一昨日、学生時代の友人たちと集まって飲んだ席で、Aがぽつりと話し始めた。
Aは、昔、霊能者の弟子をしていた。今はもう完全に足を洗っているが、その頃の話は、酒が入るとたまに出てくる。
「十年くらい前かな。師匠の知り合いの娘を、一度だけ視に行ったことがある」
その女性は五十代で、夫を亡くしてから一人暮らしになったという。
表向きは普通だった。身なりも整っていて、会話も噛み合う。買い物も自炊もして、近所付き合いも最低限はある。
ただ、Aは玄関に入った瞬間、妙な違和感を覚えた。
「部屋に、人の気配がなかった」
無人という意味ではない。生活の痕跡は揃っている。
だが、人間特有の熱や重さが、まるで感じられなかったという。
霊的に見ると、低級霊がいくつか付いてはいた。だが弱く、害もない。
祓おうと思えば祓えるレベルだった。
それでも、師匠は何もしなかった。
世間話をして、愚痴を聞き、雑談をして、最後に少しだけ気を流した。
それだけだった。
帰り際、Aも気を入れるのを手伝ったが、その感覚が忘れられないと言う。
「乾ききった布に、水を垂らしてる感じだった。
染み込まない。垂らした分だけ、どこかに消えていく」
その女性は礼を言い、普通に笑って見送ってくれた。
不幸そうにも見えなかった。
帰りの電車で、Aは師匠に聞いた。
「あれ、祓かなくてよかったんですか」
師匠は即答しなかった。
しばらく窓の外を見てから、こう言ったという。
「祓うと、余計なのが来る。
あれは、もう空き箱みたいなもんだ」
Aはその言葉が理解できず、聞き返した。
「空き箱って……生きてますよね」
「生きてるよ。ただ、中身がほとんど残ってないだけだ」
Aはその家にあった仏壇のことを思い出した。
見た瞬間、直視したくなくなった場所だ。
何があるわけでもないのに、妙に目が滑る。
「あそこ、変でしたよね」
師匠は小さく頷いた。
「次に行くことがあっても、深入りするな。
ああいう人間は、下手に触るとこっちが持っていかれる」
それきり、その女性の話は聞いていない。
今もどこかで、普通に暮らしているはずだ。
Aはグラスを置いて、低い声で言った。
「霊が憑いてるほうが、まだ安心できるんだよ。
少なくとも、そこには“何か”があるからな」
誰も返事をしなかった。
酔いの席なのに、妙に静かになった。
(了)
[出典:344 :& ◆mF7M0Y/xZI:2005/08/29(月) 18:09:23 ID:3c0O07ds]