職場の同僚と居酒屋で飲んでたとき聞いた話。
営業先でおかしなことがあった、と話し始めたのは、広告代理店で働いていた男だった。彼は元々、派手な業界とは縁遠い、地味な経理職上がりだったという。会社の倒産を経て、選り好みしていられないと営業職に転じたのだが、就職先がまた厄介だった。マイナー風俗広告の代理店。扱う媒体も、見た人が眉をひそめるような類のものだった。
配属されたのは、大久保や新大久保。夜の帳が下りると、別の国の影が濃くなるような場所。彼の仕事は、そうしたエリアを深夜に渡り歩き、違法すれすれの店に広告の売り込みをすることだった。
「あの辺の空気、なんか脂ぎってるんですよ」
そう呟いた彼の目の奥に、濁ったものがあった。多国籍の人々が営む夜の商売、そのなかでもひときわ寂れた雑居ビルの一室に、その店はあった。店の名は『哀』。看板は薄汚れて、小さな明かりがひとつだけ灯っていた。
中国式マッサージと謳っていたが、実態は違った。格安の“本番アリ”が売りの、いわば最後の吹き溜まりのような場所だった。働く女たちも、皆どこか乾いていた。中でも、春麗(チュンリー)と美帆(メイファン)と名乗るふたりの女は、姉妹でありながら、互いを避けるように働いていたという。どこか日本人離れした化粧の濃さが、逆に出自を物語っていた。
ある日、いつものように訪ねた彼は、店のチャイムを鳴らした。応答はない。数分間、扉の前で立ち尽くしていると、覗き窓の小さなシャッターがカタンと開いて、すぐにまた閉じた。
「居るんだな」
そう確信して、名刺とメモを残し、いったん引き返した。
約一時間後、再び訪ねると、踊り場の蛍光灯がチカチカと瞬いていた。めくれかけた壁のペンキが、その明滅に合わせて蠢いているように見えた、と彼は言った。気味が悪いのは、それだけではなかった。まるでビルそのものが息を潜め、何かを隠しているような気配があったという。
チャイムを押すと、今度はすぐに扉が開いた。中から現れたのは、明らかに“業界の人間”ではない、ガラの悪い男だった。
「今は間に合ってるから帰れ」
吐き捨てるように言い、扉を閉めようとしたその刹那、彼の耳に届いた。
「……助けて」
春麗の声だった、と彼は言った。だが、それは有線の音にかき消され、幻のようでもあった。警察に通報するべきか、と彼は迷った。しかし、違法営業の店に踏み込ませることになれば、こちらもただでは済まない。思い悩み、上司に相談すると、「気のせいだろう」の一言で片付けられた。
それから、彼は『哀』の前を何度も通った。だが、看板は外され、扉は閉ざされたままだった。
問題はそれで終わらなかった。自宅に、無言電話がかかるようになった。最初は夜に一、二回だったのが、週末には三十分おきに鳴ったという。応答しても、呼吸音ひとつ聞こえない。ただ、どこかから覗かれているような感覚だけが残った。
それでも仕事は続けなければならなかった。ある日、新規の店舗に飛び込みで訪れ、名刺を渡すと、店の奥から年嵩の男が出てきた。鋭い目つきで、彼をじっと見つめた。
「……あんた、何をやったんだい?」
「え? いえ、何も」
「そうか。……勘違いだったかな」
短いやり取りのあと、彼は店を後にしたが、背筋に氷を流し込まれたようだった。
『哀』のドアに名刺とメモを残したことを思い出した。あの店に何があったのか。なぜあの男が、それを知っていたのか。無言電話は、偶然なのか――。
そして何より、あの夜、自分が聞いた「助けて」は、空耳だったのか。
その後も無言電話は続き、彼は疲れ果てた。ついには、体調不良を理由に欠勤を申し出た。そのまま退職するつもりだと、ぼそりと呟いた。
「四ヶ月の勤務でした。でも、たぶん、その間に……いくつも『助けて』を聞こえないふりしてきたんです」
彼の顔色は土気色で、眼窩の奥が真っ黒に沈んでいた。
「……全部、フィクションですけどね」
そう言って笑った彼の口元だけが、やけに赤く見えた。