消毒液と腐った果実が混ざり合ったような、病院特有の重たい空気が、病室の低い天井に澱んでいた。
窓の外は鉛色の曇天で、湿気を含んだ風が時折、ガラスを微かに震わせている。
祖父の最期を看取るために集まった親族たちの呼吸音だけが、不規則に重なり合っていた。誰も口を開かない。ただ、ベッドサイドに置かれた心電図モニターの電子音だけが、無機質に、そして残酷なほど正確に、命の終わりを刻んでいた。
ピ、ピ、ピ、ピ……。
その音は、私の鼓動とシンクロし、胸の奥を冷たい針で突くような感覚を覚えさせた。祖父は、枯れ木のような手足をシーツの下に投げ出し、深い窪みに落ち込んだ眼窩を閉ざしている。かつて「鬼軍曹」と恐れられた面影は、もはや皮膚の僅かな弛みにしか残っていない。
酸素マスクの内側が、弱々しい呼気で白く曇っては、また透明に戻る。その繰り返しを見つめていると、自分自身の呼吸までが薄くなっていくような錯覚に陥った。
私は汗ばんだ手をズボンで拭った。空調は効いているはずなのに、首筋にまとわりつくような脂汗が止まらない。祖父の死を悲しんでいるのか、それとも、死という現象そのものを前にして足がすくんでいるのか、自分でも判別がつかなかった。
「……そろそろ、かもしれません」
医師が低く呟いた。その声は、水面に落ちた墨汁のように、張り詰めた静寂へゆっくりと滲んでいった。
親族たちが一斉に身じろぎをする。衣擦れの音が波のように広がり、誰かのすすり泣く声が漏れた。
私は祖父の顔を凝視した。土気色の肌。浮き出た血管。それは、人間というよりも、使い古された革細工のように見えた。
不意に、モニターの電子音がリズムを乱した。
ピ……ピ……ピ…………。
間隔が空く。その空白の時間が、永遠のように長く感じられる。
そして。
ピーーーーーーーーーーー。
音が一本の線になった。
波形が消失し、ただ緑色の直線だけが画面を流れていく。
部屋の空気が、急激に温度を下げた気がした。
医師がペンライトを取り出し、祖父の瞳孔を確認する。そして、腕時計へと視線を落とした。事務的で、手慣れた動作だ。
「ご臨終です。時刻は、午後——」
その時だった。
音はしなかった。あるいは、あまりにも異質な音だったために、脳が認識を拒絶したのかもしれない。
「ガバッ」という擬音が相応しいような、爆発的な勢いで、祖父の上半身が跳ね起きたのだ。
物理的にあり得ない挙動だった。死後硬直にはまだ早い。筋肉の弛緩した老人が、腹筋の力だけで、まるでバネ仕掛けの人形のように直角に起き上がることなど、可能なはずがない。
医師の言葉が喉の奥で詰まる音が聞こえた。
祖父は、虚空を睨みつけていた。閉じていたはずの目は見開かれ、濁った眼球がぎらりと濡れた光を放っている。
そして、その顔が、ゆっくりと歪んだ。
頬の肉が持ち上がり、歯茎が剥き出しになる。それは、生前の祖父が見せたことのない、獰猛で、狂気じみた、満面の笑顔だった。
「根性の勝ちや!!」
裂帛の気合い。
しわがれた、しかし鼓膜をビリビリと震わせるほどの轟音が、病室の壁を叩いた。
喉から絞り出されたというよりは、内臓の底、あるいはもっと深い場所から噴き出したような声だった。
私は心臓が口から飛び出しそうになり、あられもなく後ずさった。
背後の看護師が短い悲鳴を上げ、点滴スタンドに足を引っ掛けた。
ガシャン、ガラガラガラ!
