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中編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 定番・名作怖い話

煙のない松明 rw+9,708

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自分の体験した話だ。誰にも語ったことがないし、これからも話すつもりもない。こんなことを書き残すのも初めてだ。

これを書き終えたら、たぶん消す。消せなくなるかもしれない。そういう意味で、これが最後になる可能性がある。ただ一つ言えるのは、話すべきではないことを、今から文字にする気がしているということだ。

細部は曖昧だ。会話の一部は抜けている。記憶が欠けた場所を、埋めたくなる衝動がある。でも埋めた瞬間、別のものになる。だから埋めない。筋だけを残す。

大学三年の春休みだった。進学で中国地方のある県に出て、一人暮らしをしていた。春休みは長い。自由というより空白だった。一週間でやることが尽きた。

家の近くに小高い丘があった。企業団地みたいに会社がいくつも並び、道幅が広い。見晴らしが良さそうで、前から一度走ってみたかった。

その日、家を出たのは夕方だった。五時前後だと思う。日が傾き始める時間帯で、空の青が薄くなり、街灯がまだ点いていない、あの妙に落ち着かない時間だ。

丘に登る道は緩やかで、途中から風が変わった。車の音が遠のき、空気が乾く。団地に出ると、建物はどれも新しく、看板の文字だけがやけに白かった。休日だから人影はない。駐車場の白線がまっすぐで、静かすぎて耳が痛い。

途中、石で作られた風車があった。装飾なのか慰霊碑みたいなものなのか分からない。薄い影を地面に落として、風はあるのに羽は動かなかった。そこで少し立ち止まって、ぼんやり眺めてから、また自転車を漕いだ。

団地を横切るように一本、向こう側へ抜ける道が見えた。登ってきた道とは反対側だ。せっかくだからそっちから帰ろうと思った。いつも同じ道を戻るのが、妙に嫌だった。

主道から脇にそれる小道が視界に入った。

そこだけ、色が違った。

目の隅が滲むような、焦点が合わないような揺らぎがあって、それが紫に見えた。薄い紫の膜が空気に張りついている感じだった。光の加減だろうと最初は思った。夕方の影が濃いからだとも思った。

でも違った。道の入口だけが紫というより、入口の向こう側にだけ、別の露出で撮った写真みたいなズレがあった。

入るつもりはなかった。そう決めていたのに、気がつくとハンドルを切っていた。自分で驚いた。身体が勝手に決めたみたいだった。戻そうとしても戻らない。指先が言うことを聞かない。

小道は緩やかに下っていた。舗装はされている。草が伸びているわけでもない。普通の道だ。ただ、紫の揺らぎが視界の縁にまとわりついて、遠近感が狂う。速度感がなくなり、漕いでいるのか止まっているのか分からなくなった。

一分も経っていないと思う。坂を下りきった瞬間、紫の膜がぷつりと切れた。視界が急にクリアになって、空気の匂いが変わった。

目の前には、田んぼが広がっていた。

さっきまで企業団地のコンクリと看板の世界にいたのに、いきなり稲の匂いがした。水の匂い、泥の匂い。どこまでも平らで、畦道がまっすぐ伸びている。向こうには藁葺き屋根みたいな家がいくつも固まって見えた。時代劇のセットみたいだと思った。冗談みたいに整いすぎていた。

村の中央あたりが少し高くなっていて、小さな丘のように見える。そこに何か、太い影が立っている気がした。木なのか柱なのか分からない。夕暮れの光で輪郭だけが濃かった。

面白そうだと思ってしまった。何が面白いのかも分からないのに、面白そうだと思った。最悪の合図は、いつもそういう形で来る。

畦道に入り、自転車を進めた。田んぼの水面が薄い空を映して、景色だけは美しかった。音が少ない。鳥の声が聞こえない。虫の音もない。自分のチェーンの回る音だけがやけに大きい。

