小学生のときだった。
母が勧誘を受けるようになったのは、ある梅雨の湿気がまとわりつく午後だった。
ピンポンとチャイムが鳴り、玄関に出た母は、赤い傘を持った女に「心を救うお話、聞いていただけませんか」と頭を下げられた。
母は優しい人だった。押しに弱く、強く拒むことが苦手で、女の話をうんうんと頷きながら聞いていた。
それが始まりだった。
三日に一度は必ずやってきた。あの女。
母は「すみません、また今度……」と笑って断っていたが、やがて顔がやつれていった。
何かを吸い取られているように。話す内容はほとんど覚えていない。ただ、女の顔がしつこくて、にやけていたのだけは覚えている。
父が一度、強めに追い返したことがある。「もう来ないでくれ」と。
そのとき女は、静かに笑って、こう言った。
「だめなのよ。あなたたちは……運命だから」
運命。そんな言葉、あの時は意味がよくわからなかった。
でも、その言葉の直後、母がいなくなった。文字通り、姿が消えた。
警察が動いた。
近所のお巡りさんも巡回してくれた。
だけど、何の手がかりもないまま一週間が過ぎた。
その週末、また女が来た。
「ほらね。言った通り。信じてくれたら、お母さんは帰ってくるわ」
不気味な笑みを浮かべていた。
その時家にいたのは、俺と姉と弟だけだった。父は仕事中。
俺たちは震えていた。
「今度はお父さんがいるときに来るからね」そう言って女は帰っていった。
姉が急いで父に電話した。父はすぐ帰ると答えた。
でも、母は帰ってこなかった。
姉は学校に連絡して、しばらく休ませてくれと伝えた。
家には警察と、担任の先生がよく来てくれた。心強かった。
あの頃から、少しずつ、何かが壊れていく音がしていた。
だけどそれはまだ、気のせいだと思い込めた。
仏壇の異変に気づくまでは。
運動会のあと、みんなで久しぶりに笑った帰り道。
玄関の鍵が開いていた。泥棒だと思った父は叫んだが、違った。
仏壇が、青いガムテープでびっしりと封じられていた。
仏壇の、開くはずのない戸の隙間から、なにか赤黒いものが滲んでいた。
姉が叫び、弟が泣き叫んだ。
誰かがまだ家にいるかもしれない。
そう思って、俺たちはひとつに固まった。
警察がやってきて、調べた結果、物は何も取られていなかった。
泥棒ではなかった。
ただ、不自然に多すぎる足跡と、仏壇の異常だけが、そこにあった。
一ヶ月後、母の死体が見つかった。
群馬の山中、手を縛られたまま首を吊っていた。
ゆるく結ばれていて、自分で解ける程度の結び方だったという。
自殺じゃない。
でも、なぜ?
答えは出なかった。
一年近く、どこにいたのか、何をしていたのか、なにも。
その直後、姉が暴行された。
顔が腫れ上がるほど殴られ、汚された。
助けてくれた通行人がいたが、もう遅かった。
姉は気丈に振る舞っていた。
けれど、無理をしていた。
ある日、学校から帰ると、黄色い泡を吐きながら、ベッドに倒れていた。
睡眠薬を大量に飲んでいた。
入院。
そして退院。
しばらくして、姉は本当に自殺した。
父は会社を辞めた。
呆けたようになり、俺が話しかけても「うん……」としか言わなかった。
ある日、父が仏壇の前で潰れていた。
俺は、無性に悲しくなって、背中にしがみついた。
わんわん泣いた。
父も泣いた。
それが、最後の父だったのかもしれない。
弟が轢かれたのは、その数ヶ月後。
車と壁の間でぺしゃんこにされた。
最初は脇見運転と言っていた若い男が、あとから自白した。
「金をもらって、やった」
金を渡したのは、あの女だった。
一人で宗教を作り、一人で勧誘して、一人で憎しみを募らせていた。
けれど、おかしい。
空き巣の時の大量の足跡。
母をどこに閉じ込めていたのか。
女は何も語らなかった。
身分を証明するものを持っておらず、住所も名前も嘘だった。
正体不明のまま、拘留中に死んだ。
父と俺は引越しを決めた。
最後の夜、近所の銭湯に行った。
風呂上がり、父が少しだけ笑った。
「温まったなあ」と言って、俺の頭をくしゃっと撫でた。
家に戻る途中、サイレンの音が聞こえた。
我が家が、燃えていた。
燃え落ちた家の中から、灯油の染みた布が見つかった。
放火。犯人は捕まらなかった。
父は、もう限界だった。
引越し先で、幻を見るようになった。
母の声、姉の笑い声、弟の足音。
俺にも見えていた。
でも、無視していた。
「醤油切れちゃった」
ある晩、台所から聞こえた母の声。
父と目が合った。
「はっはっはっは!母さん、今買ってくるわ!」
その直後、父は俺の首を絞めた。
顔が赤黒くなった頃、手を放し、目を見開いて言った。
「ああ……俺は……なんてことを……」
そう言って、ベランダから飛び降りた。
今、俺だけが残っている。
俺はもう三十二歳になった。
家族は皆、部屋にいる。
俺の中学時代のままの姿で、笑っている。
姉は制服姿で、弟はランドセルを背負っている。
母はエプロン、父は新聞を読んでいる。
病院にも行った。
薬ももらった。
でも、もういいと思ってる。
これは俺が書き残す記録。
俺と、俺の家族が、確かに千葉県に存在していたことの証明。
(了)
[出典:1: 名も無き被検体774号+ 投稿日:2012/03/25(日) 16:58:56.64 ID:ywTJEt730]