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死ぬべきだった日 rw+1,709-0211

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隣に住む奥さんが言ってくれたの。

「うちは賑やかすぎるくらいだから、たまにはお茶でもどう?」って。

その声はやさしくて、窓越しに見える食卓には、いつも誰かの笑い声が重なっている。でも、あたしには少し眩しすぎる。羨ましくて、胸がきゅっとなる。あたしはもう、あんなふうに笑えない。

うちの家は広い。年金も十分ある。でも、それだけ。静かすぎるこの家で、ひとり。テレビの音は壁に跳ね返って消え、仏壇の蝋燭だけが、じりじりと時間を溶かしていく。

夜中に目が覚めた。昔の夢を見た。まだ夫が生きていた頃の夢だ。白い息を吐きながら、「大きな仕事がある」と駅へ向かう背中。縁側から見送った、あの朝。数日後、事故だと知らされた。吹雪の夜、工事現場の足場が崩れたのだという。

あたしは泣いて、歯を食いしばって、二人の息子を育てた。信じていた。耐えれば、報われると。

けれど、それからだった。近所の仲の良かった人たちが、病気や事故で消えていった。あたしだけが残された。弱音は吐かなかった。夫の分まで、子どもたちを守らなければならなかったから。

上の子は真面目で、工場に勤めた。ある日、工場から棺が届いた。事故だと。下の子は風邪をこじらせ、病院で亡くなった。あとから、薬を間違えたと聞いた。口止めの金を差し出され、あたしは受け取った。その日から、生きることは作業になった。

朝起きて、線香をあげて、食事を作って、誰も来ない玄関を見る。それだけの毎日。

ある晩、あたしは本を開いた。昔の、埃臭い本だ。そこに、こう書いてあった。

「心から願えば、現れる」

その夜、影が立っていた。煤けた布をまとったような形で、部屋の隅に。声とも音ともつかない響きが、頭の奥に残った。

次に目を開けたとき、あたしはあの朝にいた。夫が出て行った、あの日だ。

でも、戻ってきた。笑いながら、「運が良かった」と言って。息子たちも生きていた。食卓には声があって、皿が鳴って、笑いがあった。

しばらくして、夫が言った。「借金がある」。仕事はなかった。家は差し押さえられ、狭いアパートに移った。

上の子は夜に出歩き、暴行事件を起こした。保釈金を払った日付を見て、あたしは手を止めた。それは、本当なら――あの子が死んでいた日だった。

下の子は風邪をひいた。病院には行かなかった。代わりに、知らない女が家に来て、看病した。そのまま、金を持って消えた。何度も戻ってきては、金だけを持っていった。

夫は酒に溺れ、怒鳴るようになった。あたしは年を取りながら、三人の尻拭いを続けた。

気づけば、思っていた。

いなければよかった、と。

その考えが浮かぶたび、隣の家の食卓が目に入った。笑い声。皿の音。人の気配。

あたしの家にも、同じ音はある。ただ、どこか違う。日付がずれている。声の調子が、少しだけおかしい。

仏壇はない。手を合わせる場所もない。

夜、ひとりで座っていると、ふと思う。
あの静かだった家。誰もいなかった家。
あれは本当に、不幸だったのか。

戻りたい。そう願った瞬間、隣の家から笑い声が聞こえる。
あたしの家からも、同じような声が、遅れて響く。

どちらが先なのか、もうわからない。

(了)

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