この時点では、先に進めば大きな道に出るだろうと考えていた。団地の裏手に農地があるのだろう、その程度の理解だった。西へ行けば知っている道に繋がるだろう。そう思っていた。

畦道の先、田んぼの中で農作業をしているお婆さんが見えた。

腰が曲がっていて、帽子を被り、手を動かしている。ここだけ急に現実味が出て、少し安心した。

お婆さんがこちらを見た。

その瞬間、動きが変わった。

走ってきた。田んぼの畦を、転びそうな勢いで。年寄りが走る速度ではなかった。距離が縮むのが早すぎた。

僕は自転車を降りた。怒られるのかと思った。勝手に入ったらまずいのかもしれない。そう思って待った。

お婆さんは息を切らせながら、僕の挨拶を遮って言った。

「あんた、この辺で見ん顔じゃけど余所者かい?」

口調が強い。問い詰めるというより、確認ではなく詰問だった。

「いえ、近くに住んでて」

言い終える前に、お婆さんが被せた。

「この村に住んどるんかどうか聞いとるんじゃ」

その言い方で分かった。近くに住んでいるかどうかじゃない。村の内か外か、それだけが問題だった。

「村じゃないです。たまたま自転車で」

そう言った瞬間、お婆さんの顔が変わった。怒りでも驚きでもなく、熱が引くように表情が落ち着いた。目だけが、どこかを見ている。

そして、急に優しい声になった。

「晩飯、うちで食べていきんさい。暗うなる。迷うて危ないけえ」

誘い方が自然すぎた。さっきまでの強い口調が嘘みたいだった。怖いのは怒鳴られることじゃなく、切り替えが滑らかすぎることだ。

僕は断った。帰り道が分からないのに、他人の家に入るのは嫌だった。暗くなる前に団地へ戻りたい、その気持ちが強かった。

お婆さんは何度も食い下がった。理由を変え、言葉を変え、同じことを繰り返す。

「腹減っとるじゃろ」
「水も飲んでいきんさい」
「道、教えちゃるけえ」
「うちで待っとりゃええ」

断るたびに、優しい声の底に別のものが滲んだ。苛立ちではない。焦りでもない。もっと冷たい、慣れた感じの何かだった。

最後に僕が「本当に帰ります」と言うと、お婆さんは小さく頷いて、道具も置いたまま、民家の方へ走っていった。

走り方がさっきと同じだった。息も乱れていない。走り去る背中が、年寄りのそれに見えなかった。

村の周囲は山に囲まれていた。

抜ける道が見当たらない。畦道は村へ向かうか、田んぼの間で途切れるかのどちらかで、外へ出る道路の気配がない。

仕方なく、来た道を戻ろうとした。紫の膜があった坂道だ。あそこを登れば団地に戻れる。そう信じた。

坂の下に着き、自転車を漕いで登り始めた。

奇妙なことが起きた。

登れども登れども、終わりがない。傾斜は緩いのに脚が重い。景色が変わらない。道の端の草の形まで同じに見えてくる。曲がり角も目印も出てこない。自転車のライトを点けようとしても、そもそもライトが点かない。電池切れなのか何なのか分からない。

どれだけ登ったか分からない。息が上がり、汗が冷えて、首の後ろがぞくぞくした。夕方のはずなのに、空が急に暗い。雲が出たのかと思ったが、雲の動きが見えない。暗くなる速度だけが異常に早い。

携帯を取り出して時間を確認しようとした。画面が真っ黒だった。電源ボタンを押しても反応がない。充電切れだと思った。さっきまで普通に使えていた記憶があるのに、そこだけが曖昧だった。

