私は今でも、食事の一口目だけは人前で食べられない。
箸を持つ。茶碗を持つ。そこまでは普通にできる。だが、湯気の立つ白飯を前にすると、どうしても顔が近づいていく。自分では背筋を伸ばしているつもりなのに、茶碗の縁が鼻先に触れそうなところまで、首だけが落ちている。
気づいて慌てて戻す。
一度戻せば、あとは普通に食べられる。だから誰かに相談するほどのことではない。癖だと言えば癖で済む。疲れているだけだと言われれば、それで終わる。
ただ、その一瞬だけ、私はいつも思い出す。
十年前、図書館の前で聞いた話を。
その日は、夕方の光が古い図書館の窓に斜めに入っていた。湿った紙と埃の匂いが、扉の開くたびに外まで漏れていた。私は調べ物の帰りで、偶然会った旧友と、入口脇のベンチに並んで座っていた。
互いの近況を話し終え、会話が途切れたころ、友人が急に言った。
「知り合いの子供がな、飯を食えなくなったんだ」
食べられなくなったのか、と聞くと、そうではないと言う。
箸もスプーンも使わなくなったのだそうだ。手づかみでもない。器を床に置き、顔を近づけ、舌で掻き込む。叱ると泣く。椅子に座らせても、いつの間にか床に膝をついている。
「犬みたいに食うんだよ」
友人はそう言って、笑わなかった。
その家族は医者を回った。発達や精神の検査も受けたが、はっきりしたことは何も言われなかったらしい。困り果てた親が最後に連れていったのが、どこかの拝み屋のような老人だった。
老人は子供を見て、家の庭にある石のことを尋ねたという。
その子は、庭の隅にある古い石に、何度も小便をかけていたらしい。親は子供の悪ふざけだと思って注意していたが、深く気にしてはいなかった。
老人は、その石には昔から何かがいる、と言ったそうだ。
何か、と友人に聞いたが、彼は首を振った。
「そこまでは知らん。ただ、謝らせたらしい。石を洗って、米と水を置いてな。そしたら、治ったって話だ」
それだけだった。
私はそのとき、気味が悪いとは思ったが、どこかで作り話だとも思っていた。田舎の石。子供の異常。拝み屋。供物。昔話に必要な道具が揃いすぎている。
友人も、それ以上は話さなかった。
別れ際、彼は図書館の中を振り返った。夕方の閲覧室には、もうほとんど人がいなかった。
「ああいうのはさ、どこまでが子供で、どこからが別のものなのか分からないから嫌なんだよ」
彼はそう言った。
その言葉だけが、妙に残った。
異変が始まったのは、それから数年後だった。
最初は食事ではない。視線だった。
夜、部屋で一人になると、背中の少し下に、誰かの目があるような気がした。肩越しではない。後頭部でもない。腰のあたり、服の下の皮膚を、じっと見られている感じだった。
振り返っても誰もいない。
廊下で足音がすることもあった。裸足で濡れた床を歩くような、ぺた、ぺた、という音だった。近づいてくるのに、扉の前までは来ない。気配が止まり、しばらくして消える。
鏡も見づらくなった。
自分の背後に何かが映るわけではない。ただ、鏡の中の自分が、ほんの少しだけ先にこちらを見ることがあった。私が顔を上げる前に、鏡の中の目だけがこちらを向いている。そう見えた。
誰かに話せば笑われる。だから黙っていた。
そのころ、知人から寺を紹介された。
真言宗の小さな寺だった。観光地でもなく、立派な山門があるわけでもない。住宅地の奥に、古い墓地と並んで残っているような寺だった。
待合のような部屋で順番を待っていると、隣に母親と男の子が座っていた。男の子は小学校に上がるかどうかの年齢に見えた。母親はずっと膝の上で指を組み、子供の顔を見ないようにしていた。
その子は、持参した小さな容器から菓子を食べていた。
手を使わなかった。
容器を畳の上に置き、顔を近づけ、舌で拾っていた。母親が慌てて容器を持ち上げると、子供は口を開けたまま、少しの間、母親の手元を見ていた。
私は動けなかった。
図書館の前で聞いた話と、細部は違う。それなのに、見てはいけない続きだけを見せられている気がした。
しばらくして、僧侶が出てきた。
年齢の分からない、痩せた男だった。白髪ではないのに年寄りにも見え、皺が少ないのに若くも見えなかった。
僧侶は男の子を一目見て、母親に何かを小声で言った。母親は泣きそうな顔で頷いた。私は聞き取れなかったが、そのあと僧侶が子供の頭に手を置いたとき、男の子が急に私を見た。
子供の目ではなかった、と言いたいわけではない。
ただ、こちらを見る必要がない場面で、まっすぐ私を見た。
その目には、驚きも怯えもなかった。知っている人間を見つけたような目だった。
私の番になった。
私は視線や足音のことを話した。鏡のことも話した。図書館で聞いた子供の話も、寺で見た男の子のことも、順序立てて話すつもりだった。
