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短編 後味の悪い話

その井戸に決して近づいてはいけない【ゆっくり朗読】5487-1230

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昭和初期の話。

ある地方の山村に一人の少年が住んでいた。歳は十一才。

お父さんは戦争に狩り出され、お母さんと二人暮らし。

もともと内気で人見知りしがちだった少年は友達がいない。

山の中、一人で遊ぶのが日課だった。

勝手知ったる山の中。たとえ暗くても怖くなんかない。

けど、一ヶ所だけ近寄れない場所がある。山の林道から少しはなれた位置にある社。鳥居も社殿もボロボロに朽ち果てて、お参りに来る人もいない。

その社の裏手に、少年の恐れているものがある。

井戸。

なんでそんなところに井戸があるのか少年は知らない。

知っているのはとても怖い井戸だということだけ。戦争に行ったお父さんがよく話していたから。

「あの井戸は、落ちたら二度と上がってはこれない。地獄に通じているんだ。だから絶対にあの井戸に近付いちゃいけないよ。中を覗くなんてもってのほかだ」

小さい頃から何度も聞かされてきた。その話が、子供を危険な場所に近付けさせないための方便なのだと、少年はもう感付いてはいる。

けれど、実際に社の周囲はとてもおどろおどろしくて、本当に地獄の入り口なのかもしれないという気がする。

どちらにせよ、子供が一人で近付くにはとても勇気のいる場所。少年はお父さんの教えを忠実に守り、その社にだけは近付かない。

でも、その年の夏が終わろうとする頃、事件が起きた。

暑い夏が始まろうとする頃、少年に友達が出来た。

少年の家の近所に引っ越してきた男の子。年は少年よりも二つ下。学校には通っていない。

お母さんのお使いでその家をたずねた時、初めて顔を合わせた。

喘息という病気にかかっていて、その病気を良くするために、親戚であったその家に預けられたらしい。少年は家に帰ってからお母さんにそう教えられた。

「町の方に住んでた子だから、この村にはあまりなじめないんじゃないかしら。あなた、仲良くしてあげなきゃダメよ」

お母さんにそう言われたけれど、内気な少年は自分からその家にたずねていくなんて出来ない。

それに気付いていたのか、何かにつけてお母さんは、その男の子のいる家に少年をお使いに行かせる様になった。

人見知りがちな少年も、二度三度とその家をたずねるうちに、徐々に男の子と打ち解けていく。やがて、二人は大の仲良しになっていた。

二人が遊ぶ時はいつも部屋の中。喘息を患っている男の子は、激しい運動が出来ず、せいぜい家の近所を散歩できるぐらい。

「山の奥の方って何があるの?」

ある時、男の子がふいにたずねてきた。

ろくに外出も出来ず、いつも窓から外を眺めているだけの男の子には、鬱蒼と生い茂る山林が神秘的な場所に思えたのかもしれない。

「あの山の中には…近付いちゃいけない場所があるんだ」

少年がそう言ってあの井戸の事を男の子に話したのは、軽い気持ちから。ちょっと男の子をおどかしてやろうと思ったから。

「本当に?そんな井戸があるの?」

男の子は少し怖そうに、けど目を輝かせて少年の話に耳を傾ける。

「本当だよ。とっても深い井戸なんだ。石を落としても、音が全然聞こえないんだ」

少年は得意気に、少しだけ脚色を加えてお父さんから聞いた話を男の子に話してきかせた。

本当は石を落とすどころか、井戸の中を覗いた事すらない。

「怖そう。けどちょっと見てみたいなぁ」

男の子は窓の外を眺めながら、興奮した調子で言う。

「無理だよ。お前が歩いて行ける様なところじゃないし。それに本当に怖いところなんだ」

少年は兄貴風を吹かせてたしなめるけど、男の子は少し不服そう。

それから数日がたったある日。そろそろ夏も終わろうとしている。少年は自宅に一人でいた。

本当は男の子の家に遊びに行きたかったのだけど、今日はお母さんが外出中。留守番をしている様に言われたから。

村の大人達が集会所に集まって、何か大事な話をしてるらしい。少年は狭い家の中でただ一人、お母さんが帰ってくるのを待っている。