不安が募って、僕は引き返した。坂を下ることにした。登るよりは正しいはずだと思った。

下り始めた瞬間、嘘みたいに早く坂の下へ着いた。さっきの登りは何だったのかと思うほど、数十秒で戻ってしまった。

そこで初めて、本格的な悪寒が来た。理屈じゃない。身体が先に理解した。

周囲は闇に包まれていた。田んぼの水面が黒い鏡になっている。遠くの家の輪郭も消えかけている。夜が落ちるのが早すぎる。

その闇の中に、点々と火が現れた。

松明だった。

最初は祭りかと思った。田舎の行事だろう、と脳が勝手に説明を作った。

だが、松明の数が増えていくにつれて、その説明が崩れた。

松明は揺れていない。風があるはずなのに火の形が安定している。火の色も、焚き火の橙じゃない。少し白っぽい。煙が見えない。

人影も見えた。村人たちだ。大勢いる。声がする。言葉は分かるのに、意味が頭に入らない。耳だけが拾って、脳が弾く感じだった。

僕は近づきかけて、急に頭の中で警鐘が鳴った。

これはやばい。

理由はない。ただ、やばい。そういう判断だけが、異様に鮮明だった。

僕は畦道から田んぼの脇へ身を伏せ、自転車を田んぼの中へ押し込んだ。稲が膝の高さまで伸びていて、隠れるのは難しくなかった。

その稲を触った瞬間、背筋が冷えた。

稲が、実っていた。

春休みだ。春のはずだ。田植えが終わっていない季節だ。なのに穂が垂れている。触ると硬い。指先に細い毛が刺さる感触がある。現実の稲だった。

季節のズレが、言葉より先に恐怖になった。ここでは時間が違うのか、それとも自分が違うのか、どちらでも気持ち悪い。

松明の群れは散っていった。村の方へ、田んぼの外へ、丘の方へ。狩りのように、手分けして動き出した。一部の火がこちらへ向かってくるのが見えた。

僕は息を殺し、水路へ移った。水に膝まで浸かって、身体を沈めた。泥が冷たい。ぬめりが足首に絡む。音を立てないように、歯を食いしばった。

足音が近づいた。話し声が聞こえた。今度ははっきり分かった。

「久しぶりの入り者だな」
「この時期に間に合って良かった」
「門を探せ。入口はそこだけだ」
「見つからなくても、この村は狭い。そのうち捕まる」

入り者。門。入口。捕まる。

僕のことだった。

言葉が意味として繋がった瞬間、胃がひっくり返った。自分が対象だと確信した。偶然ではない。迷いではない。見つけたのではなく、入ってきたのを待っていた。

松明の火が水面に揺れる。水路の上を火の匂いが通った。煙が見えないのに匂いだけがある。乾いた紙が焦げる匂いに、鉄みたいな匂いが混じっていた。

僕は動けなかった。動けば音がする。音がすれば終わる。

火が遠のいた。足音も遠のいた。だが安心できなかった。狩りは続いている。村は狭い、という言葉が耳に残った。狭いなら逃げようがない。

それでも動くしかない。出口は坂だと自分に言い聞かせた。あの紫の坂。門がそこなら、そこへ戻るしかない。

自転車は諦めた。稲の中に置いたまま、身体だけで動くことにした。田んぼの間を低くしゃがみ、松明のない方向へ進んだ。どこへ向かっているのか分からない。ただ遠ざかることだけを優先した。

すぐに分かった。村人の数が多すぎる。松明が、見えない場所にもある。火が消えたと思ったら別の火が現れる。音を立てずに動いても、包囲が狭まっていく。

限界だった。僕は立ち上がって走った。松明のない方向へ、とにかく走った。

叫び声が上がった。村人たちが一斉に動いた。火の海が追ってくる。足元の畦が崩れ、泥に足を取られ、転びかける。息が裂ける。喉が痛い。

背中に衝撃が来た。誰かに掴まれた。次の瞬間、複数の手が脚を絡め取った。地面に押さえつけられた。顔が泥に沈む。味がした。苦くて、腐った水の味だった。

縄の感触。目隠し。猿轡。腕が背中で締め上げられ、指先が痺れた。

引きずられた。土の上を、石の上を。どこへ連れて行かれるのか見えない。見えないのに、村人たちの息遣いだけは近い。誰も焦っていない。捕まえるのが日常みたいな手際だった。

