田舎で家業を継いで、農機具の販売や修理をしている。
都会の人には信じられないだろうけれど、同じ町内といっても山奥に住むお年寄りの家まで行こうと思えば、車で四時間近くかかることがある。
たいていは一泊二日。修理が終わると「泊まっていけ」と言われ、そのまま布団を借りて、囲炉裏端で晩飯をいただく。そんなことが珍しくなかった。
山に住むじいさんばあさんは、人懐っこく、そして話好きだ。孫のこと、戦争のこと、米がとれなかった年の苦労話……耳にたこができるくらい繰り返される話ばかりで、眠気に耐えることも多かった。
けれども、中には一度聞いたら忘れられない話をする人もいる。
九十二歳で亡くなったひとりのじいさん。俺が特に仲良くしていた相手だ。
そのじいさんは古流武術の免許皆伝で、俺が空手をやっていると知ると、免状や古い巻物を引っ張り出して見せてくれた。酒を持って遊びに行くと、技を一通り披露してくれた。
俺もそれが楽しくて、休みの日に山を越えてはじいさんの家に泊まり、昼間に型を教わって、夜は総合格闘技のDVDを一緒に見ながら延々と語り合った。
じいさんはいつも言っていた。
「寝技は嫌いだ。戦いは一対一と限らん。立ったまま制せんでどうする」
昔気質で頑固だが、筋の通った言葉だった。
酒を酌み交わしていると、じいさんはふいに戦争のことを語りだす。
昭和二十一年に復員し、帰国したときには実家は空襲で焼け落ち、家族も全員亡くなっていたという。
帰る家をなくしたじいさんは、仙台の武術師範の家に転がり込み、そこで生活を始めた。
じいさんが言うには、戦後の日本は今では想像もできないほど荒れていた。特に仙台の町は、浮浪者やヤクザ以上に「赤」と呼ばれる連中が幅をきかせ、旧体制に近い人々を襲っていたらしい。
じいさんの師範は、戦争に負けてもなお「日本の伝統は劣らない」と公言していた人物だった。それが災いして、日常的に脅迫を受けていた。
若かったじいさんは、師範を守らねばと思っていた。
ある日の夕暮れ、事件が起きる。
師範の家にじいさんが居候していたその晩、玄関が激しく叩き割られ、八人の男が乱入してきた。顔を布で覆い、手には鉄の棒。
「八人だぞ。やる気まんまんでな」
じいさんは俺にそう笑いながら言ったが、声の奥にはまだ怒りがにじんでいた。
咄嗟に前へ出たじいさんは、二人分の棒を肘と親指で受け、返す刀で急所を突いた。倒れた男の上を踏み抜き、奥に行かせまいとする。
「奥さんは俺が守る。誰も通させねぇ」
だが数人は脇をすり抜け、師範夫婦へ迫った。
次の瞬間、左腕に激痛。最初の一撃で骨が折れていたのに、必死に振りかぶる棒を防いだものだから、腕が動かなくなっていた。
それでも踏み込み、棒の根元で殴られながら密着し、秘中を攻めて倒す。
振り返ると、師範と奥さんは三人に袋叩きにされていた。
師範も二人を倒したものの、奥さんを庇って残りの男たちにめった打ちにされていた。
じいさんは鬼のような形相で叫んだという。
「こんときほど腹が立ったことはねぇ」
割って入り、折れた腕を盾にしながら暴れる。だが八人を前にしては限界があった。頭を守ったときに指を何本も折られたと、じいさんは曲がったままの指を見せてくれた。
それでも命拾いしたのは、騒ぎを聞きつけた近所の人々が駆けつけてきたからだった。犯人たちは仲間を連れて逃げていった。
結果、じいさんは八か所の骨折。師範と奥さんはさらに重傷。だが奇跡的に命はつながった。
襲撃犯が「赤」の連中であることは誰もが知っていたが、報復を恐れて証言する者は一人もいなかった。
師範夫妻は退院後、他の有力者の庇護を受け、姿を消した。
じいさんも東京の建設現場で働きはじめ、五十を過ぎてからようやく故郷へ戻った。
じいさんは言った。
「俺が帰ってきた頃には、あの『赤』の連中は行儀よくなってたな。まぁ、みんな死んじまったがな」
そして苦笑した。
「戦争だの政治だの主義だの、俺にゃ関係なかった。ただ飯を食うために働きたかっただけよ」
その顔は穏やかだったが、語り終えたあと、何度も不自然に曲がった指を撫でていた。
俺はじいさんの話を聞くたびに、人間の恐ろしさを思い知らされた。
戦争も政治も遠い出来事のようで、実際にはひとりの身体に深い爪痕を残し続けるのだ。
それを知ったのは、農機具を売り歩く俺と、山奥の家で夜な夜な拳を突き合わせたじいさんだけの秘密だ。
そして今も耳に残っている。
「立ってやれ。相手は一人じゃねぇからな」
じいさんが繰り返したその言葉が、夜の静けさに混じって甦る。
(了)