だが、僧侶は途中で遮った。
「飯はどうです」
意味が分からず、聞き返した。
「飯のときです。変わったことはありませんか」
その時点では、まだ自覚していなかった。私はないと答えた。
僧侶はしばらく黙っていた。私の顔ではなく、胸元でもなく、もっと下の、腹のあたりを見ていた。
「あなたに憑いている、という言い方は違うかもしれません」
そう言ってから、また黙った。
私は説明を求めた。どうすればいいのか、何が起きているのか、はっきり言ってほしかった。
僧侶は首を振った。
「言葉にすると、そちらへ寄ります」
何が、と聞いても答えなかった。
帰り際、私はさっきの男の子のことを聞いた。あの子も同じなのか、と。
僧侶は、境内の隅にある手水鉢を見ていた。水面に、竹の影が揺れていた。
「神さんの子です」
それだけだった。
その言い方が嫌だった。
救われたという意味にも聞こえたし、もう戻らないという意味にも聞こえた。子供のことを言っているのか、その子の中にいるもののことを言っているのかも分からなかった。
私は寺を出た。
その後、背中の視線は強くなった。
足音は、部屋の中でも聞こえるようになった。台所に立っていると、すぐ後ろで、ぺた、と鳴る。振り向くと何もない。だが、床に薄く湿った跡があるように見えることがあった。拭こうと近づくと、もう消えている。
私は誰かに話したくなった。
それで、ネット掲示板に書き込んだ。
図書館で聞いた子供の話。寺で見た男の子。自分に起きている視線や足音。僧侶の言葉。石のことは曖昧にした。寺の名前も出さなかった。
返ってきたのは、ほとんどが嘲笑だった。
「病院行け」
「霊感商法」
「その坊主、通報したほうがいい」
「犬食いしてるのは子供じゃなくて、お前じゃないの」
その一文を見たとき、腹の奥が冷えた。
私はすぐに否定した。
自分はそんなことをしていない。食事は普通にできる。病院でも異常はない。寺でも金を取られたわけではない。千円ほど包んだだけだ。
書けば書くほど、相手は面白がった。
「必死すぎ」
「自覚ないだけだろ」
「今夜、茶碗を床に置いてみろよ」
私は怒っていた。いや、怒っているつもりだった。
実際には怖かったのだと思う。
それから数日、私は掲示板を見ないようにした。
だが、食事のときだけ、あの書き込みが頭に浮かぶ。
「犬食いしてるのは子供じゃなくて、お前じゃないの」
そんなわけがない。
そう思うほど、箸を持つ指に力が入った。茶碗を口元へ運ぶ動作がぎこちなくなった。飯粒を箸でつまもうとして、うまく取れない。味噌汁の椀を持つと、なぜか床に置いたほうが自然な気がした。
ある晩、私は一人で夕食を食べていた。
テレビはつけていなかった。台所の蛍光灯だけが白く光っていた。茶碗には少し冷めた飯が残っていた。
気づくと、箸が膝の上に揃えて置かれていた。
茶碗は床にあった。
私は正座していた。
顔が、茶碗のすぐ上にあった。
鼻先に米の匂いがした。唇に、茶碗の縁の冷たさが触れていた。舌の先に飯粒がひとつ乗っていた。
私は悲鳴を上げようとした。
だが、その前に飲み込んでいた。
喉が動いた。自分の喉なのに、自分のものではないようだった。
背後で、ぺた、と音がした。
振り向けなかった。
そのかわり、私は机の上のスマホを見た。掲示板の通知が来ていた。見ないようにしていたスレッドに、新しい書き込みがついていた。
開くつもりはなかった。
だが、指が動いた。
画面には、前に見た書き込みが残っていた。
「犬食いしてるのは子供じゃなくて、お前じゃないの」
その下に、私のアカウントで返事がついていた。
書いた覚えはない。
時刻は、つい数分前だった。
「はい」
私は画面を見つめた。
すると、すぐに誰かが返した。
「やっぱり」
その一言を見た瞬間、背中の視線が消えた。
消えたのに、安心はなかった。
それまで外から見られていたものが、内側からこちらを見始めたような感じがした。
私は今も、食事の一口目だけは人前で食べられない。
それ以外は普通に暮らしている。仕事にも行く。会話もする。病院へ行けば、たぶん異常なしと言われるだろう。
ただ、誰かが私の話を疑うときだけ、腹の奥が少し温かくなる。
掲示板でも、コメント欄でも、直接でもいい。
「そんなことあるわけない」
「自分でやってるだけだろ」
「犬みたいに食ってるのは、お前じゃないのか」
そう言われると、私は反射的に否定する。
否定しながら、どこかで待っている。
相手がもう一度、同じことを言うのを。
[出典:383 :本当にあった怖い名無し:2010/11/15(月) 06:17:13 ID:+Y8zdWHkP]