今でも、熱せられたアスファルトに雨が落ちた時の、あの独特な埃っぽい匂いを嗅ぐと、胸の奥底にある柔らかな部分を針で刺されたような感覚に襲われる。
あれは私の記憶なのか、それとも誰か別の人間がみた悪夢が、私の脳髄に染み付いて取れなくなっているだけなのか。三十年以上が経った今でも、判然としない。
昭和六十三年、夏。
私が通っていた小学校は、埼玉県の郊外にあった。
連日、光化学スモッグ警報が発令されるような猛暑の夏だった。空は常に白茶けた膜で覆われ、太陽は直視できないほど白く膨張していた。
小学五年生だった私は、夏休みの自由研究として「学区内の昆虫生息分布」という地図を作っていた。
高尚な動機などない。ただ、親に買い与えられた緑色の胴体をした毒瓶――酢酸エチルを含ませた脱脂綿を詰めたガラス瓶――に、生きた虫を放り込み、彼らが苦悶し、痙攣し、やがて脚を硬直させて死に至る過程を眺めるのが、妙に好きだったのだ。
命を奪うという行為が持つ、背徳的な甘美さ。それに魅入られていた私は、捕虫網を片手に、毎日正午過ぎの最も暑い時間帯に家を出た。
その日も私は、家の裏手にある通称「グランド」と呼ばれる古びた運動広場へ向かった。
グランドとは名ばかりで、実際には宅地開発に失敗した建設予定地が放置され、雑草が生い茂る荒れ地と化している場所だった。
私の狙いは、乾燥した地面を好むハンミョウだった。
極彩色の背中を持ったその美しい甲虫を追いかけ、膝丈まであるセイタカアワダチソウの群生を掻き分けて進んでいく。
草いきれが顔にまとわりつく。首筋を汗が伝い、Tシャツの背中が濡れた布のように重く張り付く。
不意に、足裏に硬い感触があった。
土ではない。乾いたコンクリートの感触だ。
草を足で踏み倒して足元を確認すると、そこだけ植物が拒絶されたように、一メートル四方のコンクリートの土台が露出していた。
そしてその中央には、赤錆に覆われた鉄の扉があった。
マンホールのような円形ではない。四角い、重厚な鉄板だ。
表面には「工」という文字にも似た、あるいは何かの記号にも見える意匠が浮き彫りにされていたが、錆が酷くて判読できない。
ハンミョウのことは頭から消えた。
少年特有の、根拠のない万能感と好奇心が、警告信号を無視して全身を支配した。
私は網と毒瓶を地面に放り出し、鉄の扉についた取っ手に両手をかけた。
夏の直射日光を浴び続けていた鉄は、火傷しそうなほど熱くなっているはずだった。
しかし、指先に触れたその鉄は、奇妙なほど冷たかった。
まるで、そこだけ冬の空気が凝縮されているかのように、指の熱を瞬時に奪っていく。
「……せぇの」
声を出し、腰を入れて引き上げる。
ギギギ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、鉄粉がパラパラと舞った。
予想に反して、扉は驚くほど軽く開いた。
ぽっかりと口を開けた暗黒。
そこからは、下水の腐臭ではなく、もっと古い、湿った土とカビ、そして微かに甘い何かの花の匂いが混じったような、冷気が吹き上げてきた。
覗き込むと、壁面に埋め込まれた鉄筋の梯子が、闇の底へと垂直に伸びているのが見えた。
深さはそれほどでもない。懐中電灯なしでも、底の床が微かに光を反射しているのが見て取れた。
おそらく、三メートルか四メートルといったところか。
「冒険だ」
私はそう呟いた。
家に一度戻り、父親の工具箱からL型の懐中電灯を持ち出し、再びグランドへと舞い戻った。
恐怖はなかったわけではない。