耳元で落ち着いた声がした。

「今年は俺らが出さなくて済むな」
「去年は酷かった。これで、あのお方も」

名前が続いたはずだ。その部分だけ、何度思い出そうとしても霞む。音としては聞いた。だが文字にできない。頭の中で、その音だけが黒く塗り潰されている。

ただ、会話の意味は分かった。毎年、誰かを差し出している。村の中から出す年もある。今回は外から来た自分で済む。それだけだ。

どれくらい歩かされたか分からない。

目隠しの下で、光の方向だけが変わる。屋内に入った気配がした。湿った木の匂い、土壁の匂い、閉じた空気。

縄を解かれないまま、四角い狭い部屋に放り込まれた。扉が閉まる音。鍵の音。足音が遠のく。

猿轡のせいで唾が飲めず、喉が焼けた。息が苦しい。手足の感覚が薄れていく。眠ることもできない。時間が分からない。暗さだけが一定で、夜が続いているみたいだった。

水と少量の食べ物だけが与えられた。誰が入ってきたか分からない。目隠しは取られない。猿轡も外されない。口に水が流し込まれ、飲めなければ溺れる。そういう扱いだった。

恐怖は慣れない。慣れたふりが増えるだけだ。何度も心の中で「夢だ」と言った。言うたびに現実味が増した。

ある時、扉が開いた。いつものように誰かが入ってくる気配がした。食料だと思った。だが、その人の動きは違った。雑ではない。音を立てない。躊躇がある。

手が猿轡に触れ、ゆっくり外した。次に目隠しが解かれた。光が刺さって、目が痛んだ。涙が出て、視界が白くなる。しばらく何も見えなかった。

ようやく焦点が合った時、目の前にいたのは少年だった。

十五、六くらいに見えた。髪が短く、服は村人たちと同じような地味な色だが、袖口が擦り切れていた。顔つきが妙に落ち着いていて、目だけが子どもだった。目が怖かった。優しいようで、優しさの使い方を知っている目だった。

