四、五年前のことだ。
取引先の藤木さんから、酒席で聞かされた話を、今でも忘れることができない。酔いもすっかり醒めるような内容で、聞いた当時は、冗談めかして笑うしかなかった。だが、夜になり布団に潜りこんでからも、あのときの描写や藤木さんの顔色が生々しく浮かんできて、眠れなくなったのだ。
以下は、その藤木さん自身の語りを、一人称の形でまとめたものになる。
あれはもう十年以上前のことになる。
仕事でインドネシアへ行った。とは言っても、佐々木と梅山と三人での出張で、半分は遊びだった。現地の取引先をまわるのは数日で済み、残りの十日ほどは観光や休暇にあてていた。最初の二、三日は町中を歩いて土産を見たり、海沿いのレストランで酒を飲んだりして過ごしたが、三人とも以前にも来たことがあるせいか、どこか退屈であった。
そんなとき、佐々木が言い出した。
「ラフレシアを見てみないか?」
ジャングルの奥に咲く巨大な寄生花。幻の花とも呼ばれていて、開花の瞬間を目にするのは滅多にない幸運だという。気まぐれに咲くそれを、素人が短期間で見つけられるわけがない。だが、佐々木は妙に乗り気だった。梅山が伝手を使い、現地のガイドを探してきた。こちらの希望を聞いて引き受けてくれるという。
翌朝、三人はガイドと落ち合い、最低限の装備を整えてから、町外れの安ホテルで一泊した。そして、まだ夜明けも十分に訪れていない時間に出発した。
ジャングルを歩くというのは、観光客の気分で挑むものではなかった。
一日目は何の収穫もなく終わったが、それ以上に蒸し暑さと湿気が体力を削り取り、肌にまとわりつく虫と、どこから現れるかわからない毒虫や蛇への警戒で神経をすり減らした。
二日目も成果はなく、帰るころには三人とも口をきくのも億劫なほど疲弊していた。それでも、せっかく来たのだからと、三日目も挑戦してみることにしたのだ。
三日目の午後。
またも蕾すら見つけられぬまま、我々は早めに切り上げて引き返すことにした。二時間ほど歩いたころ、背後から佐々木が声をあげた。
「おい、あれ……ラフレシアじゃないのか?」
振り返ると、赤茶けた大きな塊のようなものが木々の隙間から覗いていた。距離はまだあったが、確かに異様な存在感を放っていた。
ガイドも目を凝らして見ていたが、次の瞬間、顔色を変えて叫んだ。
「急げ! 黙って付いてこい!」
その剣幕に、私たちはただ驚くしかなかった。普段は落ち着いている男が、怯えを隠そうともせず声を震わせている。
「命が惜しいなら走れ!」
怒鳴るような声に背を押され、我々は息を切らしながら足を速めた。
それはすぐに分かった。
ただの花ではない。
鼻を突くような生臭い臭気が漂ってきた。腐敗臭ではなく、もっと生々しい、生きた肉を裂いたときの鉄の匂いに似ていた。私は振り返った。
それは、確実に近づいていた。
距離を詰めてくるそれを目にした瞬間、血が凍るのを感じた。大きさは二メートル近く、胴の直径は七、八〇センチ。寸詰まりで、ぬめった赤黒い体表。ヒルのように這い、地面をうねらせながら迫ってきていた。
声を出すこともできず、ただ逃げるしかなかった。佐々木も梅山も、恐怖に取り憑かれた顔で私を追い抜いていく。枝が頬を打とうが、転びそうになろうが構わず走った。
やがて林を抜け、自動車が通れる道に出たとき、ガイドが立ち止まり、荒い呼吸を整えながら言った。
「もう……大丈夫だと思います」
我々は地面に崩れ落ちるように座り込み、互いに顔を見合わせた。さっきまでの臭気も、いつの間にか消えていた。ジャングルを振り返っても、木々が光を遮って奥は見えない。
「あれは何なんだ?」
私が問いかけても、ガイドは首を振るばかりで答えなかった。
ただ一言。
「忘れなさい……忘れたほうがいい」
それ以上は何も語らなかった。
――
数年後、梅山が再び仕事でインドネシアを訪れ、あの件を現地の人々に尋ね歩いたらしい。すると、いくらかの情報を得られたという。
曰く、それは「人を喰うもの」。
人を見つけると執拗に追いかけ、相手が疲れ果てたところを襲う。太陽を嫌い、森の影を好む。逃げ延びても、それを目にした者は祓いを受けなければならず、受けなければ死ぬまで狙われ続ける。
我々が日本に帰って無事でいられるのは、運が良かっただけなのだろう。あるいは、海を越えたせいで、追跡を諦めたのかもしれない。
ただ、一つだけ……夜中にふと目が覚めるときがある。
生臭い、湿った鉄の匂いに包まれて。
そのたびに、私は声を殺してじっと闇をやりすごす。
窓の外の闇の向こうから、うねるような気配がこちらを見ている気がしてならないのだ。
――あれから十年以上経った今でも。
(了)
[出典:171 本当にあった怖い名無し 2006/10/26(木) 05:11:25 ID:cQYTHW9f0]