窓の外に差し込む夕焼けを見ると、今でも胸の奥がざわつく。
あれは夢ではなかったと思う。そう言い切りたいのに、思い返すたび、現実のほうが少しずつ剥がれていくような感じがする。
うちの家系には、昔から妙な話がついて回った。母は人の嘘を見抜くことがあり、兄たちも夜中に何かを見るだの、入っただけで気分の悪くなる部屋があるだのと平然と言っていた。父だけはそういう話を嫌い、気のせいだの疲れだのと片づけていた。
私だけは何もなかった。兄が「この部屋はだめだ」と青い顔をしていても、私はその隣で眠れた。自分には無関係なことだと思っていた。
それが変わったのは、高校に入る少し前、実家の隣に寺が建ってからだった。
最初は、夜中にふっと目が覚めて、体だけが動かなくなる程度だった。金縛りと呼べばそれで済むのかもしれないが、ただ動けないだけではなかった。暗い部屋のどこかで、女の笑い声がした。クスクスという軽い声なのに、耳元まで来ると湿って聞こえる。しかも、私の名前を知っていた。
一度だけ、その声がすぐ枕元で囁いたことがある。呼び捨てだった。
その瞬間、足先から頭まで一気に粟立って、体が動くようになった途端、私は自分の部屋を飛び出した。母の布団にもぐり込みながら泣きそうになっていたのを覚えている。翌朝話すと、母は真顔になって塩を小皿に盛り、部屋の四隅に置いた。父は呆れた顔でそれを見ていた。
塩はいつの間にか湿って固まり、お札は気づくと端からめくれていた。効いたのかどうか分からないまま、金縛りだけは忘れた頃にまた来た。
いちばんはっきり覚えているのは、夕方だった。
自分の部屋で、何の気なしにテレビを見ていた。窓の外は赤く、部屋の中のものすべてが少しだけ古びて見える時間だった。急に、テレビの音だけが妙に大きくなった。リモコンを探そうとしたところで、体が止まった。指先一本動かない。喉も閉じたみたいになって、息だけが浅くなる。
窓のほうから、何かが入ってくる気配がした。
風ではない。音もしない。ただ、閉まっているはずの窓から、部屋に入ってはいけないものが一つ増えたのだけは分かった。
次の瞬間、全身に重みが落ちてきた。誰かが胸の上に飛び乗ったような、鈍い圧迫だった。息が詰まり、視界の端が暗くなった。頭の中で、母が教えてくれた言葉でも何でもいいから唱えようとしたが、言葉にしようとするたび、顔の上に大きな手が被さってきた。口も鼻も塞ぎきらない、妙に骨ばった手だった。
指の隙間から、顔が見えた。
髭だらけで、髪を頭の上で結った男だった。時代劇の浪人にしか見えないのに、肌の色だけが生きている人間の色ではなかった。赤い夕日が差しているはずなのに、その顔だけ光を受けていなかった。
見た瞬間、恐怖より先に腹が立った。
何度も来るものの正体が、やっと顔を見せた。その途端、怖いというより、勝手に人の部屋へ入ってきて上に乗っていることが急に許せなくなった。
私は喉が塞がっているはずなのに、声を振り絞った。
「うおおおおお!」
叫んだつもりだった。実際に声が出ていたのかは分からない。ただ、男の目だけははっきり動いた。驚いたように私を見た。次の瞬間、顔も手も、煙みたいに薄くなって消えた。体は自由になり、私は跳ね起きた。その勢いのまま窓際まで行って、誰もいない外へ向かって「待てこの野郎」と怒鳴っていた。
それからしばらくは、金縛りに遭うたび先に怒るようになった。怖くないわけではない。ただ、怯えると向こうが近づいてくる気がした。
そんな話を、ある日友人と電車の中でしていた。
放課後の下り電車で、車内はそれほど混んでいなかった。友人は面白がって、「で、その浪人は毎回来るの」「顔って毎回同じなの」と根掘り葉掘り聞いてきた。私は半分うんざりしながら答えていた。
そのとき、すぐ後ろから声がした。
「それはね、帰れないからよ」
振り向くと、六十代くらいの女性が座っていた。いつからそこにいたのか分からない。柔らかく笑っていたが、目元だけ妙に疲れて見えた。
私が言葉を失っていると、その人は当然のことのように続けた。
「助けてほしくて来るの。間違ってる場所にいるから」
