青森に住んでると、霊能力者みたいな人が身近にいるのが当たり前みたいになる。
何でもかんでも幽霊に結びつけるつもりはないけど、土地の空気が薄い瞬間があるのは否定しにくい。黒石の冬の夜なんか、息を吐くと白くなるのに、吐いた息のほうが重たく見える時がある。あれは湿気じゃ説明がつかない。
親父の火葬の日もそうだった。
火葬場の待合室は変に新しくて、床だけが古く見えた。壁の時計は秒針の音がやけに大きく、親族が誰も喋らない時間が長いほど、その音が喉に引っかかった。泣く人はもう泣き尽くした後で、逆に笑う人もいない。空気が乾いていて、消毒液の匂いに混じって、線香の焦げが薄く漂っていた。
煙草を吸いに、待合室の隅の小さな喫煙所へ入った。ガラス扉の中だけ別世界みたいに煙が溜まり、外の静けさが遠ざかる。灰皿は備え付けで、捨てた吸い殻がまっすぐ並んでいた。誰かが几帳面に揃えたんだろうけど、その几帳面さが逆に気味悪い。
そこへ坊さんが入ってきた。袈裟じゃなくて、薄い上着の下から作務衣が覗いている。線香臭いのに、手は洗いたてみたいに乾いていた。
「一服してもいいですか」
坊さんがそう言って、俺の隣で煙草に火をつけた。坊主が煙草を吸うこと自体は珍しくない。だけどこの人は、吸い方が妙に静かだった。煙を肺に落としているのか、それとも口の中で転がしているのか分からない。吐く煙が細く、曲がらず、まっすぐ上がる。
俺は礼儀として軽く会釈した。坊さんの方から話を振ってきた。
「青森の方ですか」
「黒石です」
「そうですか。ここらはね、近いんですよ」
何が、と聞き返す前に、坊さんは煙を吐いて続けた。
「近いっていうのは、向こうにです。こっちと向こうの膜が薄い。だから、変なものも入りやすい。変なものに気づきやすい。霊能力者が多いって言われるのは、そのせいです」
親族の中にも、そういう話が好きな人間はいる。俺は嫌いじゃない。だけど火葬場で聞く話としては、味が濃すぎる。俺は半分冗談で言った。
「じゃあ青森は霊界に一番近いんですか」
坊さんは笑わなかった。笑うところでもないという顔で、灰を落とした。
「一番、とは言いません。でも、恐山は端です。人間が踏み込める端。端っていうのは、世界の端じゃなくて、意味の端です。ここから先は、人の言葉が効かなくなる」
俺は煙草を吸いながら、親父の顔を思い出した。葬儀の間、親父の写真はずっと笑っていた。死んだ人間が笑っている写真は、見ている側の表情を奪う。笑い返すのが不謹慎なのか、笑い返せない自分が薄情なのか分からなくなる。
坊さんの話は続いた。
「北海道は神様の土地って言う人もいます。アイヌは神の民、って言い方もある。言葉が荒いですけどね。言葉は荒いほど、真ん中だけ当たる」
坊さんは煙草を指で回した。フィルターが少し湿っていた。
「今の世の中は修羅道みたいなものです。戦争が目に見える戦争じゃなくなって、ずっと続いている。神と魔物がぶつかっている。人間は、どっちにも使われる」
魔物、と坊さんは言った。鬼でも悪霊でもない言い方だった。
「魔物って何ですか」と聞くと、坊さんは少しだけ目を細めた。
「怖さを取り上げるものです。怖さをなくせば、神を恐れなくなる。神を恐れなくなれば、神を認識しなくなる。認識されない神は弱る。弱れば負ける。負ければ、地獄ができる」
俺はそこで、さっきの話の辻褄の悪さに気づいた。地獄がないと言い切った口で、地獄ができると言う。
「日本には地獄ないんですか」
「今は、まだね」
坊さんはそう言った後、ほんの一瞬だけ、何かを聞き取るみたいに首を傾げた。喫煙所の換気扇が低い音を立てているだけで、外は静かだ。俺の耳にも何も入らなかった。
その次の言葉が、妙だった。
「お父さん、寒かったろ」
坊さんは俺の方を見ないまま、誰かに言い聞かせるようにそう呟いた。声は小さく、煙に混じって消える程度だった。でも俺には聞こえた。聞こえてしまった。
