中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

活力あふれる虚弱体質の母【ゆっくり朗読】1400

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これは私が、いや、正確には母が半年前から9月の終わりごろまでに経験した話。長いです。

43 :本当にあった怖い名無し:2011/12/04(日) 02:48:46.47 ID:veGHgml+0

今年の7月某日、もろもろの事情で、私は結婚を前に実家へ一度帰省するため、アパートから引越しすることになりました。
父は仕事の繁忙期でこれませんでしたが、母が有給をもらって代わりに来てくれました。
母は去年から体の調子が芳しくなかったのですが、とにかく外で遊ぶのが大好きな人で、今年の5月にトルコ旅行なんぞに行くような、本当に活力あふれる虚弱体質の人です。
さらにいうなら、何もないような場所でよく転ぶ、おっちょこちょいな人でもあります。
荷造りのときも、10センチの段差しかないアパートの玄関で派手にスッ転んでました。
私のアパートがあった某所は、海と山に囲まれた比較的のどかな場所で、高速を走らせれば、すぐに熊野や、お伊勢さんに行けるような立地の場所でした。
そんな場所ですから、旅行好きで観光大好きな母親が行動を起さないはずもなく。

「もえさん!お母さんちょっと熊野古道めぐり行きたい!」

ちょっと熊野古道めぐりってアンタねぇ、なんて思いもしましたが、言い出したら聞かない人ですし、行かない!なんて私がごねて後からネチネチ文句言われるのもイヤだしなぁ、という思いもあり、とてもすごく遠回りですが、引越しの荷物(クロネコさんの単身パックからあぶれ出た荷物)をひっさげて、熊野古道と那智大社、周辺のお社へ行くことになりました。

旅なれた母はあれよあれよと言う間に宿を確保し、行きたい社と観光スポットをググって決め、出だし快調に出発しました。

母は特定疾患の関係で少々膝を傷めていましたが、山岳用の杖を駆使して那智の滝と那智大社をすべて回り、(私は翌日筋肉痛で泣きました)
那智大社すぐ下の熊野古道の看板?のところで記念撮影をしてから、お宿へ行きました。
メインの道路からはずれたところにあるその宿、いや、宿というよりホテルに近い感じでしたけれど、とにかく泊まる予定の場所は、リアス式港のすぐ横をせり出た感じに立っている古めのお宿でした。

本来なら16時にはチェックインできる予定でしたが、那智大社の階段を下りるのに思ったより時間を食ってしまったので、ついたのは18時をまわっていました。

7月ですからちょうど夕暮れで、山間に沈む夕日が赤々と綺麗でした。
案内された宿は本当にオーシャンビューで、2人で泊まるにはちょっともったいないような、トイレとお風呂のついた和式のお部屋でした。

ここでかなりテンションのあがった私と母は、お泊り荷物セットの片付けもそこそこに写真を撮り始めました。
とにかく部屋のいたるところを私は撮り、母は窓から見える景色をしきりに撮っていました。

ちょうど夕日が完全に沈み込んで、母が夕日と海の写真を「綺麗綺麗!!」とキャイキャイ言いながら撮っていたときです。
突然ピタッと不自然に母は喋るのをやめました。
不審に思って「どうしたの?」と声をかけると、母は突然カーテンをシャッと閉めました。
無言で反対側のカーテンもシャッとしめて、母はニコッと笑いました。
「ん?ああ、ちょっとはしゃぎ疲れちゃったから、温泉行こうと思って!」

母にしては奇妙な笑い方だった気がしますが、まあ確かに歩きつかれたこともありましたし、一応曲がりなりにも虚弱体質な母を思えばそうなんだろう、とそのときは納得して、一緒に温泉へ浸かりに行き、布団も敷いて就寝の運びとなったのですが。

電気も消してさあ寝るぞ!となったところで母が突然、
「もえさん、ちょっとあなたのバッグ貸してくれない?」
「なんで?」
「添い寝するから」
意味がわかりませんでした。
けれども母はしきりに私のバッグと添い寝したがってましたので、まあ、そういうこともあるかもしれない、と無理やり私自身を納得させて、私のバッグを母に貸し与えて就寝しました。

その晩、私は付属してるお風呂場のほうから変な気配を感じて、薄目を開けました。

私はあんまり霊感のあるほうではないのですけれど、そこに何かいるとか、気配を読む(?)ことが稀にあるので、
「あー、何かいるんだなぁ。まあ古そうなお宿だし、いてもおかしくないよね」
と特に怖がりもせず結論付け、一応母の方を確認しようと寝返りを打ちました。

