昔、建築関係の仕事をしていた先輩が話してくれた体験談がある。
彼の専門は住宅のリフォーム。だが、扱っていたのは単なる修繕ではなく、主に人が亡くなった物件、いわゆる“事故物件”だった。
木造から鉄筋コンクリート、アパートや一軒家、時には海沿いの廃墟同然の別荘まで、彼の手がけた現場は多岐にわたる。その話を聞いていると、「死を飲み込む建物」という表現が浮かんでくる。
「現場に入るたびに、なにかを持っていかれる感覚がある」と、彼は静かに語った。
彼が最初に手がけたのは、町外れの古びたアパートで起きた自殺だった。中年の男性が首を吊った部屋だという。発見は早かったものの、室内には不気味な沈黙が染みついていた。カモイにはロープの痕がうっすらと残り、そこに触れた瞬間、気温とは無関係に掌が冷たくなったらしい。
「床や壁に目立つ汚れはなかった。でも、空気だけが異様に重かったんだ」
その時、彼は声を聞いたわけでも何かを見たわけでもない。ただ、息を深く吸うことすらためらわせる空気がそこにあった。
別の現場では、老人が自室で頸動脈を切って命を絶った。布団に包まっていたため、出血は抑えられているかと思いきや、壁一面に飛沫が散り、畳にまで血痕が染み込んでいたという。部屋全体が、まるで喉を裂かれたかのような生々しさだった。
「何日かけて清掃しても、寒気が残るんだ。気温じゃなく、人を遠ざける冷たさ」
その部屋は、結局借り手がつかず、静かに解体された。
だが、彼が最も強く覚えているのは、ある海辺の別荘での出来事だった。
元の住人が二階からロープで命を絶ったというが、その情報は作業員には伏せられていた。徹底的なリフォームの依頼が入り、彼も詳細を知らぬまま現場に入った。
夜間作業中、脚立に登っていた作業員のひとりが青ざめた顔で言った。
「……誰かが、足を引っ張ってる気がして」
冗談にしては真に迫っていたが、現場ではよくある話として、そのまま作業は続行された。
だが二日後、その作業員が突然倒れ、呼吸困難と高熱に襲われた。検査をしても原因は特定されず、「助かる確率は一割以下」とまで医者に言われたという。
奇跡的に意識を取り戻したのは、入院から三ヶ月後だった。
その頃、社長がぽつりと漏らした。
「……あの別荘、何かあるのかもしれんな」
その言葉を聞いた瞬間、彼の中でバラバラだった違和感が一本の線でつながったのだという。
「霊なんて信じてない。でも、現場に立った人間にしかわからない“何か”がある」
語り口は淡々としていたが、内に秘めた恐怖は確かに伝わってきた。
もちろん、すべての事故物件が異様なわけではない。ただ、孤独死や自殺の後処理には、必ず何かしらの凄惨さがついて回るという。
特に夏場の孤独死は、腐敗が早く、強烈な臭いが部屋全体を支配する。畳も床板も外し、基礎まで洗浄しないと臭気は取れない。虫の発生もひどく、作業中に吐き気を催すことも珍しくない。
冬であれば多少はましだが、それでも時間が経てば、遺体はミイラ化し、臭いが内壁の奥にまで染み込む。半年以上放置された現場もあったそうで、扉を開けた瞬間、強烈な悪臭が吹き出し、建物ごと解体されたケースもあるという。
「死んだ人は、その人の生き方の匂いを残していく」
その言葉は、不思議な詩情を帯びていた。
督促状の山が溜まったポスト、滞納された家賃や光熱費の通知――。金銭的な困窮が、死の背景に透けて見えることも多い。中には、清掃中に借金取りと鉢合わせして、奇妙な空気になったこともあるそうだ。
「事故物件ってのは、遺された者の荷を象徴してるようなもんだ」
彼はそう言って、話を締めくくった。
外から見れば、ただの部屋。しかし、その空間がどんな時間を孕んでいたかは、住んでみるまでわからない。
最後に彼が教えてくれたアドバイスは、実に皮肉なものだった。
「不安があるなら、不動産屋より近所の商店に聞け。利害関係のない人間の方が、本音を語ってくれるもんだ」
(了)
※読者さまからのご指摘を受け、リライトしました:2025年06月15日(日)