だが、その穴が発する冷気は、茹だるような暑さの中にいる私にとって、あまりにも魅惑的だった。
私は梯子に足をかけ、一段、また一段と降りていった。
地上から差し込む光が四角く切り取られ、遠ざかっていく。
靴底が梯子の鉄筋を捉えるたびに、カン、カン、と硬質な音が反響し、それが闇の奥で増幅されて戻ってくる。
底に降り立つと、そこは金網状のグレーチングで舗装された通路になっていた。
足下の金網の隙間からは、さらに下の暗渠を流れる水音が聞こえる。
チョロチョロ、サラサラという軽やかな音ではない。
ゴウ、ゴウ、という、重く粘度のある液体が這うような、低い水音だった。
懐中電灯のスイッチを入れる。
黄色い光の束が、コンクリートの壁を円形に切り取る。
通路は私が降りてきた地点を中心にして、前後二方向へと伸びていた。
壁には無数のパイプやケーブルが張り巡らされ、それらはまるで巨大な生物の血管のように、不規則に脈打っているように見えた――いや、それは光の加減による錯覚だったはずだ。
私は直感で「正面」だと感じた方角へ歩き出した。
カツ、カツ、カツ。
足音が響く。
空気は湿っているのに、喉が渇く。
壁のコンクリートには、白いカビのようなものが幾何学模様を描いて付着しており、時折、それが人の顔のように見えて、私は慌てて光を逸らした。
二十メートルほど歩いただろうか。
体感ではもっと長く、数キロメートルも歩いたように感じたが、歩数からすればその程度だったはずだ。
光の先に、行き止まりの鉄格子が現れた。
その錆びた格子の向こう側は完全な闇で、光を当てても何も見えない。
ただ、冷たい風だけが、その闇の奥から吹き抜けてくる。
行き止まりの手前、右側の壁に、地上へと続く梯子が設置されていた。
「なんだ、もう終わりか」
私は安堵と失望が入り交じった溜息を吐いた。
もっと凄いもの、例えば秘密基地や、見たこともない怪物の死骸なんかを期待していたのだ。
距離と方向から推測するに、この上は、グランドから道路を一本挟んだ向かい側にある空き地あたりだろう。
私は梯子を登り始めた。
早く地上に出て、自販機で冷たいコーラでも買おう。
そう考えながら、頭上の鉄扉を押し上げた。
扉が開くと同時に、視界が強烈な朱色に染まった。
「え?」
思わず声が出た。
私が地下に入ったのは、太陽が中天にある昼過ぎだったはずだ。
地下にいた時間は、長くても三十分程度。
しかし、目の前に広がる世界は、どっぷりと重い夕暮れに沈んでいた。
空の色がおかしい。
通常の夕焼けのような茜色ではない。
腐ったミカンのような、濁った橙色と紫色が斑に混ざり合い、それが空全体に脂のようにへばりついている。
そして、さらに奇妙なことに、私は「降りた場所」と同じ場所に立っていた。
周囲の風景は、見慣れたグランドそのものだった。
セイタカアワダチソウの群生。遠くに見える団地。錆びたジャングルジム。
「なんだ、戻ってきちゃったのか」
一瞬そう思ったが、すぐに違和感が肌を粟立たせた。
静かすぎるのだ。
夏休みの夕方なら、どこかの家からテレビの音が聞こえたり、子供の叫び声がしたり、車の走行音が響いているはずだ。
それに、あれほど喧しかったアブラゼミの鳴き声が、一切しない。
完全なる無音。
まるで、世界中の空気を透明な樹脂で固めてしまったような静寂だった。
私は逃げるようにグランドを出て、自宅の方角へ歩き始めた。
角を曲がる。
そこにあるはずの「山本雑貨店」がなかった。
