田舎で家業を継ぎ、農機具の販売と修理をしている。
町内といっても範囲は広く、山奥の集落まで行けば車で四時間近くかかる。修理はたいてい一泊仕事で、終わると決まって言われる。
「今日はもう暗い。泊まっていけ」
断る理由もない。囲炉裏のある家で飯をもらい、酒を注がれ、布団を借りる。それが当たり前だった。
山に住むじいさんばあさんは話好きだ。何度も聞いた戦争の話、作柄の悪かった年の話、孫自慢。正直、眠くなることの方が多い。
だが、九十二で亡くなったあのじいさんだけは違った。
「お前、空手やってるんだろ」
「ええ、まあ」
「立ち技か」
「はい」
「それでいい」
初めて会った日にそう言われた。
酒が入ると、じいさんは奥の納戸から古い免状や巻物を出してきた。紙は茶色く、文字は滲んでいる。
「古い流派だ。今はもう名前も残っちゃいねぇ」
「すごいですね」
「すごかねぇ。生き残っただけだ」
昼は型を見せてもらい、夜は二人で総合格闘技のDVDを見る。
画面で寝技が決まるたび、じいさんは顔をしかめた。
「嫌いだ」
「寝技ですか」
「嫌いだ。戦いは一人とは限らん」
「でも現代じゃ有効ですよ」
「立て。立ってやれ。相手は一人じゃねぇ」
何度も、同じ言葉を繰り返した。
ある晩、酒が進んだ頃、じいさんが急に言った。
「仙台って町、知ってるか」
「ええ、行ったことあります」
「あの頃はな、今とは違った」
声が低くなった。
囲炉裏の火が、じいさんの顔の皺を深くした。
「帰ってきたら家は焼けてた。家族もいなかった」
「……」
「帰る場所がねぇってのはな、身体の置き場がなくなるってことだ」
黙って酒を注ぐと、じいさんは一口飲んで続けた。
「師範の家に転がり込んだ。世話になった。だから守る気でいた」
「何からですか」
「人だ」
じいさんは、はっきりそう言った。
「ある晩、戸を叩く音がした。いや、叩くってんじゃねぇ。壊す音だ」
「……何人くらいです」
「八人」
じいさんは笑った。
だが、その笑いは乾いていた。
「顔を隠して、鉄の棒を持ってた」
「警察は」
「来ねぇ」
じいさんは腕を叩いた。
「ここで受けた。二本」
「……折れたんですか」
「折れた。最初の一撃でな」
それでも前に出たと言う。
「奥へ行かせるわけにゃいかねぇ」
「怖くなかったんですか」
「腹が立った」
師範と奥さんが殴られる音が聞こえた。
じいさんは叫びながら突っ込んだ。
「やめろって言っても、誰も聞かねぇ」
「……」
「だから折れた腕で殴った」
指を見せられた。曲がったままの指。
「何本も折れた」
「それでも」
「それでも立った」
話し終えると、じいさんはしばらく黙っていた。
囲炉裏の火が爆ぜる音だけがした。
「なあ」
「はい」
「お前、修理で山に入るだろ」
「ええ」
「夜、車が止まることがある」
「ありますね」
「その時、座るな」
意味が分からず黙っていると、じいさんは続けた。
「しゃがむな。座るな。立て」
「誰か来るんですか」
「来るかもしれん」
「一人ですか」
じいさんは首を振った。
「一人じゃねぇ」
それが最後に聞いた言葉だった。
じいさんが亡くなったあとも、仕事で山に入るたび、その声を思い出す。
先月、修理帰りにエンジンが止まった。
夜だった。携帯は圏外。
ふと、座ろうとして気づいた。
足が、勝手に踏ん張っていた。
誰もいない闇の中で、身体だけが構えを取っていた。
「立て」
風の音に混じって、そう聞こえた気がした。
振り向いたが、誰もいなかった。
それでも、しばらく動けなかった。
相手が一人じゃない気がして。
(了)