今でもあの夏の病室の空気を思い出すと、胸の奥がざわつく。
手術後の痛みがまだ尻に残っているような鈍い違和感の中で、夜の病棟は薄い布団と蛍光灯の光だけでできていた。
窓の外はわずかに夕焼けの紫を残していて、廊下からは点々と機械音が聞こえる。
消毒液の匂いと洗濯の匂いが混ざり、誰かの香水の残り香がふと交差する。
病室の中央に置かれた四角い天井灯は低く、影を引き伸ばした。
カーテンの摺動音だけが、細いリズムを刻む。
俺はベッドに仰向けになり、視線は天井のタイルに定まっていた。
隣のベッドにいる老人――バアさんの寝息が、時折くしゃりと部屋の温度を変える。
入院初日、隣のベッドには痩せた手と薄い髪の女性が横たわっていた。
顔には時折、昔の写真のような穏やかな皺が浮かぶ。
差し入れの菓子折りが置かれていたが、開けられることはなかった。
最初の晩、息子夫婦が一度だけ来て、短い会話をして去った。
それが最後の来訪になったのは、誰も予測しなかった。
二日目、三日目と俺の周りには見舞客が続いた。
友人や親戚が笑いを混ぜて見舞いに来るたび、部屋は一瞬だけ明るくなる。
いっぽうバアさんの表情は静かに濁っていった。
最初の違和感は、彼女の口の端にあった。
病室で俺の友人が大声で昔話を始めると、バアさんの目がぴくりと動いた。
翌日、さりげない愚痴のように言葉が漏れた。
「うちの子は薄情だねぇ」
その声は小さく、しかし確かに場の温度を下げた。
俺は笑ってごまかしたが、胸の奥で何かがざらついた。
それから言葉は徐々に形を変えていった。
塵のように細かい恨みが、一粒ずつ積もるように。
数日目には、愚痴は尖りを帯びた。
「あたしが死んだら怨霊になって、みんな殺すんじゃ」
言い方は冗談めいていたが、声は粘りつくように低くなった。
「テツコも、サダオも、ヘイゾウも……」
名前は繰り返され、音節が部屋の角にぶつかっては反響した。
誰が誰かを確かめる気も起きない重さがあった。
看護師が優しく声をかけても、その度にバアさんは怒気をぶつけた。
「てめーも呪うぞ!」という声に、数人がひるんだ。
夜が長くなると、言葉はさらに侵食した。
「赤ん坊もだ、見たやつみんな、殺しちゃる!」
言葉の先端にあるものは、具体の形を持たないが、確かにそこにあった。
ベッドに横たわる彼女の手は震え、指先の皮膚が透けて見えた。
呼吸のたびカーテンが微かに揺れる。
空気の粘度が変わると、見えるはずのないものが見えてくる。
看護師たちも匙を投げたように見えたが、彼女たちの表情は複雑だった。
仕事の枠と畏怖の境目が、薄く光るように見えた。
ある夕刻、息子夫婦とおぼしき中年の男女が、カーテン越しに来た。
声は揉み消されるようにして届いた。
「母さん、あんまり人に迷惑かけちゃだめだよ」
その言葉は簡潔で、冷たくもないが温かくもなかった。
バアさんは異様に静かになり、声はその日抑えられた。
カーテンの向こうの視線を感じながら、俺はなんとか眠りにつこうとした。
だが夜は容赦なく深く、病棟全体が低い振動を帯びる。
真夜中に目が覚めたのは、隣から聞こえた声のせいだった。
暗闇でその声は伸びて、湧き立つように濁っていた。
「うぅ~~~、に~~く~~い~~」
声の輪郭が歪んで、言葉が病室の壁と混ざった。
耳を塞いだが、逆に音が内側から押してくる。
眠ろうとする自分を必死に押し戻して、薄目で周囲を確かめた。
カーテンの隙間から、何かが見えた瞬間、体の芯が冷えた。
バアさんの目が開いていた。
その瞼はほとんど翻訳不能なほど広がり、白目が大きく張り出している。
視線は俺のカーテンの縁を正確に捉えていた。
「すんげぇ見てる」と胸の中で呟いたが、声にならない。
その目は俺には向いていなかった。誰かを探していた。
「サダオぉ……」
が、俺の名ではない。叫びたい衝動に駆られたが、足元が凍るように動けなかった。
声は濁り、舌に引っかかったように震えている。
言葉は再び断片を吐き散らし、枕元の時計は針を淡々と刻む。
「サダオぉ……おめさん、死ぬぞぉ……」
具体的な日付も意味もない予告が、部屋の空気を引き裂いた。
その後に続いたのは、息子たちへの悪口と、過去の怨念のような羅列だった。
バアさんは自分のベッドに戻り、ぴたりと止まった。
部屋に残ったのは、彼女が吐き出した言葉の残滓と、湿った匂い。
俺はずっと息を殺していた。
そして小さな音がした。
何かが布に触れ、ぽすっ、ぽすっと小さく跳ねた。
音は病室の奥の方から聞こえ、音の主はベッドの方から投げたように思えた。
暗闇の中で俺はそれを追い、カーテンの裾を探った。
朝が来るまで手は震えていたが、視線の先の小さな塊を見落とさなかった。
翌朝、看護師がそれを拾い上げる瞬間の表情を今でも覚えている。
指先に蘇った色と、眉間の皺の深さ。
退院の日、荷物をまとめながら俺はカーテンの下を覗いた。
そこには黄ばんだ歯が散らばっていた。
歯は小さく、所々欠けていて、唾液の痕跡が乾いていた。
バアさんの口元が血で濡れていたのは、あの夜のことと合点がいった瞬間だった。
看護師はそれをビニールの袋に入れ、目を伏せていた。
笑うでもなく怒るでもない、ただ仕事をする手の動きがあった。
俺はその場を早く離れたかった。
