長男以外の子供は一生結婚も許されず、世間との交流を絶たれ、家のためだけに働き続ける――。二十世紀まで日本に存在した「おじろく・おばさ」と呼ばれる因習。その背景には、山村特有の厳しい生活環境と人口制限の工夫があった。この奇習がどのように生まれ、続き、そして終わりを迎えたのか。その詳細に迫る。
日本における「おじろく・おばさ」という慣習は、二十世紀まで実在し、地域社会特有の社会構造の一例として注目に値する。この制度は、長男以外の家族が結婚や社会的交流を禁じられ、終生、家のために労働力を提供することを義務付けられたものである。その背景には、地理的条件や経済的制約が深く影響している。
日本の国土の約七割が山岳地帯であり、この地形的特性は多くの村々を外界から隔絶させ、各地域で独自の文化が形成される要因となった。たとえば、岐阜県の白川郷では、豪雪地帯という特性を活かし、合掌造りの家屋が発展した。また、山形県の山間部では、厳しい寒さに耐えるための漬物文化が栄えている。特に長野県南部の飯田地域は、その山深さと地理的孤立性が顕著である。平地はほとんどなく、道も整備されていないため、農業生産力が限られたこの地域では、家族を養うために厳しい選択を強いられた。こうした状況下で、旧神原村(現下伊那郡天龍村神原)では「おじろく・おばさ」と呼ばれる人口制限策が長期間にわたり採用されていた。
この制度の中核を成すのは、限られた資源の中で生計を立てるための家族内の役割分担である。家督を継ぐ長男のみが結婚や社会的活動を許され、それ以外の家族は労働力として従属的な立場に置かれた。例えば、長男は農作業や外部との交渉といった家全体の運営を担う一方で、次男以下の「おじろく」は、田畑の耕作や家畜の世話などの肉体労働を主に担当していた。娘たち「おばさ」は家事全般や幼い兄弟の世話、衣服の修繕といった家庭内の細かな作業を受け持ち、家全体の機能を支えていた。このため、彼らは「おじろく」や「おばさ」と呼ばれ、家庭内外で低い地位に甘んじなければならなかった。
「おじろく」として扱われた次男以下の男性、そして「おばさ」とされた女性たちは、家の指示に従い無報酬で労働を行う義務を負い、村社会からも孤立した存在だった。彼らの地位は家庭内でも極めて低く、戸籍上「厄介」と記載されることさえあった。さらに、村祭りや地域行事への参加も制限され、社会的な存在感を持たないような生活を強いられた。外部との接触が禁じられていたため、彼らは孤独で無口な性格となり、感情表現も乏しくなる傾向が見られた。
この慣習が長期にわたり維持された背景には、地域住民の価値観や社会的規範が大きく影響している。「長男以外はおじろくになるのが当然」という考え方が広く共有されていた。この思想は、家族単位での生存が最優先とされる厳しい環境の中で形成されたものである。資源が限られる中では、労働力を効率的に活用する必要があり、特定の役割分担が社会全体の安定に寄与すると信じられていた。さらに、外部との接触が少ない環境では、伝統的な価値観が次世代にそのまま受け継がれる傾向が強かった。また、掟を破り村を出る者がいても、外の世界での生活に適応できずに戻ってくるケースが多かったため、制度の維持に寄与する結果となった。
この因習は十六~十七世紀頃に始まったとされるが、明治維新以降も廃れることはなかった。明治五年の時点で、人口約二千人の神原村には一九〇人もの「おじろく・おばさ」が記録されている。また、昭和四〇年代に至っても三人が存命していたことが確認されている。このように、数世紀にわたって継続された慣習は、地域の生活文化や経済構造に深く根差したものであると言える。
この制度に関する詳細な研究として、『精神医学』一九六四年六月号に掲載された近藤廉治の調査報告が挙げられる。近藤は、当時存命していた「おじろく」二人と「おばさ」一人に取材し、彼らの精神状態を分析した。例えば、彼らが村祭りや地域行事に参加を許されず、他者と一切の対話を持たない生活を続ける中で、次第に自分の存在意義を見失っていったという具体的なエピソードが記録されている。彼らは日常的に話しかけても応答することがなく、感情表現も極めて乏しかったため、近藤は催眠鎮静剤であるアミタールを用いて対話を試みた。その結果、かつて兄弟や親戚に疎外された経験や、自身が家族の中で果たすべき役割への葛藤が語られた。この調査は、社会的孤立が個人の精神に及ぼす影響を考察する上で貴重なデータを提供している。
