あれは、もう随分前のことになる。
けれど、骨の奥にまだ痛みが残っているせいで、決して忘れることはできない。
ある日の朝、いつも通りの通勤経路を歩いていた。慣れた道だし、特別なことはなにもなかった。空も曇り気味で、どちらかといえば少し眠気を引きずったまま。そんな瞬間に、車が飛び込んできた。避ける暇なんてなかった。肉が裂けるような音と、骨が砕ける感覚だけがはっきりと記憶に残っている。
気がついたときには病院のベッドの上だった。身体のあちこちにチューブを繋がれ、言葉もすぐには出なかった。医者の表情は重く、どうにか助かったことを告げられた。瀕死の状態だったらしい。
なのに、不思議と「死んでしまった」という感覚はなかった。生き残ったんだ、と。それが最初の安堵だった。けれど、その安堵は長く続かなかった。
事故の加害者は、まだ十九歳の若造だった。だが最初に耳にしたのは、そいつが救急車を呼ぶより先に、俺の身分証をどこかに隠したという話だった。身元不明にすれば賠償金が安く済むから、らしい。
俺はベッドの上で動けず、ただその話を聞かされるしかなかった。怒りよりも、理解できないという感情の方が強かった。どうしてそこまでして、自分の罪を軽くしようとするのか。人の命よりも安い金額にしか見えなかったのか。
しかし、俺の身元はすぐに判明した。なにしろ、毎日同じ経路を通勤していたのだ。通りかかった人々が「見慣れた顔だ」と証言してくれた。隠された身分証は無意味に終わった。
そのときはまだ、これで正しく裁かれるだろうと思っていた。世の中の仕組みが、俺を守ってくれると信じていた。
けれど、待っていたのは逆だった。加害者の両親が病室に現れ、「まだ子供のしたことだから」と繰り返した。あろうことか警察までが、「動転していたんだ」「アンタが意固地すぎる」と言い放った。俺の受けた傷の痛みより、その言葉のほうが鋭く突き刺さった。
助けてくれるはずの存在が、加害者の肩を持つ。俺は加害者ではないのに、まるで厄介者のように扱われた。
毎日毎日、病室には加害者の家族や警察が押しかけてきた。何を言っても話にならない。「示談にしろ」「大事にするな」と同じ言葉を繰り返す。俺は動けない身体で、それを聞き流すしかなかった。やがて病院側からも「転院してくれないか」と言われた。迷惑だ、と暗に告げられたのだ。
その瞬間、何かがぷつりと切れた。誰も味方をしてくれない。残るのは深い傷と、じくじくした怒りだけ。泣くこともできず、ただ怒りだけが血の代わりに全身を巡っていた。
やがて俺は、ある種の行為に手を出した。
正直に言えば、最初はただのやけっぱちだった。病院でじっとしているあいだに、何度も何度も「こんちくしょう」と呟いた。心の中で、声にならない呪詛を積み重ねていった。
ある日、加害者の母親がなぜか藁人形を持ってきた。神社で手に入れたのか、誰にそそのかされたのかは分からない。俺はそれを突き返しただけだった。けれど、それが「俺が呪った証拠」と周囲に信じられてしまった。
結果として、奇妙なことが次々と起こった。
加害者の父親が病気で入院し、母親はその見舞いに向かう途中で事故死した。父親も治りかけていたのに結局亡くなった。残されたのは加害者本人だけだった。
さらに俺を嘲笑うように見えた警察の人間たちも、次々と不幸に見舞われた。主要な四人は全員警察を辞め、その後、一人は自殺、一人は事故死。残る二人も重い病にかかり、薬と通院が欠かせなくなった。生き残った二人からは、震えながら謝罪を受けた。俺は「もうどうでもいい」と答えた。そう言うと、彼らは泣いた。
不思議なことに、死んだ人間のほとんどが、俺がこの事故で負った傷に関係して死んでいた。事故死した者は、俺と同じように片腕を失ったか、同じ臓器をやられていたと聞かされた。
偶然だと笑うには重すぎる一致だった。けれど俺は、深く考えないようにした。考えれば考えるほど、自分が本当に呪ったのかどうか分からなくなってしまうからだ。
加害者は生き残った。けれど、彼の周囲からは人が消えていった。親も祖父母も、親戚も、彼を恐れて縁を切った。かつて「ええとこの坊っちゃん」と呼ばれていた男は、今は安アパートに一人で閉じこもり、ほとんどニートのような暮らしをしている。
昨年の暮れ、偶然街で再会したとき、彼は俺の顔を見るなり怒鳴った。「おまえが死んどきゃよかったんだ!」と。彼はまだ反省などしていなかった。あの頃と同じように、責任を押しつけるだけの目をしていた。
俺は警察を呪ったわけではない。藁人形を打ち込んだこともない。ただ、動けない体の中でひたすら「こんちくしょう」と思い続けただけだ。それでも結果はこうなった。
だから、周囲は俺が呪ったのだと思っている。俺自身は、その解釈が間違っているとも正しいとも言わない。どちらでも構わない。どうせ俺は、奪われた身体を抱えて生き続けていくしかないのだから。
ただひとつ言えるのは、あの日の事故で壊れたのは俺の身体だけではなかったということだ。人を信じる心も、社会を頼る気持ちも、一緒に砕け散ってしまった。残ったのは、死者たちの影と、今も痛む傷跡だけだった。
(了)