ふいに玄関の戸を開く音がした。少年は立ち上がり、玄関へお母さんを出迎えに行く。けどそこに立っていたのは、お母さんではなくあの男の子。

「どうしたんだ!?」

少年は少し驚いて男の子にたずねた。男の子の方が少年の家に遊びに来るのはめずらしい事だったから。

狭い村。近所とはいえ、喘息の男の子が歩いてくるには少し危ない。

「ちょっと退屈してて」

男の子は照れ臭そうにつぶやく。

「大丈夫なのか?」

「うん。大丈夫だよ。ここに引っ越してきてから、前みたいに具合が悪くなる様な事もないし」

「とにかく上がりなよ」

「お母さんは?いないの?」

「うん。大人同士の話し合いがあるから出掛けてる」

「僕ん家もだ。叔父さん達、そろって出掛けてっちゃった」

やっぱり、と少年は思う。男の子が一人でここまで来るのを、叔父さん達が許すはずがない。

「黙って出てきたのか?怒られるぞ」

「平気だよ。叔父さん達、帰りが遅くなるかもしれないって言ってたから。それまでに帰れば」

「でもやっぱり家に帰ったほうがいい。僕も一緒について行くから」

少年の頭に浮かんでいたのは、男の子の叔父さんの顔。口数が少なく、村の子供達から怖がられている叔父さんの顔。

「なぁ、あいつは病気だから運動はしちゃいけない。だから絶対に外に連れ出したりはしないでくれよ」

いつだったか遊びに行った時、少年を呼び止めて、そう釘をさした叔父さんの顔はとても厳しかった。

「ねぇ。ちょっと山の方に行ってみない?」

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意を決した様に男の子がつぶやいた。

日が傾きかけた頃。木々に覆われ、昼間でも薄暗いあの社の辺りはもう夜のよう。少年はただ井戸の前に立ちつくして震える事しか出来ない。

ついさっきまで少年としゃべっていた男の子はもういない。少年は必死で震えを抑えつつ、井戸の中を覗き込む。

真っ暗で何も見えない井戸の中。本当に地獄まで通じてる様な気さえしてくる真っ暗な井戸の中。

けどその中に、あの男の子はいる。社をちょっと眺めたらすぐに帰るつもりだった。

少年が一番恨めしく思うのは、自分の中のいたずら心。男の子がどうしても井戸の中を覗いてみたいと言った時、とっさに沸き上がってきたいたずら心。

ちょっとおどかしてやるだけのつもりだったのに、軽く背中に触れただけなのに、男の子は小さな悲鳴を上げて、そのまま井戸の中に吸い込まれる様に落ちていった。

そして今、何度呼び掛けても井戸の中から返事はない。

日が沈む頃、少年は帰宅した。どうやって帰ったのか覚えていない。お母さんはまだ帰ってきていなかった。

震えが止まらず、拭っても拭っても嫌な汗が出てくる。

少年の心にあったのは恐怖。友達を殺してしまった恐怖ではなく、これから先の事に対する恐怖。

帰宅したお母さんの顔を見た時、少年は何もしゃべる事が出来ず、そのまま気を失った。
気がつくと、少年は布団の中。額には濡らした手ぬぐいがのせてある。

「目、覚めた?」

枕元からお母さんの声がして、体を起こそうとするけど、お母さんがそれを止める。

「ダメよ、寝てなさい。すごい熱だったんだから」

確かに頭の中がひどく揺れている。

「ごめんね。あんたの具合が悪いのに気付かないで留守番なんかさせちゃって」

少年のおぼろ気な意識の中に浮かんだのは、あの男の子の事。決して思いだしたくないあの出来事。

「お母さん…」

少年が言いかけた時、玄関の戸を叩く音がして、お母さんは立ち上がった。

玄関の方から聞こえてくるのは、お母さんと男の人の話し声。その声が村の駐在さんの声だと気付いた時、少年は身震いした。いよいよ自分を捕まえに来たんだと思った。

けど二人の会話はそうではない。

「いま消防団の連中で山狩りしてるけど、なにせ年寄りしか残ってないからなぁ。もう少し明るくなったら、あんた達女も手伝ってくれ」

「わかりました」

会話の様子から、村の人間総出であの男の子の捜索をしているようだという事が分かる。
少年は駐在さんが自分を捕まえに来たのではないようだと知り、少しほっとしたけど、その次の言葉を聞いて心臓が止まるかと思った。