親父のことを坊さんが知っているはずがない。葬儀の段取りは親族の代表が全部やっていて、俺はほとんど喋っていない。火葬場で坊さんとまともに言葉を交わしたのは今が最初だ。
俺の背中がじわっと冷えた。煙草の煙が急に熱く感じる。俺が固まったのを、坊さんは気づいたのか気づかないのか、何事もなかったように続けた。
「負けたことは一度あります。もう一度って言ってもいい。昔の話です」
俺は喉が乾いたまま聞いた。
「どこでですか」
「イスラエル」
坊さんはさらっと言った。青森の火葬場の喫煙所で出てくる単語じゃない。俺は笑って流せなかった。笑うと足元が崩れる感じがした。
「神様は逃げたんですか」
「逃げる、という言い方は好きじゃありません。でも、引いた。戦い方を変えた。大陸を通って、こちらへ寄った。寄ったというのも変ですね。縁があった。縁がなければ来ない」
坊さんは灰皿を見て、吸い殻の列を指で軽く触れた。列が少し崩れる。崩れたのに、すぐ元の列に戻ったように見えた。目の錯覚だと思った。俺の視界が煙で揺れているだけだ。
「祈りとか、壺とか、そういうので神を助ける必要はありません」と坊さんは言った。「神が弱るのは、人間が忘れるからです。認識しないからです。なんとなくいる、でいい。それだけで勝てる。逆に言えば、それができないと負ける」
その言い方が、やけに現実的だった。宗教の話のはずなのに、生活指導みたいだった。
俺は我慢できずに言った。
「さっき、お父さんって言いましたよね」
坊さんは一瞬だけ、口の端を動かした。笑いでも怒りでもない。ただ、薄い膜を舌先でなぞるみたいな動きだった。
「誰にでもお父さんはいます」
それだけだった。否定も肯定もしない。釘も刺さない。俺の質問が滑って床に落ちたみたいに、音もなく消えた。
坊さんは煙草を消し、手を洗うでもなく、喫煙所を出ていった。扉が閉まると、外の静けさが戻ってきた。戻ってきたのに、喫煙所の中だけ、何かがまだ残っている。煙じゃない。匂いでもない。言葉の残りかすだ。
火葬の時間が近づき、係の人に呼ばれて親族が立ち上がる。骨を拾うときの手順を聞きながら、俺はずっと坊さんの呟きを反芻していた。親父は寒がりだった。冬になると、ストーブの前から動かなかった。だから寒かったろ、という言葉が妙に刺さった。誰にでも通じる言葉だからこそ、俺にしか刺さらない角度で入ってきた。
火葬炉の前で扉が閉まり、音が消えた。親族が黙ったまま並び、坊さんが経を読む。声は一定で、波みたいに続く。俺はその声の中に、さっきの小さな呟きが混じっていないか探してしまった。探した瞬間、自分が何かに応答している気がして、背筋が硬くなる。
骨上げのとき、箸で骨をつまむ親族の手が震えた。骨は白く、ところどころが薄い青に見えた。熱で色が変わると言われている。知識で説明できるのに、俺の頭は説明を拒んだ。骨の中に、灰じゃないものが混じっている気がした。
火葬場を出ると、外の空気は冷たかった。雲が低く、山が近い。青森の冬は距離感がおかしくなる。遠いものが近く、近いものが遠い。俺は駐車場で煙草に火をつけた。吸い込んだ瞬間、喉の奥で同じ言葉が響いた。
お父さん、寒かったろ。
俺は思わず振り返った。誰もいない。親族は車に荷物を積んでいる。坊さんはもう見えなかった。声は外からじゃなく、俺の中から出てきたみたいだった。自分の声でも、坊さんの声でもない。親父の声でもない。なのに、言葉の形だけが正確に同じだった。
その夜、家で風呂に入っても、手から線香の匂いが落ちなかった。爪の間に灰が残っている気がして、何度も洗った。鏡を見ると、自分の目が妙に乾いていた。泣いてないのに、泣いた後みたいな乾き方だった。
数日後、知り合いの霊能力者の男に会った。ガチのやつだ。冗談で済ませると機嫌が悪くなるタイプで、俺も軽く扱えない。そいつは顔色が悪かった。目の下が深く、口元が固い。
