これは、ある若い男から直接聞いた話だ。
その日、彼は夕方から映画を観る約束をしていた。相手は大学時代からの友人で、最近は仕事に追われてほとんど顔を合わせていなかった。久しぶりの外出だったらしく、彼は待ち合わせの三十分も前に駅前の広場へ着いていたという。
だが、時間を過ぎても友人は現れなかった。
五分、十分。連絡もない。電車が遅れているのかと思い、彼はスマートフォンを取り出して電話をかけた。呼び出し音が数回鳴ったあと、通話が繋がる。
「もしもし?」
確かに友人の声だった。いつもの少し鼻にかかった声。彼は安心し、「どこだよ、もう着いてるぞ」と笑い混じりに言った。
だが、次の瞬間、通話が唐突に途切れた。ノイズもなく、まるで誰かが線を抜いたかのように。
電波表示は問題ない。周囲もざわつく駅前で、圏外になる理由はなかった。
再度かけ直そうとした、そのときだ。逆に着信が入った。表示は友人の番号。
彼は何の疑いもなく応答した。
「おーい、さっき切れたぞ」
だが、返ってきたのは、まったく別の口調だった。
「お電話代わりました。担当の亀田と申します」
耳が拒絶するような違和感。声質は友人そのものなのに、抑揚も温度も違う。妙に整った、業務的な声音。
冗談だろうと彼は思った。久々の再会に、悪ふざけでもしているのだろうと。
「……ああ、川越商事の川田です。この前はどうも」
彼も適当に名乗り、茶番に付き合う。少しすれば笑い声が返るはずだった。
だが、相手は間を置いて言った。
「……川田さんで宜しいのですね。私は亀田です」
確認するような言い回し。その背後に、呼吸音が混じる。一定で、深い。
彼は一瞬、言葉を失った。
「おい、どこにいるんだよ。もう着いてるぞ」
「何の待ち合わせをしているのですか?」
問いが、こちらの状況を本当に知らない者のそれだった。
「映画だろ。お前が誘ったんじゃないか」
沈黙。
そして、低く抑えた声。
「……川田さん。私は今日、行けそうにありません」
行けない、ではなく、行けそうにない。その言い方が、彼の背筋を冷やした。
次第に呼吸音が大きくなる。
スゥゥゥ……ハァァァ……。
まるで受話口のすぐそばで、誰かが息を吸い、吐いている。
「行けません」
小さく、呟く。
「行けません、行けません、行けません、行けません」
同じ抑揚で、同じ間隔で、正確に繰り返される。
友人の声だ。だが、そこに意思がない。ただ録音を再生しているような、均質な反復。
「おい、ふざけるなよ」
彼は苛立ちと恐怖をごまかすように声を荒げた。
その瞬間、呼吸が止んだ。
無音。
そして。
『エルキキイイイイイイイ』
意味を成さない、擦れた叫びのような音が鼓膜を打ち、直後に通話は強制的に切断された。
彼はその場でしばらく動けなかった。周囲の喧騒が遠くに感じられ、自分だけが薄い膜の内側に取り残されたような感覚だったという。
結局、映画館へは向かわず、そのまま帰宅した。
夜、自室でようやく落ち着きを取り戻し、通知を確認する。メールが二通届いていた。
一通目は友人から。
「ごめん、急に仕事入った。さっき電話かけたけど、誰かと通話中だった?」
送信時刻は、最初に通話が切れた直後。
だが、彼が受けた二度目の通話は、そのあとだった。
二通目は差出人不明。
「いっしょにいきましょうね」
それだけ。句点も署名もない。
タイムスタンプは、あの奇声と同時刻。
彼は震える指でメールの詳細を開いた。差出人アドレスは見覚えがない。だが、どこかで見た気がした。
しばらく考えて、ようやく気づく。
そのアドレスの一部が、自分の電話番号と同じ並びだった。
彼は設定画面を開こうとした。だが、なぜかロックが解除できない。指紋認証が通らない。何度も試すが、拒否される。
画面の上部には、通話履歴の通知が一瞬だけ表示された。
「発信:川田」
彼はそんな名前を登録した覚えはない。
翌日、友人と改めて会った。何事もなかったかのように映画の話をし、仕事の愚痴を言い合った。
あの通話について、彼は何も聞かなかった。
聞いてしまえば、何かが確定してしまう気がしたからだ。
ただ一つ、奇妙なことがあるという。
それ以来、友人から電話がかかってくるとき、必ず一瞬だけ表示が揺らぐ。
友人の名前と、その下にもう一つ、見慣れない名前が重なって表示される。
「亀田」
すぐに消える。通話が始まる頃には、何もなかったように元に戻る。
だが彼は、着信のたびに思い出す。
あの日、電話の向こうで名乗ったのは、誰だったのか。
そして、あのメールは、本当に彼だけに届いたのか。
あなたの携帯にも、同じ番号が保存されていないと、言い切れるだろうか。
[出典:421: 本当にあった怖い名無し:2010/07/20(火) 23:17:23 ID:VD1KLsH80]