母は私のバックを何か大切な宝石箱でも守るような形で横抱きに抱え込み、私のほうを向いて(左半身を天井に向けて)寝ていました。

何かおかしい、どうしたんだろうこの母は。
そもそも何で私のバックなんか抱えるなんて言い出したんだろうと、このときになってようやく考え出しました。

母が抱きしめている私のバッグは、外行き用の小さめのバッグで、(母から言わせれば『ずた袋』だそうですが)
母の友人の小物屋さんから母が買い、私にくれた物でした。

特に何かいわれがあるとかいうものではありません。
中に入ってるものも特にこれといったものは入っていません。

お財布にお化粧品とスケジュール帳と、実家の方でいつもお世話になっている天狗様のお守りと、お伊勢さまの鈴守りと、那智大社で買ったお守りと、那智の滝の杯しか……

そこまで考えてから、母はもしかしてこの大量のお守りに用があったのかもしれない、と思い至りました。

それから、そういえば母がこの部屋に持ってきた荷物には、母がいつも持ち歩いているお守りの類が一切なかった、ということも思い出しました。

何かあったことは明白なのですが、霊的な対処法に疎い私には何もすることが思いつかず、とりあえず明日も早いだろうから、そのまま寝ることにしました。

朝起きて一番に、昨日感じた変な気配のことと、何があったのかを聞きました。
母は苦く笑いながら、
「写真撮ってたときに」と口を開きました。

「完全に日の沈んだ後、海を撮ったの。そしたら、ギャアアアアアアアアア!!って、なんか動物が絞め殺されるような、地を這うような変な声が聞こえちゃって、なんか怖くなって。お母さんのお守り全部車の中に置いて来ちゃってたから、もえさんの借りちゃった」
思い出すと鳥肌が立つと言って、母は私に腕を見せてくれました。
紛うことなきチキン肌がそこにありました。
その時撮った写真は怖くてデータが消せない、とのことだったのでそのままにしてありますが、何のことはない真っ暗な水面の写真です。
特に何か写っているということはありませんでした。

このときにその写真を払うか何かすれば、もしかしたら何か変わっていたのかもしれません。けれど私も母も、このときはまさかこんな大事になるなんて思っても見なかったのです。

少し怖い体験をしましたが、日も完全に昇って朝飯を食べてしまえば、もうすでにその話題は笑い話になってしまい、私たちは一路那智大社周辺のお社様めぐりへと向かいました。

といっても、今日は実家に帰らないといけないので、どうしても母が行きたがった、女性の神様が祭られているお社へ赴きました。

併設してお狐様も祭られていたので、何かとお狐様にはいつも助けてもらっているので、挨拶もかねてそちらも行きました。

女性の神様が祭られているお社は、早い時間だったからなのか神主さんも巫女さんも居らず、お守り処も閉まってましたが、とにかく中へ入りお参りへ行ってきました。
真っ白い石が敷き詰めれた不思議なところで、お供えされた色とりどりの花が綺麗な空間でした。

そこでお御籤を引くと母は大吉で、『大病は治る』と書かれてました。
(ちなみに私は末吉で、騒ぐんじゃない。もっとしっかりしろ。とお叱りを受けました…)
きっと特定疾患のことだなと思って、
「よかったねー!」と言いながら一路実家へ向かい、無事実家へたどり着くことができました。

実家に帰ってきて2日後、勤め先の病院で母が倒れました。

左足の膝から下が2倍以上に膨れ上がり、歩くことはおろか、立ち上がることすら出来なくなってしまったのです。
病名は蜂巣炎。それも早期発見したのにもかかわらずの劇症で、即日入院してしまいました。

入院して次の日、父と私は主治医に呼び出されました。

「景子さんのことですが、あまり芳しくありません……原因がわからないんです」

「え……あの、病原菌とか、検査結果は……」

「出てきた膿をシャーレで培養してみましたけど…死滅したものばかりでした。ちなみに、景子さんは最近転んだり傷をつくったりしませんでしたか?」

言われて、そういえば引越しの手伝いに来たときに玄関でスッ転んでたっけ、と思い至りました。

きっとそれだと思って主治医に言うと、
「恐らくそのときできた傷口から病原体が入り込んだのでしょう。病原体は不明ですが」とのことでした
それから入院の日程が未定なことや、これからの治療法などを話し、最後に、先生は大変言いづらそうな顔で言いました。
「このまま劇症が続くようなら、左足を切断します」
めったに泣かない父が泣きました。

その横で私は、あの女性の神様が祭られているお社で母が引いた、あのお御籤を思い出していました。
『大病は治る』
そう書いてあるのを思い出したんです。
妙な確信の元に父を慰めた私は、主治医にその切断の話は母にするのかと聞きました。
すると主治医は苦笑いをしながら「したんですけど」と、なにやら歯切れの悪い言い回しをしました。
「現実味のない話ですからアレなんでしょうけど、 Kさん、『あ、そうなんですか?まあでもたぶん大丈夫です』なんて言うんですよ…」
あ、これは、母も治るという妙な確信をもってるなと。

