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楽しいはずの場所 rw+2,241-0121

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父の実家のある街は、不思議な場所だった。

山と海に挟まれているのに、どちらの匂いも色も、はっきりとは感じられない。潮の湿り気も、土の重さも、途中で途切れてしまう。田舎と呼ぶには人も車も多く、都会と呼ぶには何もなさすぎる。舗装された道路は無駄に広いのに、隣の家までは二百メートル以上離れていて、声を張り上げても届かない。人の気配はあるのに、人とつながれない場所だった。

私は六歳の夏休みを、その街で過ごしていた。三歳まで住んでいたらしいが、記憶はほとんどない。祖父母も両親も忙しく、日中は家に私一人が残されることが多かった。遊園地も店もない。もっと言えば、子どもが子どもでいられる場所がなかった。

山に行きたい。海に行きたい。
そう思うたび、大人たちは決まって同じことを言った。

「一人じゃ行くな」
「危ないからやめなさい」

理由は教えてくれない。ただ、声だけが固くなる。その曖昧さが、かえって息苦しかった。

夏休みも半ばを過ぎた頃、私は裏山のふもとまでなら許されるだろうと勝手に決めた。入るわけじゃない。近くまで行って、戻ればいい。それだけのつもりだった。

雑木林を抜けた先で、それは突然現れた。

地面が口を開けていた。
黒く、丸く、妙に整った穴だった。

草は不自然なほど短く刈られ、土の縁は崩れていない。自然にできたものではないと、子どもの私でも分かった。誰かが、何度も手を入れている。

立ち止まった瞬間、背中を冷たいものがなぞった。逃げるべきだと頭では分かっていた。それでも足が動かなかった。怖さよりも、ここだけが街と切り離されているような感覚に引き寄せられた。

私は、左腕をそっと穴の中に差し入れた。

次の瞬間、全身から汗が噴き出した。

掴まれたわけではない。痛みもない。ただ、肩から先が「そこにあるもの」として固定された。空間そのものが腕を受け入れ、返すつもりがないようだった。

息が詰まり、声が出ない。涙だけが勝手に流れた。

そのとき、背後から首元を強く引かれた。

体が仰け反り、同時に腕がすっと抜けた。
尻もちをついた私の前に、女の人が立っていた。

二十歳前後に見えた。肩までの髪は緑とも白ともつかない色で、日差しの下なのに影が薄い。夏だというのに長袖を着ていた。

「こんなところで遊んじゃダメだよ」

声は穏やかだったが、言葉の抑揚が少しおかしかった。注意なのに、理由が含まれていない。

私は知らない人だと分かっていながら、不思議と怖くなかった。懐かしい匂いがした。湿った土と、洗ったばかりの布が混じったような匂い。

「暇だから、一緒に遊ぼう」

自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
彼女は少し考え込むように黙り、それから頷いた。

それからの数日、私は山のふもとで彼女と過ごした。
ボール遊びや縄跳び。家から持ち出したアイスを半分に割って食べた。彼女はいつも同じ場所に立ち、同じ順番で遊びを始めた。何度遊んでも、途中から始めることはなかった。

私はそれを変だと思わなかった。そういうものだと受け入れていた。

海に行こうと誘ったことがある。
その瞬間、彼女の表情が固まった。

「あっちには行けない」
「一人でも行っちゃダメ」

声が低く、重かった。理由は言わない。その言い方だけで、私はそれ以上何も言えなくなった。

夏休みの終わりが近づいた頃、私は風邪をひいた。頭がぼんやりして、体が重い。それでも彼女に会いたくて、ふらつく足で山へ向かった。

穴の前に、彼女はいなかった。

代わりに、ぽっかりとした黒だけがあった。
見ているうちに、あれは夢だったのかもしれないと思い始めた。怖さより、確かめたい気持ちが勝った。

私は穴の中へ身を乗り出した。

中は冷たく、静かだった。だが、奥へ進むほど、言葉にならない違和感が増していく。匂いでも音でもない。自分が「ここにいるべきではない」という感覚だけが、直接体に触れてくる。

足が止まった瞬間、首元を強く引かれた。

振り返ると、あの女がいた。
表情は険しく、声が震えていた。

「戻ろう」

外に出ると、彼女は私を強く抱きしめた。

「ごめんね……本当は、楽しいはずの場所なのに」

意味は分からなかった。ただ、胸の奥が苦しくなり、私は母にされるように彼女の背をぽんぽんと叩いた。

「今日でお別れだよ」

彼女はそう言い、後ろを指差した。

父が立っていた。
私は父に駆け寄り、振り返った。

そこには、もう誰もいなかった。

胸の奥に、重いものが落ちた。
息ができず、視界が歪んだ。

その後、三日間、私は高熱にうなされた。目覚めたとき、家の布団に寝かされていて、大人たちは「はしゃぎすぎた」と笑っていた。

だが、首元にだけ、消えない赤い線が残っていた。

痣でも傷でもない。触っても痛くない。ただ、細く長く、そこにある。
医者は異常なしと言った。

私は今も、その跡を服で隠しながら生きている。
あの穴の向こうが、どこだったのか。
彼女が、何だったのか。

答えは分からない。

ただ、守られたはずのあの夏が、今も私の首元に触れている。

(了)

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