「最近どうなんだ」と聞くと、そいつは即答した。
「繋がらない」
「何に」
「上に」
言い方が雑で、逆に本気だと分かった。
「神様っているのかよ」
俺がそう言うと、そいつは一瞬だけ笑った。笑ったのに、目が笑っていない。
「いるよ。いるけど、今は静かだ。静かっていうか、遠い」
俺は火葬場の喫煙所の話をした。坊さんが言ったことを全部言うのはやめた。イスラエルだの修羅道だのを並べたら、俺の頭がおかしくなったみたいになる。だから一番変な部分だけ、坊さんの呟きだけを言った。
そいつは煙草を指で折り曲げながら、しばらく黙っていた。
「それ、聞いちゃったのか」
「聞こえた」
「聞こえたってことは」とそいつは言いかけて、口を閉じた。言い直すみたいに唇を舐めた。「まあいい。神様は負けない。負けるほど弱くない。でも、人間が忘れると、仕事が増える。忙しくなる」
仕事、という言い方が嫌だった。神様が事務作業でもしているみたいで、ぞっとする現実味があった。
帰り道、俺は車の中で、坊さんの言葉を思い出した。なんとなくいる、でいい。それだけで勝てる。
俺は試しに、頭の中でそう思ってみた。なんとなく神様いるよな、と。
思った瞬間、車内の空気が一段だけ冷えた気がした。エアコンはつけていない。窓も閉めている。なのに、足元が冷たい。ペダルの金属の冷たさが、靴底を通してじわっと上がってくる。
そしてまた、同じ言葉が来た。
お父さん、寒かったろ。
今度は声じゃなかった。言葉が、先に形になって、俺の頭の中に置かれた。俺が考えたんじゃない。置かれた。置かれたから読んだ。
俺はハンドルを握る手に力が入っているのを感じた。車はまっすぐ走っている。前の車もいない。道はいつもの道だ。街灯が一定の間隔で並んでいるだけだ。
なのに、どこかで膜が薄くなっている。青森だからじゃない。黒石だからじゃない。火葬場だからでもない。俺が何かを認識したからだ。
坊さんが言った勝ち方は単純だった。人間が神を認識すること。
でも、認識っていうのは便利な言葉だ。神だけを選んで認識できると思い込める。実際は、扉を開ける行為に近い。扉の向こうに何が立っているかは、選べない。
信じるだけで十分だと坊さんは言った。祈る必要も壺もいらない、と。
だったら、俺が今やっているのも十分なのかもしれない。なんとなく神様いるよな、と認識した。その結果、坊さんの声みたいな言葉が入ってくる。
お父さん、寒かったろ。
あの呟きは、親父に向けた慰めじゃなかったのかもしれない。俺に向けた合図だったのかもしれない。俺が扉を開けるかどうかを試すための、小さな引っかき傷だったのかもしれない。
そう考えた瞬間、背中に汗が浮いた。寒いのに汗が出る。人間の体が、自分で自分を誤魔化せなくなる感じがした。
俺は煙草を吸うのをやめた。喫煙所のことを思い出すたびに、灰皿の吸い殻がまっすぐ並ぶ光景が浮かぶ。誰かが揃えたんじゃない。揃ってしまう。崩しても戻る。そういう列が、この土地にはある。
それ以来、火葬場の話を人にするのは控えている。話せば話すほど、あの言葉が正確になっていく気がするからだ。薄い煙の中で聞いたはずの呟きが、今は室内でも、車内でも、ふとした瞬間に同じ形で立ち上がる。
お父さん、寒かったろ。
俺は親父の名前を呼んだことがない。葬式でも、火葬でも、心の中で呼べなかった。なのに、誰かが俺の代わりに呼んでいる。俺が認識したからだ。認識してしまったから、もう戻せない。
青森が霊界に近い土地なのかどうかは分からない。でも、近いっていうのは土地の問題じゃなくて、人間の側の問題なんだと今は思う。近づいたのは俺だ。扉の前まで来たのも俺だ。
そして扉の向こうから、いちばん聞きたくない優しさの形で、何度でも同じ言葉が届く。
[出典:2009/05/30(土) 09:02:45 ID:Rj4GYdolO]