あの夜の匂いを、いまも思い出せる。
湿った床と油の混ざった、古い揚げ物のような匂いだ。あの工場で働いていたころの、秋の終わりの話になる。
地方の小さな惣菜工場だった。レシピはすべて本部指定、作るのは日替わりの総菜。容器に詰め、ラベルを貼り、大手メーカーの名を冠して出荷する。外から見れば「有名ブランドの味」だが、中身は疲れ切った数人の手で支えられている。機械は古く、ラインはよく止まり、人は慢性的に足りなかった。
その年の秋、納期が異常に詰まった案件が入った。取引先の都合で一日も動かせないと言われ、現場は連日残業になった。毎日六時間以上の延長作業。気づけば時計は二十二時を回り、帰宅しても頭の中でコンベアの音が止まらない。
誰かが遅れれば全員が沈む。そういう緊張が、現場を縛っていた。疲労で指先の感覚が鈍り、賞味期限の印字を確認する目も霞む。それでも手を止められなかった。
その夜、私は帰宅して制服のまま布団に倒れ込んだ。眠りというより、底の見えない穴に落ちた感覚だった。
夢を見た。
工場にいる。誰もいない夜のラインで、私ひとりが作業している。容器を流し、惣菜を詰め、ラベルを貼る。機械のランプだけが点滅し、蛍光灯は半分消えている。湿った床の冷たさ、油の匂い、指に触れるシールの粘着まで、現実より鮮明だった。
終わりがなかった。同じ動作を繰り返し、ただ数字だけが増えていく。印字された賞味期限が視界に入る。そこにある日付は、なぜか一日先だった。
「違う」と思った。だが手は止まらない。私は黙々と貼り続けた。
目が覚めたとき、体は休まっていなかった。むしろ、筋肉が硬直し、関節が軋んでいる。夢の中で何十時間も働いた後のような疲労が残っていた。時計を見ると、出勤まで余裕はない。遅刻はできない。無理やり体を起こし、工場へ向かった。
現場は朝からざわついていた。
「昨日の夜、誰か残ったか?」
誰も残っていない。だがラインの記録上、ありえない量が処理されていた。生産数が、異常な速度で積み上がっている。夜間作業のログはない。防犯カメラも、なぜか該当時間帯だけノイズだらけだった。
「社長が来たんじゃないか」
誰かが冗談めかして言った。だが社長が深夜に手伝うはずがない。夜勤要員もいない。それでも、製品は確かにそこにあった。
「助かったな。間に合うかもしれない」
疲弊した顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
そのとき、品質管理の担当者が走り込んできた。顔色が明らかに違う。
「昨夜の分、全部廃棄です」
理由は単純だった。賞味期限の印字が一日ずれている。全数が不良扱い。やり直し。納期は守れない。
工場の空気が凍った。誰も声を出さない。怒りも嘆きも出ない。ただ、数字だけが頭の中で反芻される。一日。たった一日。
私は吐き気を覚えた。
夢の中で見た日付と、同じだった。
偶然かもしれない。疲労で見た幻かもしれない。だが、あの夜のラインに立っていた感覚は、夢と言い切れない重さを持っている。指先に残る粘着の感触が、現実のように生々しい。
それ以来、眠るのが怖い。
横になると、暗い工場のラインが浮かぶ。誰もいないはずの夜の現場。自分の体が、眠っている間にどこかへ行くのではないかという感覚。もし次に数字を間違えたら、書き換わるのは製品の期限ではなく、自分の側ではないのか。
目覚めた朝のほうが、夢より現実らしくない。
あの夜、作業していたのは誰だったのか。
そして今、眠っているあいだに何をしているのか。
私は確認する術を持っていない。
[出典:789 :本当にあった怖い名無し:2019/08/18(日) 05:29:53.03 ID:P4C7wI9V0.net]