金属が床を転がる派手な音が響いたが、誰もそちらを見なかった。全員の視線が、ベッドの上に直角に座り、ニッカリと笑う「死体」に釘付けになっていたからだ。
祖父は、勝利を確信したような笑みを浮かべたまま、数秒間、その姿勢を維持した。
まるで、我々の驚愕を心ゆくまで味わっているかのように。
やがて、糸が切れた操り人形のように、再びドサリとベッドへ倒れ込んだ。
頭が枕に沈む鈍い音。
今度こそ、微動だにしなかった。
ニッカリと笑ったままの表情が、天井を向いて固まっていた。
モニターは相変わらず、無感情な一本線を流し続けている。
ピーーーーーーーーーーー。
その音が、先ほどとは全く違う、嘲笑のような響きを持って鼓膜にこびりついた。
医師は、腰を抜かしたまま床に座り込んでいた。手にしたペンライトが小刻みに震えている。
「あ……ありえん……」
震える声で医師が呟いた。医学的見地からの否定など、目の前の現実には何の意味も持たなかった。
心停止した人間が、覚醒し、咆哮し、そして再び死んだ。
その事実は、恐怖を通り越して、ある種の滑稽ささえ帯びていた。
だが、その笑い顔だけは、決して笑えるものではなかった。
死の瞬間に筋肉が収縮して笑ったように見える現象はあると聞く。しかし、あれはそんな生理現象ではなかった。
明確な「意志」が、肉体の限界をねじ伏せて作った表情だった。
通夜と葬儀は、奇妙な熱気に包まれた。
悲壮感は皆無だった。参列者たちは、焼香の順番を待つ間も、ひそひそと祖父の「二度目の死」について語り合った。
「聞いたか? 先生が死亡確認した後に生き返ったらしいぞ」
「根性の勝ちやって叫んだんだと」
「あの人らしいや。死神まで怒鳴りつけて追い返したんだろう」
皆、笑っていた。豪快なエピソードとして消費しようとしていた。
だが、私は違和感を拭えずにいた。
棺の中の祖父の顔を見るたび、背筋に冷たいものが走るのだ。
死に化粧を施されてもなお、その口元はニッカリと笑った形を崩していなかった。
その笑顔は、「生への執着」という美しい言葉では説明がつかない、もっとどす黒い、強烈な自我の塊のように見えた。
何か、人間が踏み込んではいけない領域を、無理やりこじ開けてしまったような、不吉な予感がしていた。
その予感の正体が形を成したのは、遺品整理の際に見つかった一通の遺書を読んだ時だった。
茶封筒に入ったそれは、達筆な筆文字で書かれていたが、墨がところどころ滲んでおり、執念のような筆圧が紙を波打たせていた。
私は震える手で封を開き、中の便箋を取り出した。
そこには、戦時中の古い記憶と、祖父が生涯抱え続けてきた、ある「実験」への渇望が記されていた。
便箋から立ち昇る古い墨と防虫剤の匂いが、鼻腔の奥にへばりついた。
祖父の筆跡は、一文字一文字が紙を食いちぎるかのように深く、黒々としていた。
「我が孫たちへ」
書き出しは平凡だった。だが、続く内容は、常軌を逸していた。
南方のジャングルで、俺の戦友だった佐藤が死んだ時のことだ。あいつは腹をやられ、蛆にたかられながら、泣き言を言って死んでいった。「痛い、怖い、助けてくれ」と。
俺はあいつの耳元で怒鳴り続けた。「気合いだ、根性だ。魂さえ折れなけりゃ、肉体なんぞどうとでもなる。死ぬな、根性を見せろ」と。
だが、佐藤は死んだ。俺の言葉は虚空に消えた。
それ以来、俺はずっと考えていた。あれは俺の激励が足りなかったのか、それとも佐藤の根性が足りなかったのか。あるいは——人間という物質の限界だったのか。
だから俺は、自分の体で試すことにした。
読み進める指先が冷たくなった。
室内の湿度が飽和し、空気の粒子が粘り気を帯びて肌にまとわりつく。
俺が死ぬ時、心臓が止まり、医者が諦めたその瞬間に、俺は戻ってくる。
魂の力で、停止した臓器をねじ伏せ、現世に噛みついてみせる。
もし俺が、心停止の後に再び起き上がり、声を上げることができたなら。
それは「意志は物質を凌駕する」という証明だ。
成功した暁には、残されたお前たちはよく肝に銘じろ。
私にできて、お前たちにできぬ道理はない。
遺伝子は同じだ。血も同じだ。
お前たちが人生で突き当たる壁など、死の淵からの帰還に比べれば児戯に等しい。
以後、我が一族において「無理だ」「できない」という泣き言は一切禁ずる。
