隣に住む奥さんが言ってくれたの、「うちは賑やかすぎるくらいだから、たまにはお茶でもどう?」って。
でもね、あの朗らかな声と、窓越しに見える笑い声の重なる食卓が、あたしにはちょっと辛いの。羨ましくて、眩しすぎて。あたしはもう、あんなふうに笑えないから。
あたしの家は広いし、年金だって十分ある。でも、それがどうしたっていうの。この静かすぎる家で、ひとりぼっち。テレビの音は虚しく反響して、仏壇の蝋燭だけが、あたしの時間を溶かしていく。
ふと、夜中に目が覚めた。ふしぎね、昔の夢を見たの。まだ夫が生きてた頃、あの人が「大きな仕事がある」って出て行った朝のこと。白い息を吐きながら駅へ向かう背中を、縁側から見送ったのが最後だった。数日後に知らされたの、事故だったって。吹雪の夜、工事現場の足場が崩れたんですって。
あたしは泣いて泣いて、でも二人の息子を育てなきゃって、歯を食いしばった。神さまが与えた試練だと信じて。だけど……それからが、もっと地獄だった。
近所の仲良しだったおばさんたちも、次々に病気や事故でいなくなって、あたしはどんどん独りにされていった。でも、弱音は吐かなかった。夫がいないぶん、子どもたちには不自由させたくなかったのよ。
上の子は真面目で、工場に勤めるようになった。なのに、あの日……工場から棺が届いたの。事故だって。お見舞金と一緒に。こんな金、いらないって思ったけど、家を手放さずに済んだのはその金のおかげだった。下の子は風邪をこじらせて、病院で亡くなった。医者が薬を間違えたって、あとで知ったの。口止めに生活保障を提示されて、あたしは頷いた。でも心は死んでしまってた。
その日からよ、生きるってことがただの作業になったのは。朝起きて、仏壇に線香あげて、食事作って、誰も来ない玄関を見つめて。でも、ある晩、あたしはやってしまったの。神ではなく、悪魔を呼んでしまった。
昔読んだ古い書物に書いてあったの、「心から願えば、現れる」って。本当に来たのよ、煤けたローブのような影が。耳鳴りのような声で、こう言ったの。
「お前が不幸だったのは、神を信じたからだ。信じない世界へ送ってやろう」
次に目を開けた時、あたしはあの朝にいた。夫が出稼ぎに行くって出ていった、あの日。でも、今回は戻ってきたのよ。ニコニコして「運が良かった」って。そして息子たちも生きてて、あたしの食卓には笑い声が戻った。
「神なんて信じてなければ、こんなに幸せだったのね」って、心から思った。……その時までは。
すぐに、夫が言い出したの。「実は、借金作ってしまってね……」って。ギャンブルだったの。仕事なんてなかった。家も差し押さえられて、あたしらはアパート暮らしになった。
息子たちもおかしかった。上の子は夜な夜な出歩いて、ある日暴行事件を起こしたの。保釈金を払うために、また借金。しかも、その事件の日付は……本当なら、あの子が死んでた日だったのよ。死ぬべきだった日。
下の子は風邪をひいたけど、病院には行かず、近所の女に看病させてたの。そのまま、その女と駆け落ちして、家の金を持っていった。それからも、女を変えながら金だけはせびりに来た。あの子の優しさって、だらしなさだったのよ。
夫は酒浸りで、怒鳴り散らすだけ。あたしは、そんな家族の尻拭いをしながら年を取った。愛していたはずの家族が、どんどん重荷になっていったの。
「みんな、好き勝手に生きて、困った時だけ戻ってくる。最初からいなければ、どんなに良かったか」
そう思ってしまったの。あんなに望んだ“家族”を、今では憎んでる。
これが罰なのかもしれない。あの神に守られていた人生を、疑った罰。信じることで得られていた奇跡を、拒んだ報い。
人って、何かがうまくいかないと「もしも」って思う。でも、その「もしも」の先が、もっと恐ろしいことだってあるのに。
悪魔は、願いを叶えてくれる。でもそれは、幸せを与えるってことじゃないのね。
あたしは、あの静かで孤独だった家に戻りたい。もう一度、仏壇の前で手を合わせたい。でも、戻れない。ここが、あたしの願いの結末なのだから。
(了)