
車はすぐに停まり、運転席から三十代か四十代ほどの女が降りてきた。慌てて逃げ去るのではなく、むしろゆっくりと歩み寄るように。彼女は弟の傍らにしゃがみ込み、手のひらをそっと伸ばした。
その仕草が、あまりに奇妙だった。
頭に触れ、まぶたをなぞり、腕や足を順に確かめるように撫でる。触れる指先は確かに震えていたが、焦りよりも「探す」ような落ち着きがあったと目撃者は言った。まるで壊れた人形の部品を一つずつ点検するように。
しばらくして女は小さく「ごめんね」とつぶやいた。声は蚊の羽音のようにか細く、それでいて妙に耳に残ったという。そのまま立ち上がると、再び車に戻り、何事もなかったかのように走り去ってしまった。
——弟はすぐに救急車で病院へ搬送された。
意識はあり、命に別状はない。だが診察にあたった医師が、診療室で首をかしげながら呟いた言葉は、家族全員を凍りつかせた。
「骨折した痕跡はあるのに、骨自体は正しく収まっている。ズレが矯正されたかのようだ。だが……顔の筋肉や脂肪が、誰かが下手に縫い合わせたように歪んでいる」
さらに、体中の擦り傷はどれも不自然に清潔だった。砂や泥が全く付着していない。現場はアスファルトの路面で、倒れ込んだときに擦り傷が汚れないはずがないのに、まるで誰かがすぐさま洗い流し、消毒したかのように。
救急隊員も「こんな現場処置を誰が?」と首を傾げていた。誰も何もしていない。ただ、女が撫でていただけだ。
——弟は数日の入院で回復した。擦り傷は早く癒え、不自然な歪みも徐々に薄れた。それでも、あの日の謎だけは取り残されたままだった。
警察も調べを進めたが、車のナンバーは特定できず、女の身元もわからない。ただ数日後、事故現場周辺の住民から「似た女を知っている」との証言が寄せられた。
「ミキ」という女性の名が浮かんだ。二十年ほど前、彼女は自ら運転する車で事故を起こし、幼い息子を失ってしまったという。それ以来、心を病み、幻の子供を探すように町をさまよっていた。
彼女はしばしば車を走らせ、道端に立つ子供に近づいては、何かを確かめるように手を伸ばす姿が目撃されていた。だが声をかけられると、すぐに闇へ逃げるように立ち去った。
——あの晩、弟を撫で続けた女は本当にミキだったのか。
もしそうだとして、彼女は何を確かめ、何を「修復」しようとしていたのか。
弟の体に残った不可解な治癒の痕跡は、今では跡形もない。ただ、彼が時おり夜中に無意識でまぶたをなぞりながら「ママ……」と寝言を漏らすとき、家族は言葉を失うのだ。

弟が退院してからしばらくは、何事もなかったかのように日々が過ぎた。
だが、家族の誰もが口に出せない「違和感」を抱いていた。
夜、布団の中で弟が身じろぎする。寝息は穏やかだが、手が顔に伸び、無意識にまぶたをなぞる。細い指先で、左右を確認するように。小さく「ママ……」と吐き出す寝言に、母が立ち尽くしたことが何度もあった。弟自身は目を覚ましていないのに、その仕草が「誰か」を真似ているようで、見ているこちらが息を詰めるのだ。
数週間後、友人は弟と二人で事故現場の近くを歩いたという。夕方で、あの日と同じような光の色だった。弟は急に立ち止まり、路地の奥を凝視した。何もないただの曲がり角に、じっと視線を注ぎ、唇を動かす。
「ここで、撫でられた」
呟いた声は確かだった。彼は記憶を失ってはいない。撫でられ、謝られた感覚だけが残っている。だが、その記憶は優しいとも、恐ろしいとも断じられない。弟自身も説明できないのだ。
やがて、近所で新しい目撃談が広がった。
またしても「女が子供に近づき、撫でて去った」という。だが、その子供には怪我などしていなかった。女はただ、何もない膝をさすり、「ごめんね」と言って消えた。
その噂が広まるにつれ、弟は落ち着かなくなった。夜、眠りが浅くなり、寝言が頻繁になった。彼が布団の中で誰かを呼ぶ声を聞いたとき、友人は背筋に冷たい汗を流したという。呼んでいたのは「ミキ」という名だった。家族の誰も、その名を教えたことはない。
——あの日、病院の医師が言った「下手な手術のような歪み」という言葉が、友人の耳から離れないそうだ。女は事故の瞬間、弟の体を「直そう」としていたのではないか。いや、彼女にとっては「直す」ことが目的ではなかった。失った子供の姿に重ね合わせ、確かめるように撫でることで、自分の記憶を修復しようとしていたのかもしれない。
それ以来、弟の体には外傷が残らなかったが、ふとしたときに「あの女」の仕草を真似るようになった。怪我をした友達の腕を撫で、無意識に「ごめんね」と囁いたとき、周囲はぞっとして距離を取ったという。
友人は言う。
「弟は助かったんじゃなくて、あの女の“子供”になったのかもしれない」
真実はわからない。女が再び現れるのかどうかも。
けれど弟が、夜な夜な誰かに向かって謝罪を繰り返すのを聞いてしまうと、家族はもう口を閉ざすしかないのだ。
[出典:822 :本当にあった怖い名無し:2011/10/08(土) 23:27:45.06 ID:ixs3+wQ60]