いや、建物はある。だが、それは雑貨屋ではなかった。
壁一面が、人間の皮膚のような質感のベージュ色の土壁で覆われ、窓が一つもない、のっぺりとした直方体の塊になっていた。
看板もない。入り口も見当たらない。
ただ、壁の中央付近に、耳の穴のような小さな窪みが一つあるだけだった。
背筋に冷たいものが走った。
視線を逸らし、公民館の方を見る。
いつも老人たちがゲートボールをしている広場は、銀色の鋭利な杭が何百本も地面から突き出し、立ち入りを拒絶していた。
公民館の建物は、「病院」という看板を掲げていたが、その文字は左右が反転していた。「院病」ではなく、文字そのものが鏡文字になっているのだ。
道路標識も異常だった。
「止まれ」の逆三角形の標識には、文字の代わりに、大きく見開かれた眼球のイラストが描かれていた。
その瞳孔は、私が動くと、それを追うように微かに動いた気がした。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ」
私は譫言のように呟きながら、走った。
自宅へ。とにかく自分の家に帰れば、すべて元通りのはずだ。
心臓が肋骨を内側から叩き割るような勢いで脈打つ。
息が切れ、喉からヒューヒューという音が漏れる。
自宅が見えた。
瓦屋根の、変哲もない木造二階建て。
ああ、良かった。家はある。
そう思ったのも束の間、近づくにつれて、その安堵は絶望へと変質した。
私の家であって、私の家ではなかった。
庭には、私の背丈の二倍はある巨大なサボテンが、一本だけ屹立していた。
そのサボテンは緑色ではなく、赤黒い肉のような色をしており、棘の代わりに、無数の短い指のような突起が生えていた。
その先端には、黄色い花が咲いているのだが、その花からは甘ったるい腐敗臭が漂っていた。
駐車場には、車が停まっていた。
父の愛車である白いセダンではない。
それは真っ赤な金属の塊だった。
スポーツカーを無理やり左右からプレスして潰したような形状で、信じられないことに、それはタイヤではなく、四本の細い金属の脚で地面に立っていた。
極端に縦に細長いその「車」は、まるで巨大な赤い甲虫が羽を休めているように見えた。
玄関へ回る。
インターホンがあるべき場所には、黒いベークライト製のレバーが、下向きに取り付けられていた。
そして、玄関扉の両脇。
そこには、狛犬の代わりに、奇妙な石像が対になって置かれていた。
首の長い、キリンのような動物の像だ。
しかし、その顔は苦悶に歪んだ老人のものであり、顎からは豊かな髭が地面まで垂れ下がっていた。
石で作られているはずなのに、その髭の一本一本が、風もないのに湿り気を帯びて揺らいでいる。
でも、表札は「佐藤」だった。
私の家だ。間違いなく私の家なのに、何かが決定的に間違っている。
間違い探しなどという生易しいものではない。
世界そのものが、悪意を持って書き換えられているのだ。
正面から入る勇気はなかった。
私は震える足を引きずり、家の裏手へ回った。
台所の勝手口があるはずだ。
そこからこっそり中を覗いて、お母さんがいれば……。
勝手口の窓は開いていた。
私はビールケースを踏み台にして、恐る恐る中を覗き込んだ。
そこは居間だった。
ちゃぶ台を挟んで、二人の人物が向かい合って座っていた。
一人は、私の父だ。紫色の甚兵衛を着ている。後ろ姿だが、その丸まった背中は父のものだ。
もう一人は、見知らぬ男だった。
いや、見覚えがある。
学校の音楽教師、大山先生だ。
なぜ音楽の先生が家に?
