九年前のある日、釣りに出かけていた兄が顔を蒼白にして帰宅した。
ガタガタ震えている兄に話を聞くと、
「怖い思いをした。脚折竈へは行くな。あかんぞあそこは、コワイモンがおる」
と繰り返している。
あたたかい紅茶を飲ませ、母と話を聞くとこうであった……
2010/10/04(月) 20:45:58 ID:ErsFOF2o0
兄はこの時期、いつも釣りにかよっているリアス式の湾内に、この日も朝からでかけた。
自分たちは脚折竈といって、この、がま、というのは、平家の落人が日々の生活のため、塩田を切り開いた土地で、この地方には、いくつもそのような《何々がま》という地名がある。
照葉樹林に囲まれた湾内の水面は鏡のように静かで湖のようにみえる。
そのようなリアス式の入り組んだ、小さな小さな、湾のひとつが自分たち家族が通い詰めた場所であった。
自分たちは《脚折竈》と呼んでいた。
死んだ父と、兄と自分で、小さい頃から通い詰めた場所で、知り合いなら竿二本。
先客がいたら、そこで竿を出すのをあきらめなければならない畳二畳ほどの、小さい石積みがある。
そこに行くには、上の、ぐねぐねした細い道から30mほどの獣道を下らなければならない。
場所を知られるのを恐れた父は、車を少し離れたところにとめて通い詰めるなどしていた。
十年ほど前からここに通うのは我々だけになっても、ここを発見されるのを恐れ、車は遠くに駐車するようにした。
自分たちが小さい頃、父が見つけたこの場所は、父が死んでも秘密の場所だった。
しかし、その場所は、よくつれるのか、というとそうでもなかった。
ただし、20m先の水深が4mでフラット。
底は砂地で、自分たちの釣りかたに合っていたし、春夏は、うるさいほどウグイスが鳴き、向かいにある廃業した真珠選別所で、まれに漁師が網を干している以外は、どこからもみえない。
よって、この場所は、ゴールデンウイークでも盆休みでも人は来ず。
鏡のような湖面に浮かぶウキを見ていると、それだけで癒されるような気持ちになるのだ。ともかくそこに、兄は出かけた。
そして、昼飯を食べているとき、コワイモンを見たということであった。そのコワイモン、何だ、と聞いても答えない。
とにかく恐ろしい目にあった兄は、飛ぶようにして崖を登り、車に乗って帰って来たということだ。
そこまで聞いて僕はハッとした。
「タモは、タモは置いてきたんか!」
「置いてきた……」と兄。
タモの柄は、どうでもいい。
タモワクは、死んだ父が、樅(モミ)を曲げ作ったモノで、自分たちにとっては形見のようなモノであった。
「取りに行くわ!」と兄と母に告げ、車に乗り込んだ。
後ろからは二人の「やめとけ」と言う声が聞こえたが、タモは譲れん。
晩秋の夕刻は、あっと言う間に日が沈み、外はとっぷりと暮れていた。
「もう六時か」
その闇に少し驚きながら,車を出そうとしたら、目の前に近所の少しおかしい母娘が、車出しの前に立っている。
「すいません、そこどいてくれませんか」と声をかけるが、こっちを振り返るだけで、ボおお、とたちすくみ、どこうとしない。
いらいらしながら車で待つと少し冷静になってきた。
今は六時。車で二時間。ガマに着くのは八時。
暗闇の中、獣道を下りていく自分の姿が頭に浮かんだ。
少し怖くなった。
「やめとこ。あそこは誰にも知られてないし。明日、明るくなっていけばいい」と考えた。
その時、その母娘の家主が、こちらにぺこぺこ頭を下げながら二人を連れて行った。
今思うと、この二人に助けられたように思う。
翌日、自分には時間がなかった。仕事があったのだ。
四時の暗いうちに家を出る。兄は今日は休むらしい。
六時前にガマに到着。
朝の光の中、獣道を下る。久しぶりだ、自分が最後に釣りに来たのはもう何年前か。
少しコワイモンのことが気になったが、この穏やかな光の中ではそんな思いは消し飛んでしまう。
はたして釣り具一式はあった。
タモは!タモも釣座の後ろに投げ出されている。
ほっとして手早く釣り具を回収しなければと考える。
カラスの声でコワイモンのことが頭をかすめる。
クーラーとダンゴ材が入ったバッカンが先だ、その後スカリと竿、タモで二往復で勝負を付ける。