死ですら克服できるのだから、生きて行う全てのことは、ただの甘えに過ぎない。
「……めちゃくちゃだ」
私の口から、乾いた声が漏れた。
これは遺言ではない。呪詛だ。
「死をも乗り越える根性」という美談ではない。祖父は、死の淵から戻ってくることで、私たち子孫の逃げ道を永久に塞いだのだ。
「不可能」という概念を、自らの死体を使って粉砕して見せたのだ。
「すごいな爺ちゃん! 有言実行じゃないか!」
従兄弟の一人が、素っ頓狂な声を上げて笑った。
「こりゃあ、俺たちも弱音吐いてらんねえな。就職活動くらいで悩んでる場合じゃねえや」
親族たちは、再びドッと沸いた。この異常な論理を、ポジティブな精神論として消化しようとしている。彼らの神経の太さが、今は恐ろしかった。
遺書には続きがあった。
もし俺が起き上がれずにそのままくたばったら、この紙は燃やせ。
口先だけの男だったと笑って忘れろ。恥を残して死ぬのはやんぬるかな。
祖父は賭けに勝ったのだ。
命の終わりのその先にある「無」から、力ずくで戻ってきた。
その事実が、私の内側にある安全な常識の壁を、ゆっくりと浸食し始めていた。
それから数ヶ月、私の生活は一変した。
祖父の呪いは、遅効性の毒のように私の行動原理を書き換えていった。
仕事で徹夜が続いた時。高熱で意識が朦朧とした時。
ふと気を抜こうとすると、あの瞬間の音が蘇るのだ。
『ピーーーーー……』
無機質な電子音と共に、脳裏に焼き付いた祖父の笑顔がフラッシュバックする。
『根性の勝ちや!』
その声が鼓膜の裏で炸裂すると、身体の奥底から得体の知れない熱量が湧き上がり、疲労を無理やり焼き尽くしてしまう。
それは「やる気」などという生易しいものではなく、強迫観念に近い駆動だった。
私は、無意識のうちに祖父の実験の「続き」を行おうとしていた。
手始めに挑んだのは、ホノルルマラソンだった。
運動経験など皆無に近い私が、フルマラソンに挑む。常識で考えれば無謀だ。
しかし、私の中には奇妙な確信があった。
——爺ちゃんは死んでから生き返った。なら、生きている俺が走る程度のこと、できないはずがない。
ハワイの乾いた風と、容赦ない日差し。
アスファルトからの照り返しが体力を削り取っていく。
30キロ地点を過ぎたあたりで、足の感覚が消えた。
肺が焼けつくように痛み、心臓が早鐘を打つ。
身体中の細胞が「止まれ」と叫んでいた。医学的にも、肉体的にも、限界だったはずだ。
だが、止まれなかった。
意識が白濁するたびに、視界の端にノイズが走る。
風景が病院の白い壁とダブって見える。
自分の荒い息遣いが、あの人工呼吸器の音と重なる。
シュコー、シュコー……。
(ああ、限界だ。もう歩こう)
そう思った瞬間、心臓の鼓動が変調をきたした。
ドクン、と大きく跳ねた後、一瞬だけ止まった気がしたのだ。
その静寂の隙間に、あの音が滑り込んできた。
『ピーーーーー』
耳鳴りではない。警告音だ。
「ここで止まれば、お前は祖父に負けたことになる」
そんな声なき声が、脊髄を駆け上がった。
次の瞬間、私の太ももの筋肉が、私の意思とは無関係に収縮した。
「ガバッ」と、ベッドから跳ね起きた祖父のように、私の足は勝手に地面を蹴り飛ばした。
痛みが消えた。疲労感が消えた。
脳内麻薬がドバドバと分泌され、視界が異様にクリアになる。
私は走っていたのではない。何かに「走らされていた」。
自分という乗り物の操縦席に、別の何かが座り込んだような感覚。
ゴールした時の記憶はない。
気がついた時には、完走メダルを首にかけ、芝生の上で大の字になっていた。
空は抜けるように青かったが、私の網膜には、まだあの緑色の波形が焼き付いていた。
帰国後、私は周囲から「変わった」と言われるようになった。
精悍になった、たくましくなった、という称賛の声。
だが、一部の人間、特に勘の鋭い友人は、私と目を合わせるのを避けるようになった。
「お前の目、時々笑ってない時があるよな」
友人は酒の席で、怯えたようにそう言った。
「なんていうか……スイッチが入ったみたいに、黒目が一点を見つめて動かなくなるんだ。まるで、死んだ魚みたいに」
私はその言葉を聞いて、グラスを持つ手が震えるのを止めるのに必死だった。
心当たりがあったからだ。