「とりあえず、おれ達は朝一番であの社の辺りを探してみるつもりだ。あそこはほら古井戸があるだろ。ひょっとしてって事もあるからな」

次の日。少年は一人、布団の中でお母さんの帰りを待っている。お母さんは山狩りの手伝いに行ったまままだ戻らない。

お昼頃、近所のおばあさんがおかゆを作って持ってきてくれた。お母さんに頼まれたのだろう。

「みんなであっちこっち探してるんだけど、見つからないみたいだねぇ」

少年の額の手ぬぐいを取り替えながらおばあさんが悲しそうにつぶやく。

「あの社の方は?」

しばらくの沈黙の後、少年は意を決してたずねてみた。

「あの井戸のある?駐在さん達が朝一番で探してみたけど見つからなかったそうだよ。あの井戸の中に落ちちゃったんじゃないかってみんな思ってたんだけどねぇ」

少年の頭の中は真っ白になる。

井戸の中から何も見つからないなんてあるわけない。あの男の子は確かにあの中にいるのだから。

おばあさんが帰ってしばらくした後、お母さんが戻ってきた。さりげなく、さっきと同じ事をたずねてみたけれど、お母さんの答えもおばあさんと一緒だった。

井戸の中からは何も見つからなかったらしい。

「とにかく、今は早く良くなる様に寝てなさい」

ひどく疲れた様子のお母さんは、それでも優しく少年にそう言い聞かせてまた出掛けていってしまった。

また一人になって、少年は一生懸命に考えたけど、分からない。おばあさんもお母さんも、みんなで嘘をついてるのだろうか。本当は駐在さんがもう僕を捕まえに来るんじゃないだろうか。

そうこうしていると、また熱が上がってきたのか、頭の中が揺れ始める。押し潰されそうになる不安と高熱で、少年はほとんど眠る事が出来なかった。

山が秋の色に染まる頃、男の子の捜索は打ち切られた。

「神隠しに違いない」

村の老人の中にはそう囁く人もいたけど、まじめに取り合う人はいない。

遺体がないまま、男の子のお葬式が行われたのは、その年の十一月。少年はお葬式には行かなかった。

「行ってちゃんと手を合わせてあげなさい」

お母さんはそう少年をさとしたけど、少年は頑としてそれを拒む。

男の子の叔父さんや、町の方から来てるという男の子のお父さんお母さんの顔を見る勇気がなかったから。お母さんは少し悲しそうな顔で少年を見つめたけど、それ以上は何も言わない。

一人でお葬式に行くお母さんの後ろ姿を、少年は玄関から見送った。

村の大人達の目に、少年はどう映っていたのだろう。たった一人の友達を失い、ふさぎ込む可哀想な子。きっとそう映っていたに違いない。

だからお葬式に少年の姿が見当たらなくても、特に不自然に思う大人はいなかった。

そうしてお葬式が終わって、男の子の話が大人達の口にのぼる事もめっきり少なくなった後も、少年は考え続けた。

なぜ男の子が見つからないのか。少年には、あれが夢だったんじゃないかという気さえしてくる。けど夢じゃない。

少年の手には、男の子の背中を押した時の温かい感触が今もはっきりと残っているのだから。

本当にあの井戸は地獄に通じていたのかもしれない。時々そんなことを考える。

井戸に落ちた男の子は、そのまま地獄に行ってしまい、今も泣き叫んでいるのではないだろうか。馬鹿げているとは分かっていても、そんな想像を止めることは出来ない。

年が明けて、少年が山に入って遊ぶ事はもうなくなった。

真っ暗な山の中を青年は歩いている。明かりも持たず、肩に大きな荷物を背負いながら。
もし、村の人がその青年の顔を見たなら、きっとすぐに思い出すことができたに違いない。かつてこの村に住んでいた、内気で人見知りがちな、友達のいなかったあの少年だ、と。

