不動産会社に勤め始めてまだ数ヶ月の頃だった。
仕事にも慣れてきたと思っていたが、この件を境に、物件の「外観」や「築年数」なんか、まったく当てにならないと痛感するようになった。
担当になったのは、郊外の住宅街にある築八年の一戸建て。離婚を機に家を手放したいという依頼だった。聞けば、妻と子供はすでに家を出ていて、四十代半ばの夫がひとりで暮らしているらしい。
珍しい話でもなかった。最初の電話では、口調も穏やかで礼儀正しかった。「まあ、内見さえ終えれば流れ作業みたいなものだろう」と高をくくっていた。
現地に到着したのは、午後三時を回ったころだったと思う。陽はまだ高かったが、なぜか家の前に立った瞬間、首筋にひんやりとした汗がにじんだ。直感的に、嫌な予感がした。だが、不動産の仕事に直感なんて持ち込んでも仕方がない。
インターホンを押すと、少し間をおいてドアが開いた。
開口一番、鼻をついたのは異臭だった。何かが腐ったような、濡れた段ボールを長時間放置したような、ただそれよりももっと生々しい……何かが染みついたような臭い。
目の前に現れた男を見て、臭いの出処がわかった。脂ぎった長髪、黄ばんだTシャツ、乾ききってひび割れた唇。その全身から、まるで街中のホームレスを凝縮したような、あの独特の臭いが立ち上っていた。
「どうぞ、入ってください」
促されるまま靴を脱ぎ、リビングへ。
玄関からのわずかな距離ですら、目に入るもの全てに違和感があった。靴箱の上には大量の空き缶。床には黒ずんだシミ。壁紙には黄ばみとひっかき傷。
そしてリビングの扉を開けた瞬間、ぞっとした。
床に転がる酒の瓶。壁にはいくつもの穴。その一つ一つに、茶褐色の何かがこびりついていた。見るからに血痕としか思えなかった。
「ここ、ちょっと荒れちゃっててね」
男が笑いながら言ったその声に、妙なかすれがあった。無理に明るく振る舞っているようにも聞こえた。
「……大変でしたね。じゃあ、物件の書類の方を見せていただけますか?」
手早く業務を済ませて帰ろうと、なるべく表情を変えずに尋ねると、彼はふと遠くを見るような目をして、こう言った。
「書類の前にさ、ちょっと俺の話、聞いてくれないか?」
断るわけにもいかず、ソファの端に腰を下ろした。男は缶ビールを片手に、唐突に自分の半生を語り始めた。
父親に殴られ、母親に見捨てられ、中学でグレて、喧嘩に明け暮れる日々。高校にも行かず、土建屋で働きながら、やがて出会った女と結婚した。最初はうまくいっていたらしい。
「けどな、あの女、浮気してたんだ。証拠もないけど、絶対そうなんだよ。夜、スマホ握ってベランダで話してたり、誰かとLINEしてるの見たことある。俺には見せなかったけどな」
酒が進むにつれて語気が荒くなり、やがて、妙な変化が起こった。
彼の視線が、俺の肩の向こう――つまり、部屋の隅の空間にじっと定まった。
誰もいないはずのその一点を、何かに取り憑かれたように、瞬きもせず見つめていた。
「……なあ、知ってるか。人間て、裏切られると、ほんとに壊れるんだよ」
小さな声でそう呟くと、ゆっくりと顔を戻してきた。
「最初は、軽くどついただけだった。あいつが、オレに黙って荷物まとめて逃げようとしてたから。……けどな、風呂場で、あいつが逃げられないようにしてから、もう何がなんだかわかんなくなってさ」
背筋が凍った。
「……風呂場?」
「ああ。まだ見てないだろ? ちょっと荒れてるけど、まあ、物件見せるのには必要だろ?」
おかしな笑い声を立てながら、男が先導して俺を風呂場に連れていく。
正直、その時点で俺の中では最悪の想像が膨れ上がっていた。ドアの向こうに、すでにこの世にいない“誰か”がいるのではないかと。
しかし、風呂場には遺体はなかった。
……だが、代わりに、もっと得体の知れない“痕跡”があった。
扉は内側から激しく蹴破られたように折れ曲がっており、ガラスは割れ、ヒビの間に黒いものがこびりついている。浴槽の中は、まるで何かが煮詰められたかのような、ドロドロとした黒い塊で満たされていた。
あれは水垢ではない。腐敗した血液か、それとも別の何かか。
俺が固まっていると、男が平然とした声で言った。
「ここな、掃除が面倒でさ。もう何ヶ月も風呂使ってないんだよ。臭いの原因も多分これだな。なあ、掃除会社って、いくらぐらいかかると思う?」
……普通の質問のようにして、恐ろしいことを訊いてきた。
その声が、いちばん怖かった。
あの風呂場で何があったのか、真実はわからない。彼はあくまで「暴力があった」とだけ言っていたし、遺体もなかった。だから俺は、警察にも何も言えなかった。
結局その家は、事故物件とは認定されず、リフォーム会社を通して、後に別の誰かに売却された。
嫁と子供がどうなったのか、俺にはわからない。行方を聞くことは業務上の範囲外だ。
けれど、あれだけの出血があって、なぜ警察沙汰にならないのか。それを訴えない理由があるとすれば……どこかのシェルターに逃げたのか、それとも――
あれは、今も誰かが住んでいる家だ。きれいにリフォームされて、何も知らずに誰かが生活している。
けれど俺の中では、いまだにあの家は「終わっていない」。
風呂場の黒い塊の中に、あの男の狂気がまだ沈んでいる気がしてならない。
[出典:353 :1/2@\(^o^)/:2016/03/29(火) 13:04:30.19 ID:BifyCO6v0.net]