限界を超えた瞬間、私の中で「私」が消え、代わりに「機能」だけが残る感覚。
それは、祖父が死の瞬間に見せた、あの「ニッカリ笑顔」の正体に近いのではないか。
感情でも、魂でもない。
ただひたすらに「目的」を遂行するためだけに最適化された、自動機械のような冷徹な意思。
そして昨夜。
私は自宅の浴室で、湯船に浸かりながら奇妙な実験をしていた。
息止めだ。
水中に顔を沈め、秒針を数える。
苦しい。肺が酸素を求める。横隔膜が痙攣する。
(顔を上げろ、死ぬぞ)
生存本能が警鐘を鳴らす。
だが、私は試さずにはいられなかった。
祖父の領域へ、どこまで近づけるのか。
限界を超えたその先に、祖父はまだ「居る」のか。
時計の針が進む。視界が暗くなる。
水の中で、自分の心音が大きく響く。
ドクン、ドクン、ドクン……。
音が遠のいていく。
意識が途切れる寸前、水面の揺らぎの向こうに、誰かの顔が見えた気がした。
土気色の肌。窪んだ眼窩。
祖父だ。
祖父が、水面の上から私を覗き込み、ニッカリと笑っていた。
『まだや。まだこっちには来れんぞ』
私はバシャリと顔を上げた。
激しく咳き込み、濡れたタイルに爪を立てる。
鏡に映った自分の顔を見て、私は凍りついた。
充血した目。引きつった口元。
それは、あの日の祖父の死に顔と、瓜二つだった。
「医学的にはありえんのかね?」
ふと、独り言が漏れた。
心臓停止の状態のまま覚醒して喋る。
今の私にはわかる気がする。
あれは蘇生ではない。
肉体というハードウェアが壊れてもなお、残留した電気信号が暴走して稼働し続けるバグだ。
そしてそのバグは、血縁という回線を通じて、感染する。
そんな言葉を耳にするたび、私は薄ら寒い笑いを噛み殺すようになった。
彼らは知らないのだ。根性とは精神のありようではなく、物理的な強制力であることを。
その日は、唐突に訪れた。
季節は巡り、またあの湿った夏が来ていた。
都心の交差点。青信号が点滅を始める。私は群衆に紛れてアスファルトを蹴った。
その瞬間、胸の中央で、何かが千切れる音がした。
痛みはなかった。ただ、世界への接続がプツリと切断されたような、圧倒的な喪失感があった。
視界が急速に狭まる。灰色の空と、林立するビル群が、魚眼レンズで覗いたように歪んで遠ざかっていく。
膝が折れ、地面が顔面に向かって迫ってくる。
硬質な衝撃。
周囲で悲鳴が上がった。
「人が倒れた!」「大丈夫ですか!」
遠くで響くそれらの声は、水槽の外の出来事のように不明瞭だった。
(ああ、これで終わるのか)
不思議と恐怖はなかった。むしろ、安堵に近い感情が胸を満たしていた。
祖父の呪縛、終わりのない自己研鑽、限界への挑戦。それら全ての重圧から、ようやく解放される。
私の心臓は、もはや動いていなかった。
血液の循環が止まり、脳への酸素供給が絶たれる。
意識が黒い泥の中に沈んでいく。
そこは静寂に満ちていた。
『ピーーーーー』
あの電子音すら聞こえない、完全なる無。
私はその心地よい闇に身を委ねた。祖父のように抗うつもりはなかった。私は祖父ではない。ただの凡庸な孫だ。これ以上の「実験」には付き合いきれない。
さようなら、爺ちゃん。俺はここでお暇するよ。
闇の底に着地しようとした、その時だった。
泥の底から、一本の腕が伸びてきた。
血管の浮き出た、節くれだった、土気色の腕。
それは私の足首を力強く掴んだ。
万力のような握力。骨がきしむほどの激痛が、存在しないはずの神経を駆け上がる。
『逃げるんか』
声ではない。振動が直接、魂を殴りつけた。
泥が渦を巻き、底から巨大な顔がせり上がってくる。
ニッカリと笑った、あの顔だ。
祖父ではない。
いや、祖父だったもの。
あるいは、「祖父」という器を使っていた、もっと別の何か。
『ワシらはまだ、何も成し遂げとらんぞ』
その目は、底なしの飢餓感を湛えていた。
『死などという生理現象に、意志を明け渡すな』
嫌だ。やめてくれ。私は死にたい。静かに眠りたい。
『根性を見せろ』
引きずり込まれる。いや、引きずり上げられる。
現世という、灼熱の地獄へ。
「AEDを持ってきました!」「離れてください!」
現実世界の音が、暴力的な音量で戻ってきた。
電気ショックの衝撃が、胸板を貫通する。
ドンッ!
