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中編 r+ 洒落にならない怖い話

手を振るな rw+8,500-0612

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うちの地元では、海に近づいてはいけない日がいくつかあった。

盆の海に入るな、というのはどこにでもある話だと思う。足を引かれるとか、帰ってきた者に連れていかれるとか、大人たちは似たようなことを言った。

ただ、峰ノ州だけは別だった。

そこは地元の人間がそう呼んでいる浅瀬で、干潮のときだけ磯が長く現れる。外から来た人には、少し沖に張り出した岩場くらいにしか見えない。潮が引いていれば歩けるし、魚もよくつく。実際、普段なら釣り場として悪くなかった。

その日、僕は友人の徳宮と釣りに行く約束をしていた。

徳宮の家には、引退した漁師の祖父がいた。昔は小さな船を出していた人で、海のことになるとやたら口うるさかった。その祖父が、僕らの竿を見て言った。

「今日から明後日までは、峰ノ州へ行くなよ」

徳宮は「行かないよ」と軽く返した。

祖父は笑っていた。けれど、目だけが笑っていなかった。

「あそこはな、何かあっても助けられん」

それだけ言うと、もうこちらを見なかった。

僕らは自転車で海へ向かった。徳宮はまだ原付の免許を持っていなかったし、僕もガソリンを入れに行くのが面倒だった。防波堤までは十五分ほどだった。

釣り場に着くと、見慣れない四駆が停まっていた。

車のそばに、大学生くらいの男が二人いた。竿やクーラーボックスは出しているのに、釣りをしている様子はない。防波堤に腰かけて煙草を吸い、時々、峰ノ州のほうを見ていた。

徳宮が小さく言った。

「よそもんだな」

僕らは少し離れた場所で釣りを始めた。しばらくすると、パーマのかかったほうの男が声をかけてきた。

「ここって釣れる?」

人当たりはよかった。もう一人はあまりしゃべらず、徳宮の仕掛けを横目で見ていた。

僕らが答えると、二人は缶コーヒーをくれた。釣りの話をしているうちに、彼らの仕掛けがこの場所には合っていないことが分かった。狙っている魚も、防波堤より峰ノ州のほうにつく魚だった。

僕は、つい言ってしまった。

「それなら、あっちの州のほうがいいですよ。潮が引いてるときなら歩けます」

徳宮が一瞬こちらを見た。

でも、何も言わなかった。

二人は峰ノ州の場所を確かめると、礼を言って車に道具を積んだ。大学生なら大人だし、危なければ戻ってくるだろう。僕はそう思った。祖父の言葉も、そのときは古い漁師の脅し話くらいにしか感じていなかった。

四駆が遠ざかっていったあと、徳宮がぼそっと言った。

「爺ちゃん、怒るかな」

「別に俺らが行くわけじゃないし」

僕がそう返すと、徳宮は黙った。

午後の海は穏やかだった。小魚は何匹か釣れたが、大した釣果ではなかった。曇りはじめて、海の色が急に鈍くなった。風も少し変わった。生ぬるいのに、肌の上だけ冷えるような風だった。

遠くの峰ノ州に、二人の姿が見えた。

岩場の先のほうで竿を持っている。こちらから見ても、かなり奥まで行っているのが分かった。

「釣れてんのかな」

徳宮が言った。

そのとき、二人がこちらに向かって手を振った。

僕らは反射的に振り返した。遠すぎて顔までは見えない。けれど、二人の手の動きは、挨拶にしては大きすぎた。

「呼んでないか」

僕が言うと、徳宮は返事をしなかった。

それから、しばらく二人を見ていた。

変だった。

峰ノ州は、海に向かって細長く出ている。そこを歩いて戻るなら、横に移動して見えるはずだった。けれど二人は、こちらから見て同じ場所に立ったまま、少しずつ低くなっていった。

最初は膝まで水に浸かっているように見えた。

次に腰。

その次に、胸。

潮が満ちてきたのだと思った。そう思おうとした。けれど、潮の満ち方なら周りの岩も同じように沈むはずだった。岩はまだ見えていた。二人だけが、海の中へ沈んでいくように見えた。

徳宮が道具を片付けはじめた。

「おい、助け呼ぶか」

僕が言うと、徳宮は竿を畳みながら首を振った。

「間に合わん」

その声が変だった。諦めているというより、すでに何かを知っている人間の声だった。

峰ノ州では、一人の姿が頭だけになっていた。もう一人がその腕をつかもうとしているように見えたが、次の波で二人は離れた。

頭だけになったほうが、まだこちらを向いていた。

顔は見えない。

ただ、口だけが動いているように見えた。

風で声は届かなかった。

次の瞬間、その頭が海面から消えた。

残った一人は、岩の上を這うようにして戻ろうとしていた。足を取られて倒れ、また起き上がる。波はそれほど荒くない。なのに、その男の体は何度も同じ場所に引き戻された。

徳宮が急に僕の腕をつかんだ。

「あれ」

男の足元に、白いものが見えた。

波頭だと思った。白い泡が岩に絡んでいるだけだと思った。けれど、それは何度も同じ形で現れた。水の中から伸びて、男の足首のあたりに触れて、引く。

手に見えた。

そう言うしかないものだった。

僕は走った。近くの民家まで自転車を飛ばし、警察と消防を呼んでもらった。戻ったとき、徳宮は防波堤に座り込んでいた。峰ノ州には、もう誰もいなかった。

警察にも消防にも、僕らは同じことを話した。

大学生風の二人がいたこと。峰ノ州を教えたこと。沈んでいくのを見たこと。

白いもののことは、徳宮が言わなかったので、僕も言わなかった。

一人の遺体が見つかったのは二日後だった。峰ノ州からずいぶん離れた場所に上がったらしい。もう一人は、最後まで見つからなかった。

あとで徳宮が祖父に聞いた。

峰ノ州は何なのか。どうしてあの三日間だけ行ってはいけないのか。

祖父は詳しいことを言わなかった。ただ、低い声でこう言ったという。

「助けられんと言ったろう」

それから徳宮は、峰ノ州の話をしなくなった。

数年後、一度だけ、徳宮が一人であそこへ行こうとしたことがある。防波堤までは行けたらしい。けれど、峰ノ州が見える場所に立った瞬間、足が動かなくなったと言っていた。

「怖かったのか」と聞くと、徳宮は首を振った。

「違う。向こうで、誰かが手を振ってた」

大学生たちのことを、僕はいまでも思い出す。

申し訳ないとは思っている。僕が教えなければ、彼らは峰ノ州へ行かなかったかもしれない。

けれど、それより嫌なことがある。

あの日、最初に二人がこちらへ手を振ったとき、僕らは振り返した。

あれが助けを求める合図だったのか、それとも、別の何かへの返事だったのか。

今になっても、分からない。

ただ、そのあとから、海の近くで誰かに手を振られるのが苦手になった。

遠くの人影が、こちらに向かって腕を上げる。

そのたびに、僕は自分の手を押さえる。

勝手に振り返してしまわないように。

[出典:661 :本当にあった怖い名無し :04/08/25 16:06 ID:GjSKYK1L]

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