先日、車で人を轢きそうになった。
正確に言うと、「人が飛び出してきた」のではない。
押し出された。
その違いに気づいたのは、すべてが終わってからだ。
その日は、特別なことは何もなかった。
仕事帰り、夜の一般道を走っていた。
人通りは少なく、街灯もまばら。
片側一車線で、スピードを出すような道でもない。
少し先の左側を、男性が歩いているのが見えた。
年齢は分からないが、若くも老けてもいない。
フラフラしている様子もない。
ただ、普通に歩いている。
「横を通過するだけだな」
そう判断して、特に警戒もせず進んだ。
その瞬間だった。
男性が、突然こちらの車線に飛び出してきた。
――いや、違う。
前に突き出されるように、体ごと放り出された。
そう見えた。
本人の意思で一歩踏み出した動きじゃない。
後ろから強く押されたみたいな、不自然な前傾。
足が地面を蹴っていない。
上半身だけが、こちらに投げ出される。
「やばい!」
反射で急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らした。
タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく沈む。
心臓が喉まで跳ね上がった。
ギリギリで止まった。
ほんの数十センチ。
もし反応が一瞬遅れていたら、確実に轢いていた。
男性は道路の中央で立ち尽くしていた。
目を見開き、完全に動揺している。
俺はすぐに車を降り、男性のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
それしか言葉が出なかった。
男性は、息を荒くしながら、意味のない言葉を繰り返した。
「え……いや……え……あの……」
混乱している。
こちらを見ているが、焦点が合っていない。
それよりも奇妙だったのは、男性の視線が何度も元いた場所に戻ることだった。
何かを確認するように。
あるいは、恐れているように。
俺も、釣られてそちらを見た。
そこは、ただの道路脇だった。
ガードレールもない、歩道と車道の境目。
街灯が一つ、少し離れた位置に立っている。
だが――
視界が、変だった。
はっきり歪んでいるわけじゃない。
だが、焦点が合わない。
空気が揺れているような、
見てはいけないものを目の端で捉えたような感覚。
「ぐにゃっ」としている。
目を凝らすほど、気持ち悪くなる。
遠近感が狂う。
距離が測れない。
男性は、震える声で言った。
「……すみません……すみません……」
何に対しての謝罪なのか分からない。
俺に、なのか。
それとも、あそこに対してなのか。
しばらく話をしたが、男性に怪我はなかった。
俺も警察を呼ぶべきか迷ったが、
大事にしたくないという気持ちが勝った。
男性も同じだったようで、何度も頭を下げて去っていった。
最後まで、男性はあの場所を気にしていた。
車に戻り、発進しようとしたが、
どうしても気になって、もう一度だけ道路脇を見た。
やはり、変だ。
何かが「ある」わけではない。
人影もない。
物体もない。
だが、そこだけが不安定だった。
現実が、うまく固定されていない感じ。
俺は、そこで初めて理解した。
あの男は、自分で飛び出してきたんじゃない。
あの場所から、押し出された。
押した「何か」は、
道路の外側にいたのではない。
道路と世界の境目、そのものに。
あそこは、
人が立ってはいけない地点だった。
その夜、家に帰っても、
頭からあの歪みが離れなかった。
テレビを見ても、風呂に入っても、
視界の端に、あの「ぐにゃっ」が残る。
もし俺が、あの男を轢いていたら。
警察が来て、実況見分をして、
事故現場としてあの場所を調べていただろう。
そのとき、
本来そこにいないはずの何かに、
誰かが気づいてしまったかもしれない。
それが、
事故より怖いことだったのではないか。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
それ以来、夜道を走るとき、
歩行者だけでなく、
「歩行者が立っている場所」を見るようになった。
人じゃない。
場所だ。
歪んでいる地点。
現実が、うまくはまっていない地点。
そこに人が立っていたら、
減速する。
場合によっては、車線を変える。
轢きたくないからじゃない。
押し出される瞬間を、もう一度見たくないからだ。
[出典:353:名無しさん@おーぷん:18/01/21(日)19:08:30 ID:dEf]