父の実家のある街は、不思議な場所だった。
山と海に挟まれているのに、どちらの匂いも色も、半端にしか感じられない。田舎と言うには人も車も多く、都会と言うには何もなさすぎる。道路はきちんと舗装されているのに、隣の家まで二百メートルは離れていて、声をかけても届かない距離感だった。
私は三歳までそこに住んでいたが、その後すぐ今の街へ引っ越してしまった。だからこそ、実家に遊びに来ても、友だちなんて一人もいなかった。じいちゃんもばあちゃんも、親も、働き詰めで相手をしてくれる暇なんてない。遊園地もゲーセンもない。いや、当時の私はまだ小さく、そういう娯楽の存在さえ知らなかった。ただ、山か海に行ってみたいと胸の奥でずっと思いながら、縁側で暇を持て余していたのだ。
けれど、その願いはいつも大人に止められた。
「一人じゃ行くな」
「危ない」
そう繰り返されるばかりで、私は窮屈さを抱えながら夏を過ごしていた。
六歳の夏休み、その窮屈さに耐えかねた私は、とうとう決心した。家のすぐ裏にそびえる山のふもとまでなら、入っても咎められないだろう、と。どうせ数時間歩き回って、何事もなかったように戻ればいい。
鼻歌を歌いながら歩いていると、雑木林の中にぽっかりと黒い影が口を開けていた。
それは穴だった。
私は最初、それを見てトトロの世界を思い出した。けれど、すぐに違うと悟った。あまりにも整った形で、周囲の草は刈り揃えられたように均一に短い。自然にできた穴ではないのだろう。誰かの手が入っている。だが、人が使っている気配はなく、不気味なほど静まり返っていた。
ぞくり、と背筋に鳥肌が走った。
立ち止まったまま、逃げようかと思った。
けれど、あまりにも暇すぎる六歳児の心は、怖さよりも好奇心に傾いていた。
せめて手だけでも突っ込んでみよう。
そう決め、左腕を穴の中へそっと差し入れた瞬間――
全身に冷や汗が吹き出した。
「やばい」
直感でそう思い、慌てて腕を引こうとした。だが動かない。何かに掴まれているわけでもない。ただ、空間そのものに呑み込まれたみたいに、肩から先が一枚の壁に貼り付けられたように固定されていた。
声を出そうにも喉が震えず、涙だけが頬を伝った。
次の瞬間、背後から服の首元をぐいっと引かれた。
ぐらりと体が仰け反り、固定されていた腕がすっと抜けた。
訳もわからず振り向くと、二十歳前後に見える女の人がいた。
肩までの髪は、緑とも白ともつかない曖昧な色合いで、夏だというのに長袖の服を着ている。どこから現れたのか、全く気づかなかった。
その人はしゃがみ込み、私の頭を撫でながら微笑んだ。
「こんなところで遊んじゃダメだよ」
知らない顔だった。この街の人間じゃないとすぐにわかった。けれど、不思議と怖くはなかった。どこか懐かしいような匂いがして、私は思わず口を開いた。
「暇だから一緒に遊ぼう!」
彼女は少し困ったように笑った後、頷いてくれた。
それからの日々、私は山のふもとで彼女と過ごすようになった。ボール遊びや縄跳び、時には家からアイスを盗み出して二人で分け合った。夢のような時間だった。
海に行こうと誘ったこともある。
だが、その時ばかりは彼女の顔色が変わった。
「あっちには行けないの。一人でも行っちゃダメ」
低い声で告げられると、私もなぜか反論できなかった。
やがて夏休みの終わりが近づいた頃、私は軽い風邪をひいていた。それでも彼女に会いたくて、ふらふらする体を引きずりながら、穴の前まで行った。
彼女はいなかった。
ただ、穴だけが口を開けて待っていた。
じっと見つめているうちに、あの日の恐怖を「夢だったのかもしれない」と思い始めていた。怖さよりも好奇心が勝り、私は穴の中へと身を乗り出してしまった。
中はひんやりとして、思ったほど恐ろしくはなかった。
だが、進むにつれて、言葉にできない不快感が全身を覆った。臭いのようで臭いではなく、音のようで音でもない。身体そのものが拒絶するような感覚に吐き気が込み上げた。
立ちすくんだ瞬間、再び首元を強く引かれた。
振り返ると、あの女が険しい顔で立っていた。
「戻ろう」
その一言に、私は泣きながら頷いた。
彼女の手に引かれて穴の外へ出ると、彼女は私を抱きしめ、震える声で繰り返した。
「ごめんね……楽しいはずの場所なのに、ごめんね」
意味はわからなかった。ただ、母に背中を叩かれていた記憶が蘇り、私は同じように彼女の背をぽんぽんと叩いた。
やがて彼女は「今日でお別れだよ」と告げた。突然の言葉に動揺し、引き止めようとしたその時、彼女が後ろを指差した。
振り返ると、父が立っていた。
私は父に駆け寄った。
だがすぐに思い出し、彼女の方を振り向いた。
そこにはもう誰もいなかった。
その瞬間、胸の奥に重い石が落ちたような感覚が走った。息が詰まり、視界が揺れた。
――その後の三日間、私は高熱にうなされ続けた。記憶は途切れ途切れで、夢か現かも判別できない。気づいた時には家の布団に寝ており、両親は「はしゃぎすぎて夏風邪でもひいたのだろう」と笑っていた。
だが、私にはひとつだけはっきりとした証拠が残っていた。
首元に、赤い線のような跡がついていたのだ。
痣とも違う。まるで平手打ちを受けた直後のように赤く、細く、長く続く跡だった。痛みも痒みもない。だが消える気配は一切なく、どれだけ洗っても残り続けた。
医者に見せても「異常なし」と言われるばかり。
私はただ、服を着るたびにその跡を思い出し、胸の奥に沈んだ石の感覚を噛みしめるしかなかった。
あの女は誰だったのか。
穴の向こうには何があったのか。
六歳の夏の出来事は、今も私の首元に生き続けている。