会社の昼休みに、妙にテンションの高い先輩が笑いながら話してくれたことがある。
「オレのじいちゃんがさ、死んだんだけど……焼かれてる最中に目ぇ覚ましたんだってよ」
飲んでた麦茶が喉に詰まりそうになった。まさかの切り出しだ。
「マジで?」
「マジマジ。田舎ってのはな、昔は何でもアリなんだよ」
そのまま先輩は話を続けた。聞くつもりはなかったのに、耳が勝手に引きずられていった。
先輩の祖父は、ずいぶん昔に死んだらしい。原因はフグ。夕飯に食ったフグに当たって、そのまま中毒死。紫に染まった顔で、おばあさんが帰宅したときには、すでに冷たくなっていたという。
通夜は次の日。さらにその翌日には火葬――といっても、当時はちゃんとした火葬場なんか田舎にはなくて、山奥にある「焼き場」と呼ばれる場所で、自分たちで焼くスタイルだったらしい。焼き場には簡易な炉のようなものがあるだけで、火葬業者なんてもちろんいない。親族と近所の者が協力して、薪をくべ、火をつける。
その日は少し段取りが遅れたようで、遺体が焼け終わる頃には、あたりもすっかり暗くなっていた。
骨を拾いに向かったのは、祖父の知人の男二人。ひとりがシャベルを、もうひとりが灯油ランプを手に持ち、山の奥へ分け入った。
焼き場に着き、いざ骨を拾おうと棺の中を覗いたその瞬間、ふたりとも息を呑んだ。
骨が、なかった。
棺は黒い灰で満たされていたのに、そこにあるはずの骨が、どこにも見当たらない。
まさかと思い、灰の中をよく照らしてみた。
すると、灰が引きずられたような痕が、棺から外へと続いていた。
ふたりはランプを掲げ、その跡をたどった。
……すぐ近くの木の下で、それは見つかった。
あぐらをかいた姿の男。全身が赤黒く焼け爛れ、皮膚の下には炭のような黒い塊。顔は半分ほど崩れていて、ところどころ骨が露出している。
それでも、なぜだろう。そこには、意志のようなものが宿っているように見えたという。
「オレが思うにさ」先輩が言った。「じいちゃん、最初は仮死状態だったんじゃねえかな。火にくべられて、途中で息吹き返しちまったんだよ」
そして火の中から這い出して、木の下まで……命の残り火で、そこまでたどり着いた。
言葉を失ったふたりのうち、ひとりが動いた。
その炭と化した体を、もう一度焼き場に戻そうと、腕を伸ばした。
そのとき、もうひとりの男が叫んだという。
「きいぃぃさまぁぁああ!!死んでまで人様に迷惑かけるかぁぁぁああ!!」
手にしていたシャベルで、焼け焦げた体を滅多打ちにし始めた。
骨が折れる音が、湿った森に響いた。
そして蹴るようにして、遺体を焼き場まで引きずり戻した。
その祖父という人間、金貸しをやっていたらしい。しかもかなり悪質なやり方で、借金を取り立てるときには子どもにも手を上げるような、村でも有名な人物だったとか。
先輩いわく、遺体を暴行した男も、実は祖父に一家ごと潰されたことがあるという。
「オレ、怖かったのはな、この話を笑い話として聞かされたことなんだよ」
と、先輩は急にトーンを落として呟いた。
「なんで知ってるかって?じいちゃんを叩かなかったほうの男が、何年かして死ぬ間際にな、とうとう墓場まで持ってけなくて、ばあちゃんに話したらしいよ」
そう言ったあと、先輩はまたあの高い声で笑い始めた。
「アッハハハハハハハハハハ!」
……誰も、笑わなかった。愛想笑いすらできなかった。時間が止まったようだった。
先輩の瞳は、そのときだけ妙に濁っていた気がする。後で気づいたんだけど、その先輩、話の中に出てくる「叩かなかった男」と同じ苗字だった。
もしかすると、墓場まで持っていけなかった秘密は、もう一度、別の形で継承されようとしてるのかもしれない。
(了)
解説
この作品は、いわば「語りの連鎖」によって蘇る民俗的怪異の見事な現代化だ。
題名の「焼き場から這い出した男」は、読者にグロテスクなイメージを即座に与えるが、実際の恐怖の焦点は死体そのものではなく、“語ること”の継承にある。
物語は一見して、職場の昼休みという平凡な場面から始まる。ビニールの机、麦茶、軽口を叩く先輩――そこに「死者が焼かれながら蘇った」という非現実が、軽々と挿し込まれる。その落差がまず効いている。
この“日常の会話に混ざる怪異”という構造は、日本の怪談が古くから好んできた手法で、現代的には「実話怪談」の典型形式でもある。
作品の中核は二重構造になっている。
第一層では、祖父の焼死と蘇生。
第二層では、その話を語る“先輩”という存在の異様さ。
前半の「焼き場」の描写は、郷土的記憶としての恐怖を非常に丁寧に再現している。
山奥の焼き場、灯油ランプ、灰に残る引きずり跡──これらは一切の演出を排した、民俗的リアリズムの延長にある。
重要なのは、ここで“超自然的説明”を避けている点だ。仮死状態という合理的な可能性が提示される。だがその合理のなかにこそ、異常が棲みついている。
死者が動いたのか、罪が動いたのか、判然としない。
中盤、炭化した祖父の遺体を「もう一度焼き場に戻す」くだりは、物語の頂点だ。
ここでは恐怖の質が転換する。
“死者が動く”というホラーではなく、“生者が死者に暴力を振るう”という倫理的反転が起こる。
叫びの台詞――「死んでまで人様に迷惑かけるかぁ!」――は、怒りというよりも、村の共同体が罪を再焼却しようとする呪文に近い。
火葬という儀式が、贖罪と暴力の区別を失っていく。
そして後半、物語は“語りの継承”へとねじれる。
祖父を焼いた男のうち「叩かなかったほう」が、死ぬ間際に秘密を吐露する。
その告白を聞いたのが“ばあちゃん”であり、今こうして語っている“先輩”の血筋へと伝わっている。
つまり、怪異は物理的に再発するのではなく、物語として遺伝しているのだ。
語ることが呪いの継続手段になっている。
先輩がラストで笑う場面は、恐怖の焦点が完全にズレる瞬間だ。
笑いとは、死と罪を無理やり日常に戻す行為だが、その笑いに誰も反応できない。
なぜなら、語りが終わった瞬間、聞き手たちはその“継承の輪”の一部になってしまったからだ。
話を聞くという行為自体が儀式化している。
最終行、「その先輩、話の中に出てくる『叩かなかった男』と同じ苗字だった」で、物語は内側へ閉じる。
ここでオチは「血の循環」型、つまり“物語が話者を選び続ける”タイプの反転。
死んだ者が這い出すのではなく、語る者が這い出している。
この作品の本質は、「語ることは、死を焼き切れない」という一点にある。
焼いても焼いても残るのは骨ではなく“話”であり、それが再び口を持って蘇る。
タイトルの「男」は、祖父でも先輩でもなく、実は“語り”そのものを指しているのかもしれない。
文体は淡々としており、あえて感情的な形容を避けることで、読者自身の想像を刺激する。
また、細部の民俗的リアリティ(フグ中毒、山の焼き場、灯油ランプ)は、昭和中期以前の“生きた死”の風景を的確に呼び出している。
これにより、物語はフィクションでありながら、聞き覚えのある土地の記憶のような現実味を獲得している。
要するにこれは、“焼け残った語り”の話だ。
誰かが火を絶やすまでは、きっとまたどこかの昼休みに、同じ笑い声が響くだろう。