これは、私が東京の下北沢にある古びた木造アパート『ひかり荘』で経験した、未だに思い出すと背筋が凍る出来事だ。
『ひかり荘』は外観からして廃墟のようだった。二階の窓に住人の洗濯物がかろうじてぶら下がっているため、人が住んでいるのが辛うじて分かる程度。私の友人が唯一の住人で、ほかの部屋は大家の物置になっていた。友人がそんな場所に住んでいた理由は、家賃がとても安かったからだろう。
当時、私は下北沢で飲む機会が多く、終電を逃すたびにその友人の部屋に泊まらせてもらっていた。彼の部屋は二階の奥にある六畳一間。足の踏み場もないほど散らかった部屋は、まるで警察のガサ入れがあった後に爆破されたような惨状だった。隣の部屋との間にある薄い壁には、三〇センチ四方のベニア板が打ち付けられていて、私が「これは何だ?」と尋ねると、友人は「さあな。隣の部屋が見えちゃうんじゃね?」と笑うだけだった。
ある日、冗談半分で「隣の部屋空いてるなら借りようかな」と思いつき、大家のお婆さんに相談すると、取り壊し予定で家賃が格安だと言われた。私はその話を聞いてすぐに契約を決め、簡単な荷物を持ち込んで新しい部屋で初夜を迎えた。
夜11時過ぎ、壁に時計を掛け終えたところで友人から電話が入った。彼は声を震わせ、「変な音が聞こえる」と言う。「キサマ…キサマ…」という囁き声だと。最初は彼の悪ふざけだと思ったが、電話越しの声は本当に怯えているようだった。
私が隣の壁に耳を当てると、複数の男たちが念仏を唱えるような声が聞こえた。その瞬間、友人の部屋から壁を叩き返す音が響いてきたが、彼が「福岡の実家にいる」と言ったことで状況が一変した。隣の部屋に人がいるはずがないのに、壁を叩く音はますます激しくなり、やがて部屋全体が異様な音に包まれた。
私は恐怖に駆られ、窓から飛び降りるようにしてアパートから逃げ出した。しかし、狭い隙間に挟まって身動きが取れなくなり、背後からは念仏を唱える黒い影が迫ってきた。その姿は人間とは思えなかった。必死に狭い隙間を進むと、突き当たりに「井戸」が現れた。井戸の周囲にはお札がびっしりと貼られ、異様な雰囲気を醸し出していた。
その後の調査で分かったのは、このアパートにはかつて狂信的な宗教団体が住んでおり、彼らが集団焼身自殺を図ったという事実。その団体の本尊が友人の部屋の壁に隠されていて、私はそれを釘で打ち抜こうとしていた。私たちはお祓いを受け、『ひかり荘』からすぐに引っ越したが、あの日の出来事は一生忘れることができない。