クーラーを持とうとした。
持ち上がらない。
何が入っている!クーラーを開ける。
ものすごい臭気が鼻をつく。
……中には何かの魚。
たぶんいわしミンチが、たぷたぷとクーラーいっぱい入っている。
何日間も放置されたような腐肉のにおいが目と鼻を襲う。
「なにやっとるんだ」
兄に対する怒りが頭の中を支配する。
しかし「これは兄がしたことなのか。何でいわしミンチ?何で腐ってる?」と考えるが、兄に対する怒りが頭の中を支配していた方が怖くない。
無意識のうちにそう考えていた。
「どうする?あきらめるか。クーラーはあきらめる。とりあえずリールとタモワクは持って行こう。いや、タモワクだけでいい」
と考え、タモワクをつかみ戻ろうとしたとき、後ろのタブノキに首つり死体を発見した。
自分に背を向けている中年。ベージュのジャケット。
足は地面に着いている。
しかし死んでいるのは間違いない。
なぜなら恐ろしいほど首が伸びている。
釣座に行く時は、タモが気になっていたし、木の陰だったので気づかなかった。
自分はこれを見て少しほっとした。
「兄のコワイモンはこれだった。ただの首つり死体。釣りをしていて気づかずに、昼飯時にふと後ろを見て錯乱した。たぶんそんなところだろう?」
そう考えながら、死体から目を離せないでいた自分は、少し冷静になり、そして気が重くなった。
「この忙しい時期に。今日は仕事休まなあかん。警察呼んで事情聞かれて、解放されるのはいつのことやら」
「このまま、知らんぷりで行こうか?しかし、道具をおいて?誰かに車を見られたかもしれない。やっかいだがしょうがない」
なんだか死体に背を向けるのは怖くて、タモをもち、振り返りながら道を上る。
「駐在があったな」
車で一分ほどの所に集落があり、そこに駐在所がある。
しかし警察官は不在だった。
『ご用のかたは、ここにメモするように』というバインダーに挟んだ紙とボールペン。
『緊急の場合はここに』という電話番号。
またまためんどうくさくなった。
駐在所を出ると道の向かいの家で、庭の手入れをする老人と目があった。
「なんか用なんか?いっつもおらんぞ、おまわりさんは」と老人。
「人が死んどるの見つけたんですわ。首吊りですわ。ポンプの階段下ですわ」
老人は、場所を伝えると、確認してくるといって、自転車でガマに向かった。
自分は、警察に電話するようにいわれたので、連絡を取った。
しばらくして二人の警察官がやってきた。
事情を話し場所に案内する。しかし、そこに死体はなかった。
「あれっ、ここにあったんです、確かに。おかしいなあ」
とたんに二人の警官はいぶかしげに僕を見てきた。
「疑われるなこれは」
確かに見たのに、えらいことに、はまり込んだ……
と思っているときに老人が現れた。
「あったんです」
「でもないでしょう?」
と話している自分たちに、「ここにあったぞ首吊り死体」と割って入ってきた。
老人の話では、確かに死体はあったそうだ。
ベージュのジャケット。黒いズボン。足は地面に着いていた。
確認し自転車で駐在に戻っているとき。パトカーとすれ違ったのでまた戻ってきたらしい。
しかし、死体はない。
四人の立場は様々だが、やっかいなことに巻き込まれたという一点では共通していた。
警察は、死体がある、と一人ならともかく二人が証言している。
しかし見渡してそれらしいモノはない。自分ははやくこの状況を終わらせたい。
しかし下手に言説を曲げては怪しく思われる。
じいさんも、見てしまったといったら、引っ込めにくいだろう。
結果として、その警察二人と応援も含めた幾人かが周りを探索した。
自分は不思議に思いながら、これ以上長引くのはこりごりだった。
最終的には、見間違いということでうやむやになり、解放されたのは昼前であった。
じいさんが意外にがんばり、自分は確かに見た。自治会長をしているんだぞ、などと言って言説を曲げなかったからだ。
自分は死体を見たことを自分自身信じられなくなった。
ただ、うすら寒く感じるだけだった。
ともかく、警察がかえり自分たち二人は
「確かにあったよな!にいちゃん」
「はぁ……」
といった会話をし、老人は家に帰っていった。
そこまできて、自分は「しまった」と感じた。