父と大山先生は、親しげに談笑していた。
しかし、会話の内容は聞こえない。
彼らの口からは、言葉の代わりに、ガラスが擦れ合うような「キチチチチ」という鋭い高周波音だけが漏れ出していた。
二人はその音を出し合いながら、時折、首をガクン、ガクンと不自然な角度に折り曲げて頷き合っている。
楽しそうに。
そして、父がゆっくりとこちらを振り返ろうとした。
その首が、あり得ない角度――真後ろまで、滑らかに回転し始めた瞬間。
私は悲鳴を上げてビールケースから転げ落ちた。
「ドラクエだ」
不意に、当時熱中していたゲームのことが脳裏をよぎった。
『ドラゴンクエストⅢ』の後半、主人公たちは「裏世界」と呼ばれる、光を失った世界「アレフガルド」へ落ちる。
あそこは、上の世界と地続きでありながら、決定的に異なる絶望の世界だ。
「ここは裏世界だ。俺は裏世界に来てしまったんだ!」
理解した瞬間、恐怖が限界を超えて爆発した。
戻らなければ。
あの穴に戻らなければ、二度と「表」には帰れない。
私は来た道を、死に物狂いで走った。
振り返ると、あの縦長の赤い車が、金属の脚をカシャカシャと動かして追いかけてくるような気がした。
キリンの像が、その長い首を伸ばして、私の足首を髭で絡め取ろうとしている気がした。
グランドへ飛び込む。
まだ空はドロドロとした夕暮れのままだ。
私はあのコンクリートの土台を見つけ、開けっ放しになっていた鉄扉に飛び込んだ。
梯子を転げ落ちるように降りる。
膝を打ったが、痛みなど感じない。
暗闇の中、懐中電灯も点けずに、私は走った。
ゴウゴウという水音が、今は「逃がさないぞ」という地底からの唸り声に聞こえた。
行きの何倍もの速度で走り、元の梯子にたどり着く。
手足をもつれさせながら這い上がり、重い鉄扉を頭突きするように押し上げた。
溢れ出したのは、強烈な白い光と、騒がしいセミの合唱だった。
熱気が顔を打つ。
私は草の上に転がり出て、肩で息をした。
空は青く、入道雲が湧き上がっていた。
遠くから、廃品回収車のスピーカー音が聞こえる。
戻ってきた。
私は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その場に大の字になって空を見上げた。
あの日、グランドの草むらに大の字になって空を見上げたとき、私は確かに戻ってきたと信じていた。
青い空、入道雲、騒がしいセミの声。すべてが「こっち側」の証拠だった。
しかし、家に戻ってからの私は、まるで何かに憑かれたように変わってしまった。
グランドの方角にある窓のカーテンをすべて閉め切り、少しでも隙間が開いていると、ヒステリックに叫んで母を困らせた。
食事の時も、父の顔を直視できなかった。
父が箸を口に運ぶたび、その首がカクンとあらぬ方向へ折れ曲がり、口からあの高周波音が漏れ出すのではないかという予感が、常に脳裏にへばりついていたからだ。
当然、父は普通の父だったし、甚兵衛ではなくヨレたポロシャツを着て、ナイター中継を見ながらビールを飲んでいただけだった。
それでも、私の恐怖は薄まらなかった。
一度見てしまった「裏側の父」の姿は、網膜に焼き付いた残像のように、ふとした瞬間に正常な父の姿に重なった。
「あそこには、もう行っちゃ駄目だ」 私は自分自身に言い聞かせた。
グランドに近づけば、また吸い込まれる。
あの鉄の扉は、一度開けたら二度と閉まらない呪いのようなものだ。
もしまたあそこに落ちたら、今度はあの赤い脚の車に追いつかれ、髭の生えた石像に踏み潰され、あの家の中で永遠にキチチチと笑い続けることになる。
その強迫観念は、私の行動範囲を極端に狭めた。
幸いなことに、それから半年も経たないうちに父の転勤が決まり、私たちはその町を離れることになった。
引っ越しの日、トラックの荷台が揺れる中、私は一度だけ振り返ってあの町を見た。遠ざかる景色の中で、グランドのある一角だけが、陽炎のように歪んで見えたのは気のせいだったろうか。
私は逃げ切ったのだ。そう思うことにした。

それから三十年の月日が流れた。
私は大学を出て、都内の建材メーカーに就職し、結婚もし、平凡な日常を送っていた。
