これは、東京近郊に住む友人の吉田さんから聞いた話だ。
彼がその日訪れたのは、場末の小さな食堂。時間は午後2時を回った頃で、ランチタイムの喧騒も過ぎ、店内には疲れた雰囲気が漂っていたという。テーブル席には数人の客がちらほら。調理場では年配の給仕のおばちゃんがフライパンを動かしながら、軽快な炒め物の音を奏でていた。
店内の隅、窓際に腰を落ち着けていたのは、ジャージ姿のおじさんだった。伸び放題の髪、うつむき加減の姿勢から、彼はこの食堂の常連のようにも見えたが、どこか近寄りがたい雰囲気があったという。その空間に、突然、騒がしい影が入り込んだ。
ドアの音が鈴を震わせ、派手な金髪にネックレスをぶら下げた若い男二人組が店内に足を踏み入れた。どこかけだるそうにメニューを眺め、適当に注文を済ませると、彼らの視線は窓際のジャージ姿のおじさんへと向けられた。
「おっさん、さっきからジロジロ見てんなよ」
一人が低く吐き捨てるように言った。もう一人も「ムカつく顔してんな」と言い放ち、笑い交じりにテーブルを叩く。おじさんは何も言わず、視線を下げたままだった。しかし、次の一言が店内の空気を凍らせた。
「ここ、おごってくれや」
金髪の一人が悪びれもせず、ふてぶてしくそう言ったのだ。周囲の客は、嫌な空気に包まれるのを感じつつも、視線を交わすことすら避けていた。そのとき、事態は突然の展開を見せた。
「ぐあっ!」
最初に声を上げたのは、金髪の若者の一人だった。彼が腹を押さえ、椅子から転げ落ちる。その手の隙間からは、じわじわと赤い血が染み出していた。誰もが何が起きたのか理解できない中、ジャージ姿のおじさんが立ち上がった。彼の手には、鈍く光る大型の刃物。ナイフというよりは狩猟用のそれに近い異様なものだった。
「うわっ……!」
もう一人の金髪が後ずさりする間もなく、その刃は顔面へと振り下ろされた。
店内は一気に修羅場と化した。顔を押さえた若者の指の間から、血が滴り落ち、床に赤い痕を残している。調理場で料理をしていたおばちゃんも、手を止めて振り返ったまま動けない。誰もが固まり、次の瞬間が恐ろしくて声を上げることすらできなかった。
血まみれの金髪の若者がうずくまるのを見届けると、おじさんは無表情のままその刃を再び振り上げ、今度は肩口へと突き刺した。その音は想像以上に生々しく、湿った音が耳に残る。若者が苦痛にのたうち回る中、おじさんは刃を置き、椅子を手に取った。
「バキッ……バキッ……!」
椅子が若者の頭部を打つたびに、乾いた音が響く。崩れ落ちるように動かなくなった金髪の若者に対し、ジャージ姿のおじさんの息が荒くなっていた。その様子は、何かを吐き出し終わったような解放感すら漂わせていたという。
その静寂を破ったのは、調理場のおばちゃんだった。彼女は恐れる素振りも見せず、おじさんに近づくと、穏やかな声でこう言った。
「もう十分やろ」
その声は、まるで幼い子どもを諭す母親のように優しく、けれども力強かった。おじさんは動きを止め、その場に立ち尽くした。おばちゃんはさらにおじさんの肩に手を置き、「落ち着き」と繰り返した。
その間、店内の誰もが息を潜めていた。誰一人、動くこともなく、警察の到着を待つだけだった。
警察が到着し、騒動が収束した後、吉田さんが印象に残ったのは、あのおばちゃんの態度だったという。あの異常な光景の中で、唯一冷静に立ち回ったのが彼女だったのだ。警察が事情を聴きに来ても、彼女は「あのおじさん、普段は優しい人やのに……なんかあったんやろね」と静かに語ったそうだ。
あの食堂が今どうなったのかは、誰も知らない。ただ、その店に再び足を運ぶ気には、どうしてもなれなかったという。
[出典:855 名前:名無しさん@おーぷん[sage] 投稿日:2015/12/23(水)13:43:12 ID:PcL]