友人はこういう話が好きで、すぐに身を乗り出した。「何が間違ってるんですか」「どうすればいいんですか」と矢継ぎ早に聞く。女性は私だけを見ていた。
「来たらね、言ってあげればいいの。ここは違う、お帰りなさいって」
低い声だった。諭すようでもあり、言い聞かせるようでもあった。
友人が笑いながら、「この子、そういうの呼びやすい体質なんですかね」と言うと、女性は少しだけ首をかしげた。
「呼んでるんじゃないのよ」
そこでいったん言葉を切った。
「見つかってるの」
その一言だけ、妙に耳に残った。
私は何と返していいか分からず黙っていた。女性はなおも穏やかな顔で、「家の古い人が知ってるはずだから、聞いてごらんなさい」と言った。次の駅で扉が開き、乗り降りの人で視界が一瞬塞がれた。もう一度見たとき、女性はいなかった。降りた姿も見ていない。
友人に「あの人、知り合いじゃないよね」と聞くと、「誰のこと」と返された。
ふざけているのかと思ったが、本気の顔だった。後ろの席にいた女の人、と言っても、友人は首を振るばかりだった。あの時間、私たちの後ろはずっと空いていたと言い張った。
家に帰ってその話をすると、母は少し黙ったあと、古い物置から紙の束を持ってきた。祖父が生前にまとめていた家の記録らしかった。系図というほど整ったものではなく、墨で名前や続柄が書き足されているだけのものだった。古い欄外に、小さく何かの役目のような文字が残っていたが、擦れていてよく読めなかった。母は「昔、神さまのことを手伝っていた人がいたとは聞いた」とだけ言った。
その晩、母が祖父の遺品の引き出しから一枚の白い紙を出してきた。折り目のついた半紙で、墨で短い言葉が書いてあった。
きよめたまひはらいたまへ
祖父の字かどうかは、私には分からなかった。
母は「持ってなさい」とだけ言った。理由は説明しなかった。私も聞かなかった。
その紙を机の引き出しに入れてから、前みたいな金縛りは減った。まったくなくなったとは言えない。ただ、気配だけで終わる夜が増えた。耳元まで来ていた声は、遠くで誰かが話しているような曖昧な音に変わった。
それでも夕方だけは駄目だった。
赤い光が部屋に差し込むと、私は無意識に窓を確認する。鍵が閉まっているのを見ても、安心はしない。あの時間だけ、外と中の境目がゆるむ気がするからだ。
大学に入って実家を離れる時、引き出しの中の紙も持って行こうとした。だが、そこには入っていなかった。母に聞くと、最初から渡していないと言った。そんなもの知らない、とまで言った。
言い争いになりかけて、私は紙のことを説明した。白い半紙に、あの言葉が墨で書いてあったこと。祖父の遺品の引き出しから出したこと。すると母は変な顔をした。
「それ、おじいちゃんの字じゃないよ」
祖父は旧仮名を使わなかった。そう言われて、私は返事ができなかった。たしかにあの紙には、「きよめたまい」ではなく「きよめたまひ」と書いてあった。
その夜、どうしても気になって、当時使っていた通学用の鞄を押し入れから引っ張り出した。底の布の切れ目に、折れた紙片が挟まっていた。白ではなく、少し黄ばんでいた。開くと、墨がにじんでいて、もう半分ほど読めなかった。
それでも、一行だけは残っていた。
ここは違うよ、お帰りなさい
あの電車で、あの人が私に教えた言葉だった。
けれど、その文字は、私の覚えている丸い女文字ではなかった。紙いっぱいに大きく、乱暴なくらい強い筆で書かれていた。男の字に見えた。しかも、最後の一画だけが妙に長く、引きずるように下へ伸びていた。
どこかで見た形だと思った。
それからしばらくして気づいた。夕暮れの部屋で、私の顔を押さえていた、あの大きな指の爪の形にそっくりだった。
今でも、夕焼けを見ると胸がざわつく。
あの人は助けに来たのかもしれないし、違うのかもしれない。
ただ一つ分かっているのは、私はあの日から、気配に向かって「お帰りなさい」と言うようになったということだ。
誰に対して言っているのかは、自分でも分からない。
[出典:616 :本当にあった怖い名無し:2010/03/27(土) 21:59:28 ID:Ia1evdyp0]