あの夏の出来事は、徐々に記憶の棚の奥へと押しやられていった。
子供特有の白昼夢、あるいは熱射病が見せた幻覚。
大人になるにつれ、私はあれをそう合理化して処理していた。
「子供の頃って、妙にリアルな夢を見ることがあるよな」 居酒屋で同僚が怪談話を始めた時も、私は曖昧に笑って相槌を打つだけで、自分の体験を話すことはなかった。
話せば、その瞬間に「あれ」が事実として固定化されてしまう気がしたからだ。
封印しておけば、それはただの悪い夢で済む。
半年前のことだ。
仕事の取引先へ向かう途中、カーナビの地図に見覚えのある地名が表示された。
埼玉県某市。かつて私が住んでいた町だ。
ハンドルを握る手が、僅かに汗ばんだ。
避けるべきだという理性が警告を発する一方で、三十年という時間が作り出した余裕のようなものが、私に囁いた。
「もう大人なんだ。ただの空き地を確認するだけじゃないか」 怖いもの見たさというよりも、あの日の恐怖が本当にただの幻覚だったのか、答え合わせをしたいという欲求が勝った。
私は営業車を街道から逸らせ、記憶の中の地図を頼りに、かつての自宅周辺へと車を走らせた。
町並みは変わっていた。
田んぼや畑だった場所には小奇麗な建売住宅が並び、狭かった道路は拡幅され、コンビニやドラッグストアが建っていた。
しかし、道の区画や、古くからある農家の屋敷森などは当時のままで、それが奇妙な既視感となって私を揺さぶった。
そして、あの場所に着いた。
グランドは、まだあった。
ただし、その敷地の半分はアスファルトで舗装され、月極駐車場になっていた。
残りの半分は相変わらず雑草が生い茂る荒れ地で、周囲を古びたフェンスが囲っていた。
私は駐車場の端に車を停め、エンジンを切った。
窓を開けると、春先の乾いた風が入ってきた。
匂い。
記憶の中にある、あの濃厚な草いきれや、湿った土の匂いはない。
排気ガスと、乾燥した埃の匂いだけだ。
私は車を降り、フェンス越しにグランドの中を覗き込んだ。
セイタカアワダチソウの枯れた茎が、茶色い波のように広がっている。
あのコンクリートの土台はどこだろう。
視線で草むらを撫でるように探す。
駐車場として整地された部分にはない。とすれば、あの草むらの奥か。
足を踏み入れようとして、身体が拒絶した。
恐怖心というよりは、生理的な嫌悪感に近い。
胃の腑が冷たくなる感覚。
「やめておこう」 私はすぐに撤退を決めた。
いい歳をした大人が、不法侵入で通報されるのも馬鹿らしい。
それに、もし本当にあの鉄扉を見つけてしまったら? そして、それが錆びついて開かなくなっていたら「ただの廃墟」で済むが、もし新品同様に濡れた光沢を放っていたら? 想像力が、三十年前の恐怖を鮮度そのままに蘇らせた。
私は逃げるように車に戻り、キーを回した。
車を出して、かつての通学路だった道をゆっくりと進む。
心臓の鼓動がまだ早い。
落ち着くために、私は煙草に火をつけた。
ふと、右手の車窓に、かつての実家があった場所が見えた。
建物は建て替えられていた。
モダンな黒い外壁の、四角い箱のような家だ。
表札は見えなかったが、庭には小洒落たオリーブの木が植えられ、白い国産のミニバンが停まっていた。
「なんだ、普通じゃないか」 私は煙を吐き出し、自嘲気味に笑った。
あの時見た、巨大なサボテンも、赤い脚の車も、髭の生えたキリンの像も、どこにもない。
やはり、あれは夢だったのだ。
熱中症が見せた、悪質なデリリウム。
三十年越しに、ようやく私はあの日の自分を救い出せた気がした。
安堵と共にアクセルを踏み込もうとした、その時だ。
視界の端、その「普通の家」の玄関脇に、何かが引っかかった。
私は思わずブレーキを踏み、二度見した。
玄関のインターホン。
最近の住宅によくある、カメラ付きのスタイリッシュなものだ。
だが、その横に、もう一つ。
黒い、ベークライト製のレバーが、下向きに取り付けられていた。
心臓が跳ねた。
いや、見間違いだ。何かの装飾か、あるいは郵便受けのフラップだろう。
目を凝らす。
間違いなかった。
あの時、私が「裏世界」の自宅で見たものと全く同じ形状の、意味不明な下向きのレバー。
