店の名は『哀』だった。
最初にその話を聞いたとき、私はただの業界裏話だと思った。職場の同僚が、転職前に勤めていた広告代理店での出来事だと言う。四ヶ月だけ在籍した、風俗専門の小さな代理店。扱うのはマイナー誌や裏サイト。営業先は大久保、新大久保、歌舞伎町の外れ。地図には載っていても、夜になると別の層が重なるような場所だった。
彼は元々経理畑だった。会社の倒産で放り出され、選り好みする余裕もなく営業に回った。深夜に雑居ビルを巡り、違法すれすれの店に広告を売り込む。断られても、罵倒されても、翌週にはまた顔を出す。それが仕事だった。
「空気が、重いんですよ。あの辺は」
彼はそう言った。湿気ではなく、油の膜のようなものが肺に貼りつく感じだと。
『哀』は、細い路地に面した古いビルの三階にあった。中国式マッサージと書かれた看板は色褪せ、小さな裸電球がひとつ灯るだけ。実態は格安の“本番あり”。吹き溜まりのような店だったという。
春麗と名乗る女と、美帆と名乗る女がいた。姉妹だと聞いたが、互いに視線を合わせない。濃い化粧の奥に、乾いた目をしていた。
ある夜、いつものようにチャイムを鳴らした。応答はない。だが、覗き窓のシャッターが一瞬だけ開いた。中に人はいる。彼は名刺とメモを差し込み、いったん階段を下りた。
一時間後、再び戻ると、踊り場の蛍光灯が不規則に明滅していた。ペンキの剥げた壁が、光のたびに違う形に見えたという。呼吸を潜めているのは自分だけではない、と彼は感じた。
チャイムを押すと、すぐに扉が開いた。見知らぬ男が立っていた。業界の匂いがしない、もっと粗い、別の種類の人間。
「間に合ってる。帰れ」
扉が閉まる直前、彼は聞いた。
「……助けて」
春麗の声だったと彼は断言した。だが、店内の有線放送に紛れ、確証はなかった。通報すべきか迷った。だが違法営業の店に踏み込ませれば、自分の会社も無傷では済まない。上司は「気のせいだろう」で終わらせた。
数日後、『哀』は消えていた。看板は外され、扉には何も貼られていない。次のテナント募集の紙すらなかった。
その頃から、彼の携帯に無言電話がかかるようになった。深夜、一定の間隔で鳴る。出ても何も聞こえない。ただ、切れる直前、微かな擦過音が混じることがあった。録音して再生すると、ノイズの奥に、短い息のようなものが混ざっていたという。
ある夜、受話器越しに、確かに聞こえた。
「……聞こえないふり、しないで」
声は小さく、抑揚がなかった。だが、春麗の発音だったと彼は言った。
番号を調べても非通知。通信会社に問い合わせても履歴は残らない。会社の電話にも同じ着信があった。誰かが受けると、すぐに切れる。
営業先の別の店で、年嵩の男に呼び止められたことがある。
「……あんた、何をやった」
「何もしてません」
「そうか。ならいい」
男はそれ以上言わなかったが、視線だけが長く残った。
彼は考えた。あの夜、名刺と一緒に残したメモ。そこには会社名と自分の携帯番号が書いてあった。もし、誰かがそれを見たなら。
ある晩、無言電話に耐えきれず、彼は留守電に切り替えた。翌朝、再生すると、最初はいつもの無音だった。だが三秒ほど過ぎたところで、女の声がはっきり入っていた。
「営業さん」
それは春麗でも美帆でもなかった。もっと若い声だった。
「今度は、どこの店ですか」
その瞬間、彼は気づいた。自分が回った店の名を、彼女たちは知っている。広告の契約書に書いた住所も、担当者名も、全部。
退職を申し出たのはその週だった。四ヶ月。短い期間だが、その間に何度も「助けて」を聞いたと彼は言う。聞こえないふりをすることに慣れていた、と。
最後に彼は笑った。
「全部、作り話ですよ」
その場にいた全員が曖昧に笑った。私も笑った。
帰宅して、スーツを脱ぎ、机に携帯を置いたとき、着信音が鳴った。非通知。こんな時間に。
出るつもりはなかった。だが、鳴り止まない。仕方なく通話ボタンを押した。
何も聞こえない。
切ろうとした瞬間、女の声がした。
「営業さん」
背中が冷えた。私は営業ではない。
「次は、あなたの番ですか」
通話はそこで切れた。
履歴には何も残っていなかった。
翌日、同僚に確かめた。彼はもう会社を辞めていた。連絡先は削除され、住所も分からない。
だが、夜になると電話は鳴る。一定の間隔で。出なくても、鳴る。留守電に切り替えても、鳴る。
再生すると、最後に必ず入っている。
「……聞こえないふり、しないで」
私はまだ、何もしていない。
少なくとも、そう思っている。
だが電話は、私の番号を知っている。
(了)