うちの仏間には、昔から「行列」が通る。
まだ親と同じ部屋で寝ていた子どもの頃、明け方になると、壁のあたりからチョロチョロと小さな足音が聞こえてくるのに気づいた。目をこすって見ると、障子と床の境目から、掌サイズの侍たちが一列になって出てきては、ふわりと天井へ消えていくのだった。
目覚めはいつも、唐突な断絶として訪れた。
夢を見ていたのか、あるいは泥のような無意識に沈んでいたのか定かではない。ふっと意識のスイッチが入ると、そこはもう明け方の深い底だった。瞼の裏に残る残像は何もなく、ただ急激に覚醒した脳髄だけが、頭蓋の中で冷ややかに脈打っている。
寝床は、実家の一階にある仏間だった。
雨戸は閉ざされ、部屋は線香と古畳の甘く湿った匂いで満ちている。柱時計の振り子が、カチ、カチ、と骨を打つような音を刻み、家全体が眠りの底で呼吸を止めている。
決まって、この時間だった。
尿意も渇きもない。ただ、空気の圧が変わる。闇の粒子がざらつき、壁や天井が汗をかき始める。私は毛布を鼻まで引き上げ、来るものを待った。
始まりは、視界の端だった。
足元の壁と天井の境目が、滲む。砂壁の染みが揺らぎ、次の瞬間、影よりも確かな「質量」をもった何かが、壁の向こう側からぬるりと現れる。
小さい。
人の形をしている。
髷を結い、着物をまとい、腰には二本の棒を差している。
侍だ。
一人ではない。
五人、十人、二十人。
整然とした行列になり、無言で歩いている。畳の縁を街道のように進む者もいれば、天井へ向かって垂直に歩き出す者もいる。足音はない。ただ、通過した空間だけが、僅かに歪む。
恐怖はなかった。
それは幽霊でも怪物でもなく、どこか絵本めいた存在だった。私は布団の中から、ただ眺めていた。
ある夜、父を起こそうとした。
「お父さん、見て」
揺すっても反応はない。背中は温かいが、それは生き物の温度というより、昼間に温められた石のようだった。
母も同じだった。
呼吸は浅く、時折止まっているように見えた。瞼を押し上げると、濁った白目が覗いたが、そこに意思はなかった。彼女は、見ていない。認識していない。
そのことの方が、行列よりも怖かった。
私は学習した。
この時間は、私と彼らだけの密室だということを。
やがて空が白み始めると、行列は瞬きをした隙に消える。壁の染みや畳の目に溶け込み、最初から存在しなかったかのように。
成長し、家を出て、仏間で眠らなくなると、行列は記憶の奥へ沈んだ。子どもの頃の幻覚。そう整理していた。
息子が生まれた。
四歳になった夏、久しぶりに実家へ帰省した。
翌朝、朝食の席で息子が言った。
「ねえ、パパ。じいじの部屋、お祭りやってたの?」
箸が止まる。
「ちっちゃい人がいっぱい歩いてた。ちょんまげで、刀持ってて、壁から出てきて、また入ってった」
一致していた。
私の記憶と、寸分違わず。
その夜、私は仏間で眠った。
確かめるためだ。大人の目で見れば、正体がわかると思った。
闇が落ち、柱時計が鳴る。
息子の寝息と、両親の重い呼吸。
そして、空気がざらついた。
来る。
私は壁と天井の境目を睨み続けた。
だが、現れたのは行列ではなかった。
時間の感覚が、崩れた。
時計の音が歪み、家の奥行きが伸び縮みし、仏間という空間そのものが、継ぎ目を失っていく。
次に意識が戻った時、仏間は存在していなかった。
壁は裂け、床は途切れ、あの部屋があった場所は、最初から形を持たなかったかのように崩れていた。
理由は分からない。ただ、あの夜を境に、家の内部から「一部」が欠落した。
私は思った。
行列は止められなかったのだと。
それから十年が過ぎた。
私は病院のベッドにいた。
夜と昼の境界が溶け、身体が急に軽くなった瞬間、理解した。抜けたのだと。
気づけば、私は列の中にいた。
灰色の道。
無言で進む人々。
自分の足元を見ると、白い足袋。着流し。腰の重み。
私たちは侍ではなかった。
死装束だった。
列は、巨大な空間へと入り込む。
見覚えのある木目。
畳の編み目。
仏間だ。
私たちは小さくなり、壁の染みから滲み出し、畳の縁を歩く。
ふと、視線を感じた。
頭上に、巨大な子どもの顔。
幼い頃の、私だった。
ああ、そういうことか。
あの夜、こちらを向いた侍は、未来の私だった。
過去と死が、ここで交差していたのだ。
私は声にならない声で叫ぶ。
だが、届かない。
列は進む。
父の背中の後ろで、私は壁の染みへと溶けていく。
最後に聞こえたのは、柱時計の乾いた音と、
遠い未来で、息子が無邪気に言う声だった。
「お祭りやってたの?」
私は壁の一部となり、次の夜明けを待つ。
また誰かが、この部屋で目を覚ます、その時まで。
(了)
[出典:652 :本当にあった怖い名無し:2018/10/02(火) 14:50:26.99 ID:IHqWdOT90.net]