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井戸は浅いのに rw+6,020

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昭和初期、戦の影が村を覆っていた頃の話だ。

山に囲まれた小さな村に、内気な少年が母と二人で暮らしていた。父は戦地へ行ったきり戻らない。少年には友達がいなかった。山だけが、彼を拒まなかった。

山の奥に、朽ちかけた社がある。傾いた鳥居と、苔むした石段。その裏手に、古井戸があった。

父は出征前、何度も言った。

「あの井戸には近づくな。覗くな。呼ばれるぞ」

呼ばれる、という言葉の意味を、少年は聞き返さなかった。ただ、その井戸だけは避けていた。

その夏、村に一人の男の子が越してきた。病弱で、外で遊べない子だった。少年にとって、初めての友達になった。

少年は山の話をした。社の話も、井戸の話も。

「底がないんだって」

そう言った時、友達は笑った。

「本当かどうか、見てみたいな」

数日後、夕暮れの山に二人は立っていた。

社の裏、古井戸の縁。友達は身を乗り出した。

「何も見えないよ」

少年は言った。

「危ないから下がれ」

背中に触れた。軽く押した。押したつもりはなかった。触れただけだった。

友達の体が揺れた。

声が、落ちた。

その後、音はなかった。

少年は覗いた。闇だけがあった。深い。底は見えない。

呼んだ。何度も。

返事はなかった。

翌日、村中で捜索が始まった。井戸も調べられた。

「何もない」

そう言われた。

少年は言い出せなかった。言えば、自分が何をしたのか確定してしまう気がした。

あれは夢だったのかもしれない、と何度も思った。だが、指先に残る感触だけは消えなかった。

村はやがてその話をしなくなった。少年も山へ行かなくなった。

それから何年も過ぎた。

青年になった彼は、再びあの山へ戻った。背には重い荷物を背負っている。

母が死んだのだ。

事故だったのか、衝動だったのか、自分でもはっきりしない。ただ、家に横たわる母を見て、彼は思い出した。

あの井戸。

あそこに落とせば、消える。

あの時のように。

夜の山は変わらない。社も、井戸も、そこにあった。

井戸を覗く。月明かりが縁を白く照らす。

深い。

やはり底は見えない。

青年は母の体を持ち上げた。井戸へと傾ける。

手を離す。

落ちる。

その瞬間、はっきりと聞こえた。

どさり、と。

浅い音だった。

慌てて懐中電灯を向ける。

五メートルほど下。母の体が横たわっている。底ははっきり見える。石の壁も、苔も、全部見える。

深くなどない。

あの夏の日、ここは底なしだった。

青年は理解できなくなる。

あの子は、どこへ落ちたのか。

井戸の底を照らし続けていると、不意に光が揺れた。

母の体の横、石壁の隙間。

そこに、小さな手がかかっている。

闇の中から、ゆっくりと、もう一本。

子供の腕が、井戸の内側から、這い上がろうとしている。

懐中電灯の光が、その指先に触れた。

指は土ではなく、水でもなく、何か黒いものに濡れていた。

青年は声を出せなかった。

井戸は浅い。

だが、底は見えても、終わりは見えない。

光の外側で、何かが、まだ動いている。

青年は後ずさる。

その足首に、冷たいものが触れた。

井戸の縁を越えて伸びてきた、もう一つの手だった。

(了)

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