消えた三十分の真実
夕暮れに溶け込むリビングの静寂。母の声が微かに響いていた。
「お母さん、今日ずっと家にいたよね?ね、ゆうちゃん。」
子ども心にも、どうしてそんなに強く念を押すのか、不思議だった。
ただ、幼い頭では深く考えることもなく、「うん、いたよ」と答えた瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなったのを覚えている。
翌日、隣の祖母が亡くなったと知らされた。知らせを持ってきたのは近所の人で、その目にはどこか怯えの色が浮かんでいた。祖母の死因は首吊り。だが、警察はただの自殺と決めつけるには慎重すぎる様子だった。足の悪い祖母が椅子もない場所で首を吊るのは不自然すぎる。
家には数人の刑事が来て、母について細かく質問していった。
五歳の自分にも、母のその日の行動を聞かれた。警察の問いに、言われた通り「お母さんはずっと家にいた」と答えた。あの日、母は家にいたことを何度も強調していたのだ。
それでも警察は疑念を払拭しない様子だったらしく、母は何度も同じ質問を私に繰り返した。
「警察には何て答えたの?」
「他には何を聞かれたの?」
「他には?」
その問い詰めるような視線に、子ども心ながら薄ら寒さを感じた。
時は流れ、十三歳で父を失った後、母は懸命に働いて私を育ててくれた。
大学にも進学させてくれた母には、本当に感謝している。彼女の苦労を思うと、昔のことなど些細に思えてしまうはずだった。
だが、あの日の記憶が蘇る。テレビを見ながら眠気に襲われ、うとうとしていた時、微かに聞こえた裏口の音。目を開けた時には母の姿がなく、静まり返った家にただ自分一人。
三十分ほど経ってから、裏口から戻ってきた母が、「お昼は何食べたい?」と何事もなかったように話しかけてきた。
小さな胸に押し込めた疑問。「裏口からどこへ行ったの?」と聞く勇気はなかった。
そしてその三十分が、今も忘れられない。
解説
この物語は、幼少期の主人公が「母親のアリバイ作りに協力させられた」可能性を示唆しています。母が祖母を憎んでいた背景と、裏口から姿を消した「三十分」の間が結びつきます。当時の主人公は母親を無条件に信じており、警察にもそのまま答えましたが、大人になった今、その記憶に疑念を抱いています。
物語の怖さは、「事実を知りながら、自分がそれを隠蔽する一端を担ったかもしれない」という主人公の無意識的な罪悪感にあります。母の裏口からの外出が祖母の死と直接的に関係しているかは明言されていませんが、読者にそれを考えさせる余地を残しています。