都内のあのホテル、名前を聞けば誰でも知ってる。
上品な内装に、すました顔の従業員。母方の伯母と祖母が、二週間も前から予約していたはずだった。母に聞かされた話ではない。私自身、伯母に会って直接聞いた。けれど、何度聞いても、まるで現実のことのようには思えなかった。
チェックインの日、夕方の混み合ったロビーで、受付の山岡と名乗る中年の女性が言い放った。
「ご予約は入っておりません」
祖母は、その日、少し熱があったらしい。季節の変わり目だった。長距離を移動してきたせいで、体もこたえていたのだろう。早く横にならせてあげたい一心で、伯母は低姿勢をかなぐり捨てて、声を荒げた。
「どんな部屋でもいいから、一泊だけでもなんとかならないんですか」
山岡は、しばらく困ったような顔をしていたが、やがて背後のモニターを見ながら言った。
「では……本日はキャンセルが出ております。1245号室でよろしければ、ご案内いたします」
その時点では、伯母もただほっとしただけだった。早く祖母をベッドに寝かせたい。冷房の効いたロビーで冷えた手を握りながら、やっとのことでエレベーターに乗り込んだ。
部屋に入った瞬間の感想は、強いて言えば「古い」だったそうだ。内装が他の部屋よりもどこか時代遅れで、ホテルの匂いがしない。人が使っていない空間に特有の、こもった空気。クーラーをつけても、重たい匂いは変わらなかった。
祖母は横になったものの、しばらくして吐き気を訴えた。伯母はフロントに電話し、ホテル専属の医師を呼び出した。やって来たのは、葉山と名乗る若い医師。表情は仏頂面で、やたらと早口だったという。
「ウイルス性の風邪でしょう。市販薬で様子を見てください」
その言葉を信じて、伯母は夜の街に飛び出した。近くの薬局を探して、タクシーで往復。小銭が足りなくて、ホテルのフロントで両替を頼んだ時、手にしていた薬の袋をカウンターの上に置いたまま忘れてしまった。それだけなら、ただのうっかりで済む。
問題は、戻ってきた時に起きた。
「いま、ここに薬を置いていきましたよね」
伯母の問いに、山岡は首をかしげた。
「いいえ、何もお忘れになっておりません」
袋は消えていた。もちろん、誰かが持ち去った可能性もある。けれど、もっとおかしいのはその後だった。
「1245号室に泊まってるんです、さっき部屋の鍵を……」
伯母が言いかけた時、山岡の目が細くなった。
「1245号室は本日、空室となっております」
まるで伯母の言葉が全部、幻覚でもあるかのように、事務的な口調だったという。
混乱し、涙ながらに助けを求めたのは、さっきの葉山医師だった。ちょうどエレベーターから降りてきたその顔を見て、伯母はすがるように言った。
「さっき、祖母を診てくださったじゃないですか!」
しかし医師は眉をひそめ、首を振った。
「申し訳ありませんが、存じ上げません。別の方とお間違えでは?」
何を言っても、彼らは同じ反応だった。まるで伯母の言葉そのものが、最初から存在しなかったみたいに。
「部屋に戻れば証拠がある、祖母がそこにいる!」
半ば叫ぶようにしてエレベーターに駆け込もうとした伯母の腕を、山岡が静かに掴んだ。
「ご一緒いたします」
その言葉を聞いて、伯母は何とか冷静を保ったそうだ。けれど、1245号室の前に立った瞬間、ポケットに入れていたはずの鍵が消えていた。山岡がマスターキーで扉を開けた。
そこには誰もいなかった。
荷物も、布団のしわすらもなく、祖母の姿はどこにもなかった。白いシーツがまるで未使用のように整えられていたその部屋で、伯母は声を上げて泣いた。
それからのことは、病院のベッドで聞いた。伯母の声は震え、ところどころで意味の分からないことを繰り返していた。
「わたし、絶対に夢なんか見てないのよ……一緒に部屋に入ったの。祖母は確かにいたの。息をして、寝ていたのよ……!」
母は泣いていた。信じようとしても、信じられなかった。けれど、現実として祖母は失踪した。警察は事件性なしと判断した。新聞にも載らなかった。病院に入院した伯母の話を、誰も本気にしなかった。
ただ、私は思う。あの部屋は、ほんとうにこの世の中に存在していたのだろうか。
祖母は、いったい、どこに行ってしまったのだろう。
答えは、もう誰にもわからない。
(了)