「おじろく・おばさ」という制度は、特定の地域における過酷な生活環境の中で形成された一つの適応戦略として理解されるべきである。しかし、現代の視点から見ると、それは人間の尊厳や自由を著しく損なうものであり、社会構造の不均衡を如実に示している。この歴史的事実は、過去の制度や価値観を再検討し、未来の社会構造を形成するための教訓として重要である。たとえば、地域社会における役割分担の見直しや、個々人の尊厳を守る制度設計が必要である。また、社会的マイノリティの声を積極的に取り入れる仕組みを構築し、彼らの生活や精神的健康を支えるための政策や支援が求められる。このような視点を持つことで、過去の教訓を未来に活かすことができるだろう。また、このような地域慣習の存在は、社会的マイノリティに対する包括的な理解と支援の必要性を示唆している。
以下、引用
耕作面積の少ない山村では農地の零細化を防ぐために奇妙な家族制度を作った所があった。
長野県下伊那郡天竜村では16-17世紀ごろから長兄だけが結婚して社会生活を営むが他の同胞は他家に養子になったり嫁いだりしない限り結婚も許されず、世間との交際も禁じられ、一生涯戸主のために無報酬で働かされ、男は『おじろく』、女は『おばさ』と呼ばれた。
家庭内の地位は戸主の妻子以下で、宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と書き込まれていた。かかる人間は家族内でも部落内でも文字通り疎外者で、交際もなく村祭りに出ることもなかった。■村の古老数人の報告
b)
数人のおじろくを知っていたが、結婚もせず一生家族のために働いて不平もなかった。
子供のころは普通であったが20才過ぎから無愛想な人間になり、その家に用事で行くと奥へ隠れてしまうものもあり、挨拶しても勝手に仕事をしているものもあり、話しかけても返事もしなかった。
おじろく同士で交際することもなかった。時におじろくがおばさの所へ夜這いにいったなどという話もあったが、こういうことは稀であった。
恐らく多くの者は童貞、処女で一生を送った。怠け者はなくよく働いた。■症例
a)女性
自分はばかだから字も読めないし、話もできないと劣等感を持つ。
近所へ遊びに行ったのは子供のときだけで、あとは暇もなかったし用事もなかった。
遊びに行きたいとも思わなかった。姉が死んでも別に悲しくもなかったが、死にかかった顔は痩せて気持ちが悪かった。
葬式にも行かなかった。
――この症例の姉が4年前食道癌で死んだとき嫌がるのを無理につれていったが表情も変わらず挨拶もせず涙も流さなかった。
帰宅後死んだ人はおっかなくて汚い、あんなものは見に行かぬ方がよかったというのみであった。もの心のつくまでは長男と同じように育てられ、ききわけができるような年齢に達すると長男の手伝いをさせ長男に従うように仕向けた。
兄にそむくとひどく叱られた。
盆、正月、祭りなどに親戚回りするのは長男で、他の弟妹たちは家に残っていた。
子供の頃は兄に従うものだという躾を受ける位のもので、とくに変わった扱いをされたわけではない。
この地方では子供が小学校に行く年頃になると畑や山の仕事をどんどんさせ、弟妹がいやがるとそんなことでは兄の手伝いはできんぞと親たちが叱った。
こうして折にふれて将来はお前達は兄のために働くのだということを教えこんでいたのである。
それで成長するに従って長男と違う取扱を受けるようになったが、それは割合素直に受入れられ、ひどい仕打ちだと怨まれるようなこともなかったようである。
親達は長男以外はおじろくとして兄を助け家を栄えさせるように働くのが弟妹の当然のことと考えていたので、子供たちをおじろくに育て上げることに抵抗を感じていなかったので、不憫だとも思わなかったようである。おじろく、おばさ達は旧来の慣習のために社会から疎外されてしまったものである。
それは分裂病に非常に似た点を持っている。
感情が鈍く、無関心で、無口で人ぎらいで、自発性も少ない。
しかし分裂病ほどものぐさではない。
かかる疎外者がいるとその家は富むといわれる位によく働くのである。
この点分裂病とちがう。
しかし自発的に働くというより働くのが自分の運命であると諦念しているようである。
こんなみじめな世界にくすぶっているより広い天地を見つけて行こうと志すものが稀なのは不思議であるが、田舎の農家には多かれ少なかれそういった雰囲気がある。
幻覚とか妄想があったようなものはないようであるし、気が狂ってしまったと言われる者もなかったそうである。
無表情で無言でとっつきの悪い態度をしていながら、こつこつと家のために働いて一生を不平も言わずに送るのである。
悟りを開いた坊主といった面白さもないし、ましてや寒山拾得といった文化遺産を残した者もない。
まことにつまらないアウトサイダーであり、ただ精神分裂病的人間に共通するところがあるという点で興味があるだけである。:[出典:近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」精神医学1964年6月号]]
追記:2024年02月09日(金)
私の母方の家が、その天龍村を切り拓き移り住んだ最初の家の一つなので、その地のことはよく知ってます。
16-17世紀からですか?
