ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

短編 ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

隣の婆さんが歯を投げてきた夜 rw+6,734-0211

更新日:

Sponsord Link

あの夏の病室の空気は、今も肺の奥に残っている。

手術痕が鈍く疼く夜だった。薄い布団と蛍光灯の白さだけで構成された空間に、消毒液と洗い立てのシーツの匂いが漂う。窓の外には紫がかった夕焼けがわずかに残り、廊下の奥からは規則正しい機械音が滲むように届いていた。天井灯は低く、四角い光が影を引き延ばす。カーテンの擦れる音だけが、呼吸の代わりに部屋を満たしていた。

隣のベッドには、痩せた老女が横たわっていた。骨ばった手と薄い髪。顔には、古い写真のように柔らかな皺が浮かぶ。差し入れられた菓子折りは、封も切られないまま枕元に置かれていた。

入院初日の夕方、息子夫婦らしき男女が一度だけ現れた。短い言葉を交わし、視線を合わせないまま帰っていく。その背中がカーテンの向こうに消えたあと、老女は長い時間、天井を見つめていた。それが最後の来訪になった。

俺のほうには見舞いが続いた。友人や親戚が笑い声を持ち込み、病室は一瞬だけ温度を上げる。そのたびに隣の気配は沈んでいった。視線を向けなくても分かる。何かが、静かに濁っていく。

最初は、愚痴に近い声だった。

「うちの子は薄情だねぇ」

冗談めいた調子。しかし、その声は床を這うように低い。俺は曖昧に笑って受け流したが、胸の奥にざらつきが残った。

日を追うごとに、言葉は形を変えた。

「あたしが死んだら怨霊になって、みんな殺すんじゃ」

口元は笑っているようにも見えたが、目は笑っていない。テツコ、サダオ、ヘイゾウ。名前が繰り返される。誰のことか確かめる気は起きない。ただ、その音が壁に当たり、跳ね返るのを感じる。看護師が穏やかに声をかけても、老女は睨みつける。

「てめーも呪うぞ」

それは冗談ではなかった。声は粘り、空気に貼り付く。

夜が長くなるほど、言葉は侵食する。

「見たやつみんな、殺しちゃる」

見たやつ。その条件に、自分が含まれているのかどうかを考えた瞬間、体の芯が冷えた。呼吸のたびにカーテンが揺れ、白い布が生き物のように膨らむ。病室の空気が濃くなると、見えないものの輪郭が浮き上がる気がした。

ある夕刻、息子夫婦が再び現れた。

「母さん、あんまり人に迷惑かけちゃだめだよ」

責めるでもなく、慰めるでもない声。老女はその日、異様に静かだった。カーテンの向こうにいる俺の存在を、明確に意識している気配だけが残った。

真夜中、声で目が覚めた。

「うぅ~~~、に~~く~~い~~」

濁った音が闇に溶ける。耳を塞いでも、内側から響いてくる。薄目を開けると、カーテンの隙間から白いものが覗いていた。

老女の目だった。

瞼は引きつり、白目が異様に広い。視線は俺を通り越し、どこか一点を正確に射抜いている。

「サダオぉ……」

俺の名ではない。それでも、胸が締めつけられる。名を呼ばれるという行為そのものが、所在を確定させる。

「サダオぉ……おめさん、死ぬぞぉ……」

意味のない予告。だが、その響きは具体の形を持っていた。誰かが、確かにそこにいるかのような確信。

やがて声は途切れた。静寂が落ちる。

その直後、布に当たる小さな音がした。ぽすっ、と軽い衝撃。続けて、ぽすっ、ぽすっ。暗闇の中で、何かが弾む気配がある。息を殺したまま、俺は動けなかった。

朝、看護師がベッドの下を覗き込んだ。拾い上げた瞬間の顔を、今も覚えている。驚きでも嫌悪でもない、判断を保留した表情。何も言わず、ビニール袋を広げる。

退院の朝、荷物をまとめながら俺はカーテンの裾をめくった。そこに散らばっていたのは、黄ばんだ歯だった。欠けた歯。乾いた血の付着した歯。昨夜、老女の口元が赤く濡れていた理由が、遅れて理解に追いつく。

看護師はそれらを袋に入れ、目を伏せた。説明はなかった。誰も、理由を口にしなかった。

数日後、病院から手紙が届いた。退院直後、老女は息を引き取ったとある。それ以上のことは書かれていない。

だが、俺はひとつだけ持ち帰っていた。

退院の朝、無意識に拾い上げた一本の歯。なぜ拾ったのか分からない。証拠でも形見でもない。ただ、そこにあったから、手が伸びた。

封筒に入れ、引き出しの奥にしまう。ときどき取り出し、指先でなぞる。ざらつきだけが確かな実在として残る。

あの夜以来、名前を口にすることが怖くなった。名前は呼びかけではなく、所在の固定だ。呼ばれた瞬間、そこに「ある」ことを確定される。

夜道で、自分の名を小さく呟くことがある。誰も振り向かない。それでも、どこかで聞かれている気がする。自分の存在が、誰かの視線に結びついているような錯覚。

ときどき、歯の本数を無意識に数える。舌でなぞり、欠けていないか確かめる。その動作が、いつの間にか儀式めいていることに気づく。

歯は今も引き出しにある。触れるたび、あの病室の蛍光灯が瞼の裏に灯る。老女の目は俺を見ていなかった。だが、あの夜から、俺は時折、誰かに正確に見つけられている気がする。

それが老女なのか、名を呼ばれた誰かなのか、それとも歯を拾った俺自身なのかは分からない。

ただ一つ確かなのは、あの夜、見たという事実だ。

そして、見た者は条件の中に含まれている。

[出典:585 :2007/01/29(月) 15:33:24 ID:7gN5RjH60]

Sponsored Link

Sponsored Link

-短編, ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間
-

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2026 All Rights Reserved.