昭和初期、戦の影が村を覆っていた頃の話だ。
山に囲まれた小さな村に、内気な少年が母と二人で暮らしていた。父は戦地へ行ったきり戻らない。少年には友達がいなかった。山だけが、彼を拒まなかった。
山の奥に、朽ちかけた社がある。傾いた鳥居と、苔むした石段。その裏手に、古井戸があった。
父は出征前、何度も言った。
「あの井戸には近づくな。覗くな。呼ばれるぞ」
呼ばれる、という言葉の意味を、少年は聞き返さなかった。ただ、その井戸だけは避けていた。
その夏、村に一人の男の子が越してきた。病弱で、外で遊べない子だった。少年にとって、初めての友達になった。
少年は山の話をした。社の話も、井戸の話も。
「底がないんだって」
そう言った時、友達は笑った。
「本当かどうか、見てみたいな」
数日後、夕暮れの山に二人は立っていた。
社の裏、古井戸の縁。友達は身を乗り出した。
「何も見えないよ」
少年は言った。
「危ないから下がれ」
背中に触れた。軽く押した。押したつもりはなかった。触れただけだった。
友達の体が揺れた。
声が、落ちた。
その後、音はなかった。
少年は覗いた。闇だけがあった。深い。底は見えない。
呼んだ。何度も。
返事はなかった。
翌日、村中で捜索が始まった。井戸も調べられた。
「何もない」
そう言われた。
少年は言い出せなかった。言えば、自分が何をしたのか確定してしまう気がした。
あれは夢だったのかもしれない、と何度も思った。だが、指先に残る感触だけは消えなかった。
村はやがてその話をしなくなった。少年も山へ行かなくなった。
それから何年も過ぎた。
青年になった彼は、再びあの山へ戻った。背には重い荷物を背負っている。
母が死んだのだ。
事故だったのか、衝動だったのか、自分でもはっきりしない。ただ、家に横たわる母を見て、彼は思い出した。
あの井戸。
あそこに落とせば、消える。
あの時のように。
夜の山は変わらない。社も、井戸も、そこにあった。
井戸を覗く。月明かりが縁を白く照らす。
深い。
やはり底は見えない。
青年は母の体を持ち上げた。井戸へと傾ける。
手を離す。
落ちる。
その瞬間、はっきりと聞こえた。
どさり、と。
浅い音だった。
慌てて懐中電灯を向ける。
五メートルほど下。母の体が横たわっている。底ははっきり見える。石の壁も、苔も、全部見える。
深くなどない。
あの夏の日、ここは底なしだった。
青年は理解できなくなる。
あの子は、どこへ落ちたのか。
井戸の底を照らし続けていると、不意に光が揺れた。
母の体の横、石壁の隙間。
そこに、小さな手がかかっている。
闇の中から、ゆっくりと、もう一本。
子供の腕が、井戸の内側から、這い上がろうとしている。
懐中電灯の光が、その指先に触れた。
指は土ではなく、水でもなく、何か黒いものに濡れていた。
青年は声を出せなかった。
井戸は浅い。
だが、底は見えても、終わりは見えない。
光の外側で、何かが、まだ動いている。
青年は後ずさる。
その足首に、冷たいものが触れた。
井戸の縁を越えて伸びてきた、もう一つの手だった。
(了)