釣り道具を片付ける暇は十分にあったのだが、その場所にいるのがいやで、上の道でいたのだ。警官たちがいる間に、片付けとくべきだった。
一人であの場所に行くのは怖い。しかし、放置しておくのもどうか。
時間は正午。太陽は一番、高いところにある。
お昼のサイレンが鳴る。
クーラーはだめだ。竿とリールは持ってこよう。
木漏れ日が美しい。風もなく湖面は鏡のようだ。
釣座に立つ。怖くなり、周りを見回す。
「早くこの場を離れたい。竿だけいい」
その時始めて気がついたが、糸は海面に沈んでいた。
ウキはない。竿をあおってリールを回す。すると、根がかりしている。
いや、竿をあおると少し動く。
まるでタコを釣った時のように重いが、引き寄せることができる。
ウキが顔を出す。針にかかっていたものが姿を現した。
それは、魚網に入った、パンパンにはちきれそうな、人の首だった。
男女の区別はつかない。あらく切られた首の切り口に見える骨。
網の下には半分に割ったブロックがオモリでついてきた。
その顔……
かにが這いまわっている顔を、首と認識したとき。
自分は腰を抜かしてしまった。
熱いものを触った時のように竿を放す。
首は水面に没した。
その時。
「ギャッギャーッ。ギャッギャーッ」という鳴き声が耳に入っていきた。
しかし、その鳴き声はもっと前から聞こえていたかもしれない。
自分が鳥の声と思っていただけだったのかも。
腰を抜かして視線が上がり、真珠選別所の桟橋の上に、白いワンピースを着た女が、目に入る。
「ギャッギャーッ。ギャッギャーッ」女は両手で耳をふさぎ、あらん限りの声を発している。
なぜだかしらないが、この世のものではないことは確信していた。
こちらに背を向け、短い髪を振り乱して、叫んでいた。
自分はどうして駆け上がったか。腰を抜かしたまま、崖を駆け上がる。
その中ほどで「ドブンッ……タプタプ」と水面に何かが飛び込んだ音がした。
「オンナが海に飛び込んでこっちにくる!」そこから自分の記憶はあいまいになる。
よく事故をしなかったものだと思う。
自宅近くの喫茶店で過ごし、少し心を落ち着ける。
家に帰ると兄は友だちとボーリングに出かけたそうだ。
のんきな兄に対する怒りがふつふつとわいてきたことを思い出す。
それから、数年たって、兄は難病にかかり、死んだ。
父の退職金や母の蓄えを治療で食いつぶし死んだ。
死ぬ一カ月くらい前に兄に、あの時の話を聞いた。
「何を見たん?」
「ナニ、ってアレさ。首さ」
「網に入ったの、つったんやろ。網に入った首」
「いや、ダンゴのバッカンフタをしとったら、バッカンの中で音がする。びっくりして腰を浮かして、そおっとフタを開けると、中に首がおった。女の首。ダンゴ喰っとった。サナギ粉まみれになってな」
「あたまおかしくなっとるから、信じやんやろ。そやけどホントのことや」
薬のせいか、血栓のせいか、ときどき変なことをいうようになっていた兄は、自嘲ぎみに言った。
「信じられへんやろ」
「いや、俺も見たもん、変なもん」と自分が言うと、兄は真面目な顔になってこっちを見た。
この話を兄としたのが、最初で最後だった。
自分は釣りをしなくなった。
というか自宅より南に行くのが怖い。夜見る夢はいつもあの時のこと。何回リピートしたか。
しかし、兄の葬式が終わって、兄が震えて帰ってきたときのことを母に話すと、まったく母は覚えていなかった。
そして、あの事がホントのことか確信できなくなった。
自分では大変な勇気を振り絞って、あのじいさんに会いに行くことにした。
しかし、あの場所の前を通るのは怖いので、遠まわりをして行った。
じいさんはいた。
しかも自分を覚えていた。やはりあの事はあったんだ。起こったことなんだと思うと、なんだか泣けてきた。
「あれからあそこに行きました?」と聞くとじいさんは
「あそこはあかん。変なとこやで。にいちゃんもやめとけ」
急に顔を曇らせていった。
父と何度も通った思い出の場所。
死体のあったタブノキにも何回も登ったし、小学校になるとノベざおで小物釣りをさせてもらった場所。
それが恐ろしい場所になったことが悲しく感じる。
このことは、自分はだれにも言っていない……
(了)