その夜、家に着いてからも眠れなかった。
病室の蛍光灯の残像がまぶたの裏に残る。
歯の形が夢に出るたび、舌先に金属の味がするような錯覚があった。
退院直後だから体は弱く、感覚は冴えていた。
郵便受けの音でも、遠くの犬の鳴き声でも、過去の言葉が引き出される。
「サダオ」という名前の代わりに、自分の存在が揺らぐような感覚。
己の身近さが、ある日忽然と怪異に結びつくような嫌悪が湧いてきた。

数日後、病院から小さな手紙が届いた。
中には簡潔な報告と、バアさんの容体の変化が書かれていた。
退院の直後に彼女はベッドで静かに息を引き取った、という一文がある。
息を引き取る前、彼女が何を見ていたのかは書かれていなかった。
手紙の最後には、看護師の署名と短いお悔やみが添えられていた。
だが文面の裏に、あの日の声が潜んでいるようで、封を切る手が震えた。
読み終わってからもしばらく文字が踊って見えた。
あの歯についての説明は受けなかった。
説明されるべきものではないと誰かが判断したのかもしれない。
病院側も、それ以上の詮索を許さない空気を纏っていた。
看護師の表情を思い出すと、答えは分かるようで分からない。
だが確かなのは、俺が見たものと聞いたものが確かに存在したことだけだ。
記憶は角の取れた石のように、何度も掌で転がすほどに冷たくなる。
その冷たさに指先が慣れてしまうことが、一番恐ろしい。
最後に、あの夜を反芻するといつも思うのは、視線の向けられ方だ。
あれは単なる盲目的な憎悪ではなかった。
誰かの名を呼ぶときの、確信のようなものがあった。
名は記憶の引き金であり、存在の在処を指し示す矢印だった。
彼女が投げたもの――歯――は、象徴としての身体の欠片であり、言葉への実体化だった。
だからこそ、部屋に残ったのは説明されない破片であり、問いだけが増えた。
問いは切実で、しかし答えはいつも一枚薄いカーテンの奥で息をしている。
それから時折、夜道で無関係の人の背中を追うとき、ふと自分の名前を呟いてみたくなる。
それは確かめるためでも、祈るためでもない。どこまで自分が自分でいられるかを試す悪戯だ。
声は絡まり、意味は溶ける。
誰も振り向かない夜のベンチで、俺は自分の身体を数えた。
歯は全部あるか、爪は欠けていないか、名前はまだ重さを持っているか。
そしていつの間にか、その数え方が儀式めいていることに気づく。
無意識のうちに、俺は自分の存在を証明していた。
記憶は時に鞭のように戻ってくるが、あの病室のことは時々腑に落ちる。
バアさんの言葉は怨念でも呪詛でもなく、逆に生者に向けられた最期の問いではなかったか。
「見たやつみんな、殺しちゃる」という言葉は、誰かを裁くための宣言よりも、留め置かれた記憶の解放を求める叫びに近い。
歯を投げる動作は、生と死の境界を確認するための最後の試行だったのかもしれない。
そう考えると、空気の重さが少し違って見えるが、それが安心に変わることはない。
夜中にふと目が覚めるたび、あの目の白さがフラッシュバックとして現れる。
結局、問いは問いのまま残る。
数か月が過ぎて、俺は手術痕と共に日常を取り戻した。
だが人の名前を聞くと、瞬間的にあの部屋へ戻される癖がついた。
親しい者の顔が浮かぶたび、バアさんの鼻先で嗤われている気がする。
淡い悪寒が喉を下ってゆく。
それでも生活は進み、仕事のリズムは戻る。
だが夜に一人でいると、病室の蛍光灯の残像がちらつく。
そしてまた、歯の断片が夢に出る。
最後に一つだけ告白すると、退院の朝に俺はあの黄ばんだ歯を一つだけポケットに入れてしまった。
理由は説明できない。好奇心でもないし、証拠を持ち帰るつもりでもなかった。
手の中で歯を撫でると、生々しいザラつきが掌に残る。
家に帰ってから封筒に入れて引き出しにしまったが、たまにそれを取り出しては匂いを嗅いでしまう。
嗅ぐというほどの大胆さはない。指先をその表面に滑らせるだけで充分だ。
それは一種の保管であり、同時に問いの継続である。
人は記憶を保存し、保存した記憶に縛られていく。
あの歯を握った指先の冷たさは今でも覚えている。
それは誰かの喪失の温度であり、同時に思い出を固める石膏のようでもある。
指先から伝わる重みは、名前と記憶の絡まりを物体化したものだ。
もしもバアさんが最後に投げたのが歯ではなく言葉だけだったなら、ここまで執着はしなかっただろう。
しかし物がある以上、問いは物理的に毎朝立ち上がる。
それに応える術はないまま、俺はただポケットの形を覚えている。
その形が、夜の暗さの中で何度でも確かめられる。
結末らしい結末は用意できない。
ただ一つだけ付け加えるなら、あれ以来、俺は人の名前を口にするときに慎重になった。
名前は単なる呼び名ではなく、誰かを引き寄せる仕掛けかもしれないからだ。
呼ぶことは所在を示し、所在はまた記憶を呼び覚ます。
あの夏の灯りは消えたが、灯りが消えたことを示す影は、今も部屋にある。
その影を撫でるたび、俺はまた小さな問いをひとつ産む。
問いはいつか答えを連れてくるだろうか。いや、来ないだろう。来るのは別の問いかもしれない。
[出典:585 :2007/01/29(月) 15:33:24 ID:7gN5RjH60]