実際に、母はあれだけの劇症にもかかわらず、左足を切断せずにすみました。
まあ、発症した箇所が、まるで火にあぶられて焦げて炭になった肉のようになってしまいましたが。
けれども病状は平行線をたどり、3週間の入院が1ヶ月に伸び、2ヶ月に伸び…
夏だった気候は、とうとう秋(といっても残暑厳しい秋でしたが)になってしまいました。
その間にもいろいろと原因となってる菌の解析は進んでいましたが、どうにもこうにも決定打がなく、原因不明のまま。
どれが効いているのかもわからない抗生剤を3種類、24時間点滴する生活が続いていました。

いくら母が虚弱体質といっても、どうにもおかしい状態が続いたある日。
「なんかねえ、どうにもあれさぁ、“繋がってる”感じがあるんだよ」
と、入院生活にめちゃくちゃ飽き飽きしていた母が、愚痴でもこぼすかのようにつぶやきました。

曰く、
「例のあのキモチワルイ叫び声の主と、限りなく細い糸で繋がってる感じがする」と。
なんとなく私も、あのキモチワルイ叫び声の主が一連の原因なんじゃないかなあとは思っていたので、
「ああ、そっかあ」と頷きました。
頷いたところで、知り合いに霊的な対処法に強い人なんていないし、(強い人は身内にいますが、払えない人なので)
どうすることもできないのですけれど。

考え抜いた末に、私は私自身が最強だと思っているのお守りを持っていくことにしました。
何かとお世話になっているお狐様を、母の病室に持っていくことにしたのです。

といってもこのお狐様、社に入っているようなお狐様ではなく、(ちなみに屋敷守としてのお狐様も家にはいますが、今回はその方ではないです)
私が物心つくころから20ウン年間大事にしている、亡くなった祖母から貰った狐のぬいぐるみなんですが。
このお狐様関連のお話はまあまあ結構あるのですが、それはまた機会があったときにでも。

とにかくその日、お狐様に「母さんが良くなりますように」とよくよくお願いしてから、お狐様をバッグの中に入れて母の病室に行き、おもむろにお狐様を取り出して、
「はい」と母の左ひざの上に(布団の上から)乗せました。
母は「その子持ってきたの?」となにやら苦笑していました。
どうやら母は、天狗様のほうを持ってくるのだと思っていたらしいです。
(ちなみに、天狗様のお面をお借りしてくることも考えましたが、 私は背が低くて神棚に祭ってある面に手が届かなかったのであきらめた、という経緯があります)

なんやかんや世間話をしてる中、ずっとお狐様を乗せておき、そろそろ帰ろうと思い立って、お狐様を持ち上げた瞬間に、ゴロゴロゴロドォオオオンっていう感じで雷が落ち鳴り響きました。
びっくりして窓の外を見ましたが、雲ひとつない快晴です。
「…あれ?いま、雷落ちた?」

よね?と母を振り返りましたが、母はキョトンとして。
「え?別に?何いってんの?」
確かにあの時、私はゴロゴロゴロという地響きのような音と、バリバリバリともドォオオンともピシャアアアンとも聞こえるような、あの雷がものすごい近くに落ちたときの音を聞いたというのに。
腑に落ちないながらも、まあ、たぶん、きっと気のせい。ということにして、お狐様を胸抱え込んで、お狐様の頭を2,3回撫でてからバッグにしまいこんで、帰宅しました。

その日から、母の平行線をたどっていた病状が急に回復へと向かい、(主治医も舌を巻くような回復っぷりで、もしかしたらこのまま一生車椅子生活かもなんて言われていたのに、 1週間後には病院内をさっさか歩けるまでになってしまいました)
10月に自宅療養へ移行、11月には見事職場復帰を果たしてしまいました。

ちなみに、母の感じていた“繋がり”ですが、回復へと向かい始めたあたりから感じなくなった、とのことでした。
やっぱり、あの私の聞いた雷の音のようなものが関係しているのかなあ、なんて思っているのですが、母は信じてくれません。
あと、発症した箇所がまるで火にあぶられて焦げて炭になった肉のようになったのは、母に大吉をくれた女性の神様が清めて焼いてくれたんじゃないのかなぁ、なんて思っています。
(火を司る神様にも近しい方でしたし)

そんなわけで一連の騒動は幕を閉じ、いろんな方々に守ってもらったらしい母も、今は隣の寝室でのん気に鼾をかいて寝ています。
ちなみに、原因となった例のキモチワルイ声の主ですが、未だわからずじまいです。

実は私の撮った部屋の写真に、真っ黒いゴリラのようなサルのような形の変なモノが写りこんでいたので、もしかしたらソレが声の主かもしれませんね。

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