勤めていた会社が倒産して以来、一年近く無職でした。
三十近くになって親の仕送りを当てにする生活。
もう仕事を選んでいる場合ではないと、今年三月より、マイナー風俗広告代理店の営業職に就いております。
主に仕事で出歩くのは、夜から深夜。
しかも治安が良いとはとても思われない、大久保・新大久保が受け持ち。
何度か危なそうな目に遭って、色々な意味で立ち入っちゃいけない場所などわかってきたものの、まだまだヤクザな経営者やDQNなマネージャーとの交渉、そしてそれ以上に、良心に心すり減らしてきました。
ぼくの担当区域あたりは、韓国・中国系のお店や人が多く、新規媒体の売り込みや、お土産にガサ入れ情報などを持って、日々回っています。
すると日本とは別の、どこか脂っこいような社会・文化を形作っている印象を受けます。
外国人だから、ということじゃなく、日本人もなんか異質なんですよね、この辺り。
薄暗い路地の雑居ビルの一室にあった、『哀』というマッサージ店は、表向きは地味な看板一つの、中国式だか台湾式だかのマッサージのお店でしたが、本当は違法風俗店で、格安で本番ができるのが売りでした。
そういう事を臭わせるような、分かる人には分かる広告を、ウチのような所が扱う媒体に打って、集客していたわけです。
当然それなりなお姉さん方がお相手なわけで、売る方も買う方も、もの悲しく思えてくるような最果ての店でした。
働いてる春麗(チュンリー)・美帆(メイファン)という女性は、実は日本人で、しかも姉妹であり、そこでまた、大人すぎる事情を感じさせられたりして。
ある日、件の『哀』に行った折りのこと、インターホンを押しても誰も出ません。
『飛んだかな?』
そんな事を思ってしばらくその場にいると、ドアの覗き窓が数回瞬きました。
『なんだいるじゃん』
ウチとの取引金額など微々たるもの、居留守使われるほどのもんじゃないしと、『また伺います』と、名刺を添えた簡単なメモを残して、1~2時間後にまた来ることにしました。
この界隈、知らなくてもいい事柄が多そうだし、まあ何か事情があるんだろう……
1時間くらいした頃にもう一度訪れると、何故だか踊り場の蛍光灯が切れかけていて、瞬くたびに剥げかけてめくれた壁のペンキが蠢くような、さらにイヤぁな雰囲気になってました。
風俗店によくある、見せかけだけの華やかささえもが欠けた、店及び店周りでしたが、この時は、廃墟にでも入り込んだような気分になりました。
ドアホンを押すと、今度は扉が開きました。
そこにいたのは、見知らぬヤバ気な男性で、こちらが口を開く前に、
「今は間に合ってるから帰れ!」と追い返されました。
しかしドアが閉められる瞬間、「助けて」という春麗の声を聞いたような……
男の背後で有線がガンガン流れていたし、自分も妙な雰囲気に飲まれていたから、何かを聞き違えただけなのか?
警察に通報を考えたものの、違法営業の店に警察を立ち入らせることになってしまい、勘違いだったら自分の責任で大事になってしまうと思いました。
まずは事情通であり経験豊富だろう上司に報告して、相談することにしました。
が、「気のせいだろう」の一言で一蹴され、なかなか上がらない営業成績の嫌味を言われただけでした。
実は、そう言われることは予想していました。売り上げしか評価しない社風でしたから……
しかし、やはり気になります。
翌日から、一週間ほど近くを通り過ぎるようにしていましたが、路上置きの看板も出さなくなり、閉店した模様でした。
それ以上この件に深入り出来なかったのは、自宅に無言電話がかかるようになったからです。
終電を逃した日は、カプセルホテルや漫画喫茶で朝まで過ごし、朝方に着替えだけをしに帰るような感じで、その頃はそれが日常でした。
その週の土曜、日曜、久しぶりに自宅で寝ていると、深夜30分おきの無言電話が……
匿名で警察に投書しようか、とも考えていました。
しかし、飛び込みである店に顔を出した時のこと、マネージャーに名刺を渡すと、奥からオーナーらしい凄みの効いた男性が出てきて、「あんた何をやったんだい?」と言います。
「え?何もしてませんよ?」
「そうか。勘違いだったかな」
そんな会話だけで終わったのですが、『哀』のドアにメモと名刺を残してきたことを思い出しました。
やはり、あの件なんだろうか……
無言電話の件もあるし、ひょっとして自分はマークされてるかも……?
これでもう心が折れました。
結局、匿名の投書さえもしないまま一月過ぎてしまいました。
あの春麗の訴えを黙殺してしまったのだろうか……
わずか四ヶ月の勤務でしたが、他にも小さな「助けて」の声を黙殺してきた気がします。
今日は急病ということで欠勤です。
このまま退職を考えています。
…………この話は全てフィクションです。