事の発端は、夫が風邪をひいて寝込んだことだった。
七月の終わり、土曜日の夜。久しぶりに二人で外出し、帰宅した直後、夫は玄関で立ち止まり「寒い」「頭が割れそうだ」と訴えた。顔色は悪く、手足が異様に冷たい。熱を測ると微熱だったが、しばらくして急激に上がり、三十九度を超えた。市販薬が使えない体質のため、夜間診療へ連れて行った。診断は風邪。医師の声は淡々としていて、処方箋もごく普通のものだった。
帰宅後、夫は薬を飲むとすぐ眠りに落ちた。呼吸は安定し、うなされる様子もない。その安堵から、私はリビングのソファで横になり、いつの間にか眠っていた。
目が覚めたのは、かすかな声を聞いた気がしたからだ。夢と現実の境が曖昧な状態で耳を澄ますと、その声は寝室から続いている。
夫が、何かを口ずさんでいた。
意味の取れない言葉が、途切れ途切れに流れてくる。旋律と呼べるものかどうかも分からない。ただ、一定の抑揚があり、繰り返されていた。
「……すみのはに……とうとうと……」
眠っているはずの夫の声だった。音程は不安定で、子守歌にも、呪文にも聞こえた。私はしばらく扉の前で立ち尽くしていた。入るべきか迷い、氷枕を替える理由を無理やり作って寝室に入った。
近づいた瞬間、夫は歌をやめた。目を閉じたまま、深い呼吸をしている。起こしたわけではない。触れたわけでもない。ただ近づいただけで、音が消えた。
その静けさが、異様だった。
翌朝、夫は何事もなかったように起き、熱も下がっていた。昨夜のことを話しても、覚えていないと言う。夢だろうと軽く笑った。その態度が、私の中に小さな違和感を残した。
それから数日後の朝。ベランダでタバコを吸う夫が、独り言のように何かを呟いた。
低く、はっきりとした声だった。
「……ねだやし……」
聞き間違いではない。その語感が、妙に耳に残った。問いただすと、夫は首をかしげ、自分が何を言ったのか分からない様子だった。無意識に出た言葉だとしたら、あまりに明瞭すぎる。
八月に入り、夫の友人が泊まりに来た夜、私は再びあの旋律を聞いた。
浴室から聞こえてきたのだ。鼻歌のように軽く、しかし確かに、あの抑揚だった。言葉も似ていた。夫を呼び、二人で耳を澄ましたが、気配に気づいたのか、音は止んだ。友人は歌っていないと言い、嘘をついている様子もなかった。
その夜、私はほとんど眠れなかった。
お盆に夫の実家へ帰省した。古い家系だと聞いてはいたが、具体的な話は誰もしない。夜明け前、隣で寝ていたはずの夫がいないことに気づき、居間へ向かうと、彼は畳の上で正座していた。
目は開いていたが、焦点が合っていない。
声をかけると、しばらくしてこちらを見た。その表情には、怯えと困惑が混じっていた。
「……お前、俺が『ねだやし』って言ったって言ってたよな」
頷くと、夫は続けた。
「さっき、夢を見た。女がいた。長い髪で、顔の色が……分からない。白い着物だった気がする。でも、見たっていうより、聞いた感じだった」
それ以上、詳しくは語らなかった。いや、語れなかったのかもしれない。言葉にしようとするたび、何かを確かめるように口を閉ざした。
「……昔も、似た感じのことがあった気がする」
それだけ言って、夫は立ち上がり、何事もなかったように布団に戻った。
自宅に戻ってからも、日常は続いた。夫は普通に働き、笑い、眠った。ただ、あの旋律だけが、夜になると繰り返された。
はっきり聞こえることもあれば、耳鳴りのように感じることもある。夫を起こすと止む。起こさなければ、最後まで歌われる。
ある夜、私は気づいた。
その旋律を、私自身が覚えてしまっていることに。
口に出そうとすると、どこかで踏みとどまる感覚がある。言葉の意味は分からない。それでも、続きが「分かる」。
それが一番、怖かった。
この話を書いている今も、寝室から微かな音が聞こえている。
夫の声か、自分の耳鳴りか、判断はつかない。
ただ、あの言葉だけは、はっきり分かる気がする。
誰の声であっても。
[出典:418 本当にあった怖い名無し 2009/09/14(月) 13:15:32 ID:AVblIAaP0]