三年前、一人暮らしをしていたときの話。
仕事を終え、疲れた体を引きずるようにしながら夜九時頃に帰宅した。湿った空気が肌にまとわりつき、周囲は静寂に包まれている。鍵を回して玄関を開けた直後、不意にインターホンが鳴った。驚きとともに警戒心が芽生える。こんな時間に誰だろうと思いながらドアを開けると、四十代くらいの女性が立っていた。薄暗い照明の下で、その表情ははっきりと見えない。宗教の勧誘か何かかと警戒しつつ「はい?」と尋ねると、女性は扉の隙間から部屋の中を覗き込もうとしながら言った。
「ここってス〇ップの木村た〇やさんの家ですか?」
確かに私の苗字は木村だが、まさかそんな有名人と間違えられるとは思わなかった。
「いや、違いますけど……」
そう否定してドアを閉めようとした。しかし、女性は勢いよくドアを押さえつけ、目を大きく見開きながら叫んだ。
「本当に? 隠してませんか? 本当はた〇やいるんでしょ!?」
突然の異常な言動に背筋が凍った。このまま押し入られるかもしれないと恐怖を感じ、慌てて女性を外へ押し出そうとした。しかし、彼女はヒステリックに叫び続けた。
「触らないで! た〇やー! いるんでしょ!? た〇やー!」
何が起こっているのか理解できず、必死にドアを閉めながら叫んだ。
「やめろ、警察呼ぶぞ!?」
すると、女性はピタリと動きを止め、怯えたような表情を浮かべると、足早にその場を去っていった。
都会には変な人が多いなと思いながらも、妙な違和感が心に引っかかった。もしかすると、あの女性はまだ近くにいるのではないか。そんな考えを振り払うようにして、その日はしっかりと戸締まりをし、何度も鍵を確認した。しかし、眠りについた後もどこかで物音がしたような気がして、何度か目を覚ましてしまった。不安が拭いきれないまま朝を迎えたが、そんな不安はすぐに現実のものとなることになる。翌日も事件は続いた。
翌日、帰宅するとアパートの入り口付近、通りからは死角になる場所に昨日の女性が立っていた。隣には中学生くらいの少女がいた。私の姿に気づくと、少女が叫んだ。
「た〇やに会わせて!」
驚いて足を止めると、女性の手には細身の包丁のようなものが握られていた。
「た〇やを出せ!! 出さないと殺すっ!!」
その声は狂気に満ちていた。恐怖で凍りつきながらも、反射的に自分の部屋へと駆け込んだ。鍵を震える手で回し、施錠する。
恐怖と混乱が入り混じり、頭が真っ白になった。心臓の鼓動が耳の奥で響き、全身が冷え切るような感覚に襲われる。ただ座り込んだまま、何も考えられず、ただ震える手を握りしめることしかできなかった。時計の針は確かに進んでいるはずなのに、時間が止まったような感覚があった。ようやく我に返り、震える指でスマートフォンを掴むと、警察に通報しようと決意した。部屋の電気をつけ、カーテンを閉めようと窓に近づくと、そこに女性と少女が張りついていた。白目がちに目を見開き、こちらを凝視している。
「た〇やに会わせろ! た〇やを出せ!!」
窓を狂ったように叩きながら絶叫する二人の姿に、私は恐怖のあまり「うわあぁぁ!」と悲鳴を上げ、慌てて警察に電話した。震える声で事情を説明すると、警察は「すぐに警官を向かわせるので鍵を閉めて待っていてください」と指示してくれた。
部屋の隅にうずくまり、震えながら掃除用のブラシを武器代わりに握りしめる。長い時間が過ぎたように感じたが、五分ほど経った頃、外から怒鳴り声が聞こえた。
「コラー! 何してるー!」
警察の到着だ。インターホンが鳴り、「木村さん? 警察です。もう大丈夫ですよ」と声が聞こえた瞬間、全身の力が抜けた。
その後、警察署で事情を説明したところ、女性はすでに逮捕されていた。同じアパートの住人からも被害届が出されていたらしい。そして、少女は親戚に引き取られることになったという。
私は数日間、常に緊張を強いられ、落ち着くことができなかった。外を歩けば誰かがこちらを見ているような気がし、物音がするたびに心臓が跳ねた。夜になると、ベッドの中で何度も天井を見つめ、眠りにつくことができなかった。アパートの管理人に事情を話し、玄関や窓の補強を検討したものの、それでも不安は消えなかった。いつまたあの女性が現れるかわからないという恐怖が、日常のすべてを支配していた。結局、私はこの場所を離れるしかないと決意し、引っ越しを決めた。
引っ越し先では、防犯対策を強化し、誰が訪問しても簡単にドアを開けないようにした。インターホンのモニター越しに相手を確認し、宅配便ですら慎重に対応するようになった。夜になると、カーテンをしっかり閉め、少しの物音にも敏感に反応してしまう。外を歩く際も周囲を警戒し、なるべく人気のある道を選ぶようになった。あの事件以来、普通の日常を取り戻すことができないまま、過ごす時間が続いている。この事件は、私にとって忘れられない恐怖体験となった。
(了)
[出典:2009/05/29(金) 06:14:06 ID:t4aiec1gO]