もう何年も山道なんて歩いていない青年は、全身で息をしながら、それでも背負った荷物は落とさない様にゆっくりと歩き続ける。

馬鹿げていると自分でも分かっている。けれど、青年はもう藁にもすがる気持ちで一杯だった。

あの日、男の子を井戸に落としてしまった忌まわしいあの日。

あの日から一年程が過ぎた夏の昼下がり。お父さんが戦死したという知らせが少年の家に届いた。お母さんは、ただただ泣いていた。

夏が終わる頃、少年はお母さんと二人、村を出ていった。

親戚の世話になりながら、お母さんは必死に働いて少年を育ててくれた。泣き言も愚痴もいっさい言わず、少年の成長だけを願って。

そのお母さんが、今は毛布にくるまれて青年に背負われている。優しかったお母さんを、自分の唯一の味方だったお母さんを、青年は殺してしまった。

苦労して育てた息子が、町でも一番大きな銀行で働いているということがお母さんの自慢であり、誇りであった。

だからこそ、その息子がかけごとの味を覚え、ついには銀行のお金にまで手をつけてしまった事を知ってしまった時、お母さんの驚きと悲しみはとても大きかったに違いない。

「お金は私もなんとかするから。お願いだから銀行の人達に正直に謝ろう」

そう言いながら泣きすがるお母さんを、青年は初めて邪魔な存在だと感じた。

何度突っぱねても引き下がろうとしないお母さんの首を、青年はほとんど無意識のうちに絞め上げていた。

その井戸はまだそこにあった。あの忌まわしい井戸。もう二度とおとずれる事はないだろうと思っていた井戸。その井戸の前に青年は立ちつくしている。

全身を濡らす汗は、決して山道を登ってきたせいばかりでもない。闇に慣れた青年の目に、うっすらと映るその井戸は、本当に地獄への入り口に見える。

「ここに落とせばいいんだ…そうすればきっと見つかる事はない…」

追い詰められた青年には、子供の頃の馬鹿げた空想ですら現実的なものとしてとらえられている。

地面に寝かせてあったお母さんを、ゆっくりと持ち上げる。井戸の闇に向かって両手を離す時、さすがにためらいが生まれた。

だが次の瞬間には、お母さんは闇に吸い込まれ、井戸の中へと消えて行く。どさっ、という音が聞こえるまで一秒もかからなかったかもしれない。

青年はあわてて井戸の中を覗き込む。誰かに発見されることを恐れ、使わずにいた懐中電灯をポケットから取り出し、井戸の中を照らす。

小さな光の円の中に浮かび上がったのは毛布にくるまれたお母さんの姿。めくれた部分から顔が覗き、まるで訴えかけるかの様にこちらを見ている。

深い、深いと思っていた井戸の深さは五メートルぐらい。地獄に通じるどころか、すぐそこにお母さんはいる。

あの時、あの男の子を突き落としてしまった時は、本当に深く深く感じたのに。

「大丈夫…死体は消える…必ず消える…」

あの時だって消えたじゃないか。

その期待とは裏腹に、ライトを向けた先にはさっきまでと変わらずお母さんの顔が浮かび上がる。

「お願いだ!消えてくれ!消えてくれ!消えてくれ…」

青年はまるで子供の様にその場にうずくまり、泣きじゃくりながら願う事しか出来ない。
あの夏の日、息子が男の子を井戸に突き落とすのを偶然に目撃してしまったお母さん。大切な息子を守るため、人知れず男の子の死体を引き上げ、誰にもばれない様に処分してくれたお母さん。

そのお母さんは、もうこの世にいないというのに。

(了)

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