去年の夏、俺は目の手術で二週間ほど入院していた。
その期間、相部屋だったバアさんが洒落にならないほど怖かった。
入院初日、バアさんのところには息子夫婦が一度だけ顔を出した。それ以降、誰も来ない。
一方で俺のところには友人や親戚が次々と見舞いに来る。それがバアさんには気に入らなかったのか、愚痴がどんどんエスカレートしていった。
最初は「うちの子は薄情だねぇ」くらいだったのが、数日で様子が変わり始めた。
「あたしが死んだら怨霊になって、みんな殺すんじゃ」
「テツコも、サダオも、ヘイゾウも…」
どうやら息子や親族の名前らしい。
「赤ん坊もだ、見たやつみんな、殺しちゃる!」
その声は低く、ねっとりしていて、病室の空気を凍らせた。
看護婦たちも手を焼いた。優しく諭そうものなら「てめーも呪うぞ!」と怒鳴られる。数人がかりでなだめようとしても逆効果だった。
数日後、病院が呼んだのか、息子夫婦とおぼしき中年の夫婦が訪れた。カーテン越しに彼らの声が聞こえる。
「母さん、あんまり人に迷惑かけちゃだめだよ」
その間、バアさんは妙に静かだった。
だが、その夜が最悪だった。
真夜中、俺は隣のベッドからの声で目が覚めた。
「うぅ~~~、に~~く~~い~~」
暗闇に響く声に背筋が凍る。俺は耳を塞ぎ、寝ようと必死だった。
だが、違和感を覚え、恐る恐る薄目を開けた瞬間、見てしまった。
バアさんのひんむいた目玉が、俺のカーテンの隙間から覗いているのを。
すんげぇ見てる。俺を。
「サダオぉ…」
俺じゃない。そう叫びたかったが、怖くて声が出ない。
「サダオぉ…おめさん、死ぬぞぉ…」
震える声が耳を刺す。その後、バアさんは息子への悪口を吐き散らし、自分のベッドに戻った。
だが最後に、彼女は小さなものをカーテンに向かって投げつけた。
「ぽすっ、ぽすっ」と不気味な音を立てて。
翌朝、俺は退院した。二度とあの病院には戻りたくない。
そして気づいた。カーテンの下に散らばった黄ばんだ歯を。
その夜のバアさんの口元が血だらけだった理由を、俺は悟った。
あの歯を拾った看護婦の表情を思い出すたびに、背筋が寒くなる。
[出典:585 :2007/01/29(月) 15:33:24 ID:7gN5RjH60]