母の話をする。
母は地方の女子高で教師をしていた。そこは噂だけで人が眉をひそめる学校だった。暴力団の家の娘や、宗教団体の幹部の子供が在籍し、警察の出入りも珍しくない。赴任早々、母はその現実を目の当たりにした。
借金のかたに娘を差し出す親。自分の商売に子を沈める親。見て見ぬふりをする教師も多かったが、母は踏み込んだ。夜の路地に入り、少女を抱えて走った。玄関を蹴破り、泣き声を背に逃げた。職員室では無謀だと笑われたが、母は止まらなかった。
異変はその後に始まった。
本来なら報復があるはずだった。あの学校では、教師を殴る親も、脅す親も日常だった。だが母に向けて怒鳴り込んできた者は一人もいない。怒りをあらわにした者ほど、不可解な目に遭った。事故死。突然の失踪。逮捕。刃を向けようとした者から順に、消えていった。
偶然とは言い難かった。
やがて霊能者が母のもとを訪れた。母の背後に何かがいる、と。だが彼らも無事では済まなかった。発狂した者、行方不明になった者、そして遺体で見つかった者。腹を裂かれ、内臓を撒き散らした姿だったという。母はその話を聞いても取り乱さなかった。ただ黙り、翌日も教壇に立った。
結婚し、私が生まれてからも変わらなかった。呪詛の手紙が届いたこともある。藁人形が玄関に打ちつけられたこともある。だが送り主は次々に破滅した。呪いは母に届く前に、発した者を喰った。
ある夜、祖父が母に告げた。
「教員は辞めろ」
祖父は元拝み屋だった。冗談を言う顔ではなかった。母はしばらく渋ったが、やがて退職した。
その夜、祖父は私に言った。
「お前の母は人柱だ。一番恐ろしいもののな」
一族は代々、神社に仕えてきたという。だが仕えるとは、祀ることではない。封じることだと祖父は言った。悪用されれば手がつけられないものを、人の魂で縛る。そのために選ばれる者がいる。
「お前の母は、もうそれそのものに近い。呪われる側ではない。呪いを喰う側だ。目覚めたら止められん」
祖父はそこで言葉を切り、私を見た。
「そしてお前もだ。二番目に恐ろしいもののな」
何を封じているのか。なぜ順番があるのか。祖父は答えなかった。語らぬまま亡くなった。
親戚の神主に問いただしたこともある。彼は淡々とした声で言った。
「心配はいらない。一族がついている。護られている」
護られているのか。囲まれているだけなのか。判断はつかない。
母は今も静かに暮らしている。私も平穏に働き、眠り、朝を迎える。何も起きていない。だが夜更け、胸の奥が疼くことがある。誰かが内側からこちらを覗いているような感覚だ。
夢を見る。血で濡れた床。散らばる臓物。その中央に立つ自分。背後から名を呼ぶ声がする。母の声に似ているが、もっと古い響きが混じっている。振り返る前に目が覚める。
目覚めたら止められない、と祖父は言った。
目覚めるのは母なのか。それとも私なのか。
いまはまだ、何も起きていない。
ただ、起きていないことだけが、妙に重い。
(了)