天龍村神原は15~16世紀に後藤六郎左衛門が開郷した場所なので、人が開拓しだした直後のギリギリのタイミングですよ?
ちなみに私の系列は長沼を開郷し後に神原の川向うに移り住んだ家です。家督を継いだ長男と兄弟では家も土地も大きな差があったのは事実ですが、兄弟が奴隷?ですか?
その地を詳しく書いた書物はあるのです。熊谷家伝記といいます。
そののちの話らしいですが、昭和初期は、林業で栄え映画館も複数あった場所で、商店街も賑わい学校の生徒も数百人の生徒がいた時代で今の過疎な村と風景が全く違いますので、今の村を見て書いてません?
熊谷家伝記
『熊谷家伝記』は、天竜川上流に位置する信濃(三重県)、三河(愛知県)、遠江(静岡県)の三国境にある山村落の編年的な歴史記録である。中世(南北朝時代)の山村落形成から近世中期(江戸時代)に至るまでの記録を含む。
この記録は、長野県下伊那郡天龍村の坂部を開郷した熊谷貞直の子孫である十二代目、熊谷直遐(なおはる、なおよし)が編纂したものだ。明和8年(1772年)に代々の当主が記録してきた資料をまとめたもので、中世山村史研究における重要史料とされている。さらに、柳田國男の『東国古道記』(1949年)で高く評価され、日本民俗学でも著名な史料である。
書誌情報
原本には、佐藤家蔵本と宮下家蔵本の二種類が存在する。佐藤家蔵本は、熊谷家15代目徳五郎が村民との争いに敗れた末、三河国河内村(現愛知県北設楽郡豊根村)の遠縁である佐藤家に寄寓した際に譲渡されたものである。一方、宮下家蔵本は徳五郎が密接な関係を持つ信濃国和合村(現長野県下伊那郡天龍村)の宮下家に渡したものである。
佐藤家蔵本は、山崎一司らによって愛知県旧富山村で復刻された。宮下本は信州大学教育学部の教員らによって抜粋・翻訳され、「信濃古典読み物叢書」の一冊となっている。両原本は市村咸人により校訂され、復刻版としてまとめられている。なお、熊谷家自体は没落後も復興し、現在もその末裔が天龍村に居住している。
一の巻
初代熊谷貞直に関する記録が記されている。熊谷直重の娘である常盤と新田義貞との間に生まれた熊谷貞直は、伯父の熊谷直方の養子となり、南朝=新田方に属した。しかし、新田義貞が手越河原の戦いで敗北した後、足利尊氏の追撃を避け、三河奥地の多田氏を頼った。
その後、多田氏とその女婿の田辺氏の支援を受けて、信濃国境の左閑辺(のちの坂部)を開拓し、文和年間には永住地とした。この「左閑辺」という地名は、平安時代末期に源義仲(木曽義仲)が当地を通過した際、宿泊した「左善・阿閑」という夫婦の名前から命名されたという。
熊谷氏の家紋は「寓生(ほや)に鳩」や「鳩に寓生」とされるが、『貞直記』では「蔦に鳩」と記されている。
二の巻
二代目直常、三代目直吉、四代目直勝に関する記録を含む。
直常は、初代貞直が住んだ源公平が狭く、要害にも適さなかったため、三河国境の佐太(さぶと、三分渡)を開郷。直常の許可を得て、村松正氏が見当・向方(天龍村神原)・新野(阿南町且開)、後藤六郎左衛門が福島(天龍村神原)をそれぞれ開郷した。