少年は水を差し出した。器は木だった。水は冷たく、喉を通った。生き返る感覚があった。それが余計に怖かった。助かる方向の感覚が、ここでは罠になる。

少年は小さな声で言った。

「大丈夫?」

大丈夫なわけがない。だが、言葉が出なかった。声が枯れていた。

少年は、僕の縄を解いた。完全には解かない。片手だけ自由にして、逃げられない形にした。その手際が慣れていた。

「騒がないで。声、聞こえる」

その言い方で分かった。少年も、ここで同じように扱われたことがある。あるいは今も扱われている。

僕は「ここはどこだ」と聞いた。少年はすぐには答えなかった。答えたくないのではなく、答え方を選んでいるみたいだった。

「分からない方がいい」

そう言ったあと、少年は部屋の隅を見た。壁でも床でもなく、空気の隅を見るような視線だった。

「外から入ってきた人、たまにいる。みんな、最初は帰れると思う」

僕は「帰りたい」と言った。声が震えた。自分の声が自分のものに聞こえなかった。

少年は頷いた。

「帰る方法はある。坂のところ。あそこは入口で、出口でもある」

僕は「門って言ってた」と言った。村人の会話を聞いたことを話した。少年は一瞬だけ眉を動かし、すぐ元に戻した。

「門って言う人もいる」

その言い方が気になった。言葉を統一しない。曖昧にする。意図的に、説明を避けている。

僕は「生贄って何だ」と聞いた。少年は答えなかった。代わりに、こう言った。

「今年は、外から来た人がいるから、村の人は少し楽になる」

僕は「じゃあ僕が」と言いかけた。少年は頷いた。

「そういうことになる」

淡々としていた。哀れみも怒りもない。事実を扱う手つきだった。そこが怖かった。人が人を差し出す話を、事実として口にできる環境。その環境が少年を作ったのだと感じた。

僕は「助けてくれるのか」と聞いた。

少年は、少し笑った。笑い方が子どもじゃなかった。人に見せるための笑い方だった。

「助けるって言うと、違う。僕も、ここから出たい」

その言葉で空気が変わった。少年の目的が、僕の救出ではなく、別のものだと分かった。少年は僕を道具にするかもしれない。だが、道具でも何でも、今は縋るしかない。

少年は囁くように言った。

「坂に行く。今から。誰かが気づく前に」

「誰かって誰だ」

少年は答えない。答えないまま、僕の目を見た。弱々しい瞳に見えたのに、目の奥は乾いていた。

「いいから。走れる?」

僕は頷いた。

少年は扉の方へ耳を澄ませ、鍵穴に何か細いものを差し込んだ。鍵の音がした。扉が開いた。外は暗かった。廊下は土壁で、灯りがない。なのに、どこかから松明の光が揺れていた。

少年は僕を先に出した。自分が後ろにつく。逃げるなら先に出すのが自然だが、ここでは逆に感じた。先に出して、僕が何かに捕まるのを見届けるつもりにも見えた。

廊下を進む。湿った匂い。足音が吸われる。遠くで人の声がする。言葉は分からない。意味が入ってこない。

外へ出た。夜気が刺さった。空が近い。星がない。雲でもないのに、黒が厚い。

少年は僕を田んぼの方へ誘導した。畦道を走った。稲が揺れた。稲の影がこちらへ伸びた気がした。影が伸びる速度が、走る速度と同じだった。

「止まるな」

少年が言った。

僕は息が切れ、足がもつれた。転びかけた時、背中を押された。少年の手だった。助けたというより、転ばせないように押しただけの力だった。

遠くで松明が動いた。火がこちらへ向かってくる。見つかったのかもしれない。少年が叫ばないことが怖かった。普通なら焦る。焦らないということは、予定の範囲内だ。

坂が見えた。あの紫の坂だ。昼間に下りたはずの道が、夜の中に口を開けていた。入口の空気が違う。風が逆向きに吹いている。冷たいのに、汗が増える。

少年が坂の手前で止まった。

「ここから、一気に登る」

「一緒に来ないのか」

少年は首を振った。

「僕は、今は無理」

「なんで」

少年は、少しだけ口を開いた。言いかけて、閉じた。代わりに、変なことを言った。

「上に出たら、振り返るな。何があっても」

典型的な忠告だ。だから怖い。典型的な言葉が出る場所は、典型的な死に方をする。

僕は「君はどうなる」と聞いた。

少年は答えず、僕の手首を握った。指が冷たかった。手首に泥がついた。その泥の冷たさだけが、現実だった。

少年は囁いた。

「忘れるな」

その言葉が、僕には命令に聞こえた。

次の瞬間、背中を押された。今度ははっきり押された。僕はよろけるように坂へ踏み込み、走り出した。

坂を登った。息が切れた。

脚が痛い。終わりがないのではないかという恐怖が再び来た。だが、今回は終わりが来た。

視界が一瞬、紫に滲んだ。膜が戻ってきた。耳が詰まり、気圧が変わったみたいに頭が痛んだ。

次の瞬間、団地のコンクリの匂いがした。

企業団地の道に立っていた。

街灯が点いていた。看板の文字が白かった。遠くに車の音があった。さっき見た石の風車が、同じ場所にあった。羽は相変わらず動いていない。

戻った。戻ったのだと思った。

だが、戻った理由が分からない。坂を登ったから戻ったのか。少年が何かしたのか。そもそも少年が存在したのか。あの部屋はどこにあったのか。全部、説明がつかない。

僕は家へ帰った。鍵を開ける手が震えた。部屋はいつも通りだった。電気を点けると、壁のシミまで現実に見えた。

泥だらけの服のまま倒れた。気絶みたいに眠った。

目を覚ました時、携帯が鳴っていた。画面には大量の不在着信。メールも山のように来ていた。日付を見て、吐きそうになった。

一週間以上が経っていた。

部活の同期から、大学から、バイト先から、家族から。全部、僕を探していた。警察に相談するというメッセージもあった。僕は「体調を崩して寝込んでいた」とだけ返した。嘘ではない。嘘ではないが、事実でもない。

