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石の名は r+4,334

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盲目の住職、無庵和尚に随行し、恐山を訪れたのは、もう十年以上も前のことになる。

あの旅の後、夢の中であの声がする。名前を呼ぶのだ。……あの石に刻まれていた、あの女の、声で。

当時、私はまだ住職の卵で、どこか世の無常も死者の霊も、書物のなかの空理空論のように感じていた。恐山の巡礼にも、内心では「見世物じみた土地」として軽んじていた。僧としてあるまじき慢心だったと、今にして思う。

恐山の地は、荒涼としていた。火山岩がむき出しになった無音の台地。あたりには硫黄の匂いが立ちこめていて、生きとし生けるものが一時でも滞在してよい場所には思えなかった。そんな中、点在する小石の山だけが、人間の気配を持っていた。

無庵和尚が立ち止まり、目の見えぬその顔が私たちに向けられた。眼窩の奥で、見えていないはずの視線が確かにこちらを射抜いた。

「いいか。ここに積まれている石には、すべて願いや怨念が込められている。冥界への供物だ。絶対に手を触れてはならぬ」

そう言われたにも関わらず、私は……愚かにも、ひとつの石を懐に入れてしまった。なにかに引き寄せられるように。いや、本当は見せびらかしたかったのだ。「恐山の石を持って帰ってきた」と語れば、どこか得体の知れぬ力を得たような気になれそうだった。

無庵和尚には見えていないはずだ、と思っていた。だが、あの人には、我々が見えぬものが見えていたのだ。

その異変は、帰りの車の中で起きた。五人ほどの僧を乗せたバンの中、無庵和尚が突然、顔をしかめて呻いた。

「……来ている」

車内の空気がぴんと張りつめた。誰も声を発せず、ただ和尚の言葉を待った。

「女が……凄まじい形相で……車の後を追ってきている」

運転手が慌ててバックミラーを覗き込んだが、舗装された一本道には誰もいない。助手席にいた先輩が振り返って「なにもいません」と言ったが、和尚はかぶりを振った。

「誰か、石を……持ち帰ったな」

その言葉に、私は手が震えた。懐に入れた石が、急に熱を帯びてきたようだった。怖くなって、思わず取り出し、手のひらで裏返してみた。

そこに、はっきりと――墨で書かれたような黒々とした筆跡があった。女の名だった。知らぬ名だったが、血で滲んだようなその文字は、確かにまだ「生きている」ようだった。

私は悲鳴を上げ、咄嗟に窓を開けてその石を放り投げた。アスファルトに叩きつけられたそれは、まるで脆い骨のように、音もなく割れた。

「駄目だ……!」

無庵和尚が絶叫した。「割ってはならなかった……!」

次の瞬間、車内の温度が一気に下がった気がした。背中が冷たい。息が白い。車のエンジン音すら、遠くから聞こえるようだった。

「女が……血を滴らせながら、這いながら……必死に、追ってきている」

私は震えが止まらなかった。車がいくら走っても、逃れられぬものがあると知った。すべてを打ち明けるしかなかった。

「私が……石を持ち出しました。裏に名前が……怖くて、思わず……」

無庵和尚は、顔を伏せたまま静かに言った。

「……元の場所に戻していれば、まだ望みはあった。だが、壊してしまった今となっては……」

その夜から、私は高熱を出した。体中が焼けつくようだった。医者に見せても原因は分からず、点滴も薬も効かなかった。

そして夢を見た。いや、夢ではなかったのかもしれない。

私の寝ている部屋に、何かが這ってきた。爪を引きずる音。ふとんの端を掴まれた。息がかかる。冷たい手が、私の喉を――

朝、目を覚ましたとき、布団には血のような赤黒い染みがあった。

それから数日も経たず、私は僧院を去った。いや、逃げたのだ。あの女から、恐山の石から。

今、こうしてこれを書いている私のもとにも、あの足音は近づいてきている。背後から這うような音が聞こえる。だが、もう私は逃げない。

……謝りたい。ただ、それだけなのだ。

あの石を、壊してしまったことを。

(了)

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