肉体が跳ねる。だが、心臓はまだ沈黙を守ろうとしていた。私の肉体は、主人の休息を望んでいた。
「ダメです、戻りません!」
救急隊員の焦った声。
そうだ、そのままでいい。諦めてくれ。死亡時刻を宣告してくれ。
だが、私の内側に入り込んだ「異物」が、それを許さなかった。
心臓の筋肉繊維の一本一本に、強制的に電流が流し込まれる。
細胞の一つ一つが、見えざる鞭で叩き起こされる。
熱い。痛い。苦しい。
血液が無理やりポンプアップされ、脳血管をこじ開ける。
限界を超えた負荷に、私の自我が悲鳴を上げる。
(やめろ! 俺は死んだんだ!)
『甘えるな』
嘲笑が響く。
「ご臨終で……」
隊員がそう言いかけた、その刹那。
私の意志とは無関係に、腹筋が収縮した。
背骨がバネのように弾け、私はコンクリートの上で上半身を直角に跳ね起こした。
周囲を取り囲んでいた野次馬たちが、波が引くようにざっと後ずさる。
酸素を求めて喘ぐ肺が、喉の奥から空気を吸い込む音。
ヒュッ、カッ、コォォォ……。
視界が開ける。
怯えた目をしたサラリーマン、スマホを向ける若者、腰を抜かした老婦人。
彼らの顔が、スローモーションのように見えた。
何か言わなければならない。
意識の端っこで、私は最後の抵抗として、あらかじめ用意していたあの台詞を吐き出そうとした。
「我が生涯に、一片の悔いなし」と。
せめて、格好をつけて死にたかった。自分の死に様くらい、自分で演出したかった。
だが、唇は私の制御下になかった。
頬の筋肉が勝手に持ち上がり、歯茎を剥き出しにする。
眼球が見開かれ、涙で潤んだ視界がぎらりと光る。
私の喉から、私のものとは思えない、地を這うようなしゃがれ声が轟いた。
「根性の!! 勝ちやぁぁぁッ!!」
ビリビリと空気が震えた。
その声は、かつて病院で聞いた祖父の声と、完全に同じ波長だった。
周囲の人間が、恐怖に顔を引きつらせる。
「ひっ……」「なんだこいつ……」
誰かが悲鳴を上げ、誰かが嘔吐した。
私はその光景を、肉体の奥の操縦席に縛り付けられたまま、他人事のように眺めていた。
心臓が、ドクン、ドクンと、不整脈を刻みながら再起動する。
暴力的で、不格好な鼓動。
それは生命の律動というよりは、壊れかけたエンジンの空回り音に近かった。
助かってしまった。
いや、乗っ取られてしまった。
救急車に乗せられる最中、私は薄れゆく意識の中で理解した。
祖父の遺書にあった「私に出来て他の者に出来ぬ道理は無い」という言葉。
あれは激励ではなかった。
「俺の意志はお前の肉体と互換性がある」という、適合宣言だったのだ。
祖父は死んだのではない。
あの時、使い古した身体を捨て、遺伝子の近い予備の肉体——つまり私——に、その「妄執」の種を植え付けたのだ。
そして今、私の自我という免疫が死によって弱まった隙に、種は完全に発芽し、宿主を掌握した。
これから私は生き続けるだろう。
私の意志が「休みたい」と叫んでも、この肉体は止まらない。
疲労で筋肉が断裂しようが、病魔に冒されようが、寿命が尽きようが。
「根性」という名の寄生虫が、宿主を食い潰すまで走らせ続けるのだ。
救急車の天井を見つめる私の口元は、まだニッカリと笑ったまま硬直していた。
その笑顔は、鏡の中で見た祖父の笑顔と完全に重なっていた。
ふと、救急隊員が私の顔を覗き込み、気味悪そうに呟いたのが聞こえた。
「……生きてる、よな?」
私は心の中で答えた。
(いいえ、私は死にました)
(今ここに居るのは、ただの『根性』です)
モニターの電子音が、規則正しく、しかしどこか嘲るように響いている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
それはまるで、新しい宿主の獲得を祝う、カウントダウンのようだった。
私の目からは一筋の涙が流れたが、頬の筋肉は、歓喜の笑みを形作ったまま、ピクリとも動かなかった。
(了)