直吉は左閑辺に移住後、分内の風越山で金田法正が徒党を組んで侵入したため合戦が勃発。後に和議を結び、法正にも土地を分け与えた。また、関盛春への服属を勧誘されたが拒絶し、郷内の自衛に努めた結果、盛春は左閑辺に侵入しなかった。これにより、熊谷氏は「一騎立」として自領を守る姿勢を示した。
直勝は熊谷山長楽寺を創建。関氏とは敵対を続け、関氏が下條氏と争う一方で、熊谷氏は中立を保った。
三の巻
五代目直光に関する記録を含む。
熊谷氏は「一騎立」の立場を捨て、関氏四代目の関盛常に服属する。この際、左閑辺(さかんべ)は「左関辺」と誤記され、後に「坂部」と改称された。これは直光が関盛常に血判状を提出した際、盛常が提案したものだという。
直光が属した関氏は和知野川の戦いで下條氏を破る。しかし、関氏五代目国盛が横暴となり、領内郷主が離反して関氏は滅亡。領地は下條氏に服属した。その後、武田信玄に下條信氏が従い、熊谷氏も武田氏に臣従することとなる。
四の巻
六代目直定に関する記録を含む。
武田氏の軍役要求に対し、熊谷氏は遠征の意義を見出せず、物納により軍役を免除され、農業専業に移行した。この記録は兵農分離の一例を示すものとして注目される。また、武田氏や豊臣氏による検地についても詳細が記されている。
直定は天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、武田勝頼配下の下條氏の陣に従兄弟の蓮心(平谷玄蕃)がいたため見舞いに訪れ、武田方の敗戦を目撃。敗走する武田勝頼の道案内を務めた。この際、勝頼が通過した坂が「治部坂」と命名された。
五の巻
七代目直隆に関する記録を含む。
知久頼氏が豊臣秀吉の疑念を受けて一家離散となるが、頼氏の娘である千代鶴と千代が熊谷家に身を寄せる。武家の浮沈を厭った千代鶴は直隆の協力を得て夏焼を開郷、農家に転向。これがこの地域における最後の開郷記録となった。
千代は直隆に嫁ぎ、徳川氏配下となった下條氏長が所領を没収された際の様子や、徳川氏による惣検地の記録がある。また、直隆は名主職を得るが、家臣百姓が独立して本百姓となる過程も記されている。慶長年間の大坂の陣では飯田城で軍役を担った。
六の巻
八代目直祐、九代目直春、十代目直古、十一代目直昭に関する記録を含む。
村役人の座を熊谷家以外の者が占めるようになり、熊谷家の地位が低下。さらに、火災で館を失い、再建のため大角家に代々の記録を譲るなど、家運が衰退する様子が描かれている。
七の巻
十二代目直遐に関する記録を含む。
幼少期、家運が衰退していた直遐は寛延3年(1750年)から約4年間、江戸で放浪生活を送る。その後帰郷し、大角久之丞から熊谷家の記録を取り戻して改訂・編纂。これにより、熊谷家が持っていた諸権利を再発見し、村民にも認めさせることで、熊谷家の地位を復活させた。
系譜
桓武平氏の流れを汲む熊谷氏の系譜として以下が示される。
直貞(桓武平氏熊谷氏祖)━直実━直家━直国━直重(三河熊谷氏祖)━女(常盤:新田義貞室)━貞直(信州坂部熊谷氏祖)
参考文献と注記
本記録は、中世・近世の山村落研究において重要な役割を果たす。編纂の過程や家運の盛衰が詳細に記録されており、近世における農村の変遷や武家の社会的地位の変化を理解するための貴重な資料となっている。市村咸人、山崎一司、笹本正治らによる研究も、この史料の重要性を示す。