それが、真新しいサイディングの外壁に、異物のように、しかし当然の設備として設置されている。
背筋に悪寒が走る。
視線を慌てて他へ逸らす。
向かいの家。
ごく普通の、クリーム色の外壁の家だ。
だが、その二階の窓。
カーテンの隙間から、誰かがこちらを見ている。
紫色の服を着た男。
距離があるのに、なぜか顔の細部まで鮮明に見えた。
父ではない。知らない老人だ。
その老人は、私と目が合うと、にこりと笑った。
そして、首を、カクン、と真横に九十度曲げた。
人間の骨格ではありえない角度。
ガラス越しに、あの音が聞こえた気がした。
『キチチチチ』
私は悲鳴を上げてアクセルを床まで踏み込んだ。
タイヤが空転し、焦げ臭い煙を上げる。
車は猛スピードで住宅街を駆け抜けた。
標識を見る。
「止まれ」の赤い逆三角形。
文字が書いてある。大丈夫だ。
いや、違う。
「止まれ」の文字の「止」の字が、よく見ると、小さな人間の指を何本も組み合わせて書かれている。
カーブミラーを見る。
鏡面に映った自分の車が、一瞬、縦に潰れた赤い金属の塊に見えた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」 私は錯乱状態でハンドルを切った。
幹線道路に出れば助かる。
車の流れに乗れば、現実に帰れる。
大通りに出た。
トラックや営業車が行き交う、見慣れた日常の風景。
私はコンビニの駐車場に滑り込み、急ブレーキで停車した。
肩で息をする。
手足が震えて、煙草を持つこともできない。
「落ち着け……落ち着け……」 バックミラーで自分の顔を見る。
青ざめた、脂汗をかいた中年男の顔。
どこにでもいる、ただの怯えた男だ。
私は自分の頬を両手で叩いた。
幻覚だ。またあの記憶がフラッシュバックしただけだ。
疲れているんだ。
深呼吸をし、シートに背中を預ける。
ふと、自分の着ているワイシャツの袖口が目に入った。
白い、形状記憶の安物だ。
だが、その生地の織り目が、奇妙にうねっている。
目を凝らすと、それは糸ではなく、極細の白いミミズのようなものが、互いに噛み合い、蠢きながら布を構成していた。
「うわっ」 袖を払おうとするが、取れない。それが「生地」そのものだからだ。
私は戦慄して周囲を見渡した。
コンビニの看板。
大手チェーンのロゴマーク。
その色彩が、微妙にズレている。
赤と緑とオレンジのストライプが、ヌルヌルとした粘液質の光沢を帯びている。
駐車場を歩く人々。
彼らの歩き方が、僅かにおかしい。
膝を曲げず、関節をカクカクとロックさせながら、人形のように歩いている。
そして、自動ドアが開くたびに聞こえる入店音が、あの電子音のメロディではなく、何かの悲鳴を加工したような、不協和音に聞こえる。
「……あ」 その時、唐突に理解してしまった。
私は、戻ってきてなどいなかったのだ。
あの夏の日、梯子を登って地上に出た瞬間から、私はずっと「こちら側」にいたのだ。
ただ、私の脳が、あまりにも異常な風景に耐えきれず、三十年間かけて必死にフィルターをかけ、「正常な世界」に見えるよう補正し続けていただけだったのだ。
サボテンを木に、赤い鉄の虫を車に、異形の怪物を人間に。
脳内で必死に書き換え、辻褄を合わせ、自分を騙し続けてきた。
だが、今日、かつての入り口である「グランド」に近づいたことで、その補正フィルターに亀裂が入ってしまった。
綻びが始まったのだ。
コンビニのガラスに映る自分の姿を見る。
そこに映っていたのは、青ざめた中年男ではなかった。
紫色の皮膚をした、目が四つある何かが、ワイシャツのような白い皮膜を纏って座っていた。
その口が、パクパクと開閉する。
声を出そうとした。
しかし、喉から出たのは、言葉ではなかった。
「キチチチチ……」
私は口元を押さえ、震える手でエンジンをかけた。
家に帰ろう。
妻が待っている。
たとえ、彼女が本当はどんな姿をしていようとも、私には愛する妻に見えているはずだ。
補正が完全に剥がれ落ちる前に、家に帰らなくては。
私はアクセルを踏んだ。
私の操る赤い金属の塊は、四本の脚を器用に動かし、異形の住人たちが蠢く夕暮れの街へと、カシャカシャと音を立てて走り出した。
(了)