身体が痛かった。腕や足に細い傷。縄の痕みたいな赤い線。水路で擦ったのかもしれない。稲で切ったのかもしれない。どれも説明できる範囲に見えた。説明できる範囲に見えることが、余計に気持ち悪い。

村のことは、少しずつ薄れていった。思い出そうとすると、頭の奥が拒む。紫の膜だけが、たまに視界の隅に出た。夕方の空を見ると、膜が重なる。そういう時は、家から出ないようにした。

それでも年月が経つと、人は自分を騙す。夢だったのだと思うようになる。偶然、別の村に迷い込んで、怖くて盛ったのだと。そうやって自分の中で整えた。整えた瞬間、安心が来る。その安心が、違和感とセットで来る。

数年後、夢を見た。

あの少年が出てきた。

暗い部屋でも廊下でもない。田んぼの中でもない。どこか分からない暗闇に、少年だけが立っていた。顔ははっきりしないのに、目だけは見えた。弱々しい瞳だった。助けを求めているように見えた。

そして、少年は僕に向かって言った。

「忘れるな」

夢から覚めた瞬間、その言葉だけが耳に残っていた。耳に残るというより、耳の内側に刻まれた感じだった。

その日から、村の記憶が一気に戻った。戻ったのは映像だけじゃない。匂い、触感、身体の痛み。水路の冷たさ。稲の毛の刺さり方。松明の匂い。煙がないのに匂いだけがある、あの不自然さ。

そして、同時期に知った。大学の後輩が、企業団地での短期バイトをきっかけに失踪したこと。団地のどの会社かまでは知らない。ただ、夜勤がある仕事だったらしい。最後に目撃されたのが、団地の裏手の道だという話だけが残った。

僕は、直感した。理由はない。だが、直感だけは確かだった。

後輩も、入った。

僕は、その夜から、夕方の団地の道を避けるようになった。だが避ければ避けるほど、視界の隅に紫が出る。紫が出るたびに、身体が勝手にそちらへ向こうとする。あの日と同じだ。身体が勝手に決める。

ある夕方、散歩中にふと気づいた。団地の主道から見えるはずの小道が、見えなくなっていた。そこにあったはずの分岐が、なかった。工事で塞がれたのかと思って近づいた。だが、工事の痕跡はない。道が最初から存在しなかったみたいに、草が生えていた。

その草の上に、一本だけ、縄が落ちていた。細い縄だ。藁縄みたいな色。手に取ろうとした瞬間、指先が震えて止まった。

縄の端が、濡れていた。

水ではない匂いがした。泥でもない。鉄に近い匂い。

僕は縄を拾わず、その場を離れた。振り返らなかった。振り返るな、という言葉が頭を支配したからだ。あの少年の命令だった。

家に帰っても、手首が冷たかった。握られた感触が残っていた。

今も、夕方になると紫が出る日がある。視界の縁だけが滲み、焦点が微妙にズレる。そういう日は、家の鍵を二回確かめる。携帯の充電を満タンにする。何の役にも立たないと分かっているのに、そうする。

少年の名前も、祀られていたものの名前も、思い出せない。そこだけが黒く塗り潰されている。だが、思い出せないから安全だとは思えない。むしろ逆だ。名前がないということは、呼ばなくても来るということだ。

これを書き終えたら消すつもりだ。消せないかもしれない。そもそも、誰かに読まれるかどうかも分からない。

ただ一つ確かなのは、入口は一つだということだ。入口があるなら、また繋がる。

そしてもう一つ確かなのは、僕は一度、帰ったのではなく、戻されたのだという感覚が消えないということだ。

戻された人間には、次がある。

(了)

[出典:1: 名無しさん 2014/04/17(木)00:39:54 ID:nAyBccxrT]

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