これは、かつて高校時代にバス通学をしていた男から聞いた話だ。
彼は、部活が終わった薄暮の時間、いつもの通学路とは異なる市営バスの停留所に向かっていた。学校から直接駅へ向かうバスが終わってしまっていたため、彼にはそのルートで帰るしか選択肢がなかった。
夕方の空はすっかり灰色に沈み、道沿いにぼんやりと残る街灯だけが頼りだった。あたりにはぽつぽつと学生や教職員らしき人が見え隠れする程度で、静まり返った空気が彼の歩みを少しだけ早めさせた。バス停が近づいてくると、彼はふと視界の端に人影を捉えた。やや横道に逸れた場所に、妙にくたびれた作業着をまとい、杖のようなものをついている男が立っていた。よれよれの衣服、痩せこけた肩、そしてその男のぎょろりとした異様な目が、こちらをじっと見つめている。
一瞬、体がこわばったが、気づかれぬようにその場を離れようとすると、突然、男が声をあげた。「ハァッ!エヤァッ!」と、意味不明な叫び声が男の口から放たれ、周囲の空気が震えた。驚いた彼は反射的に足を早め、逃げるようにバス停へと向かった。バス停には他にも人が数人いて、その存在が幾分か彼の緊張を和らげたが、それでも男の姿が気になって振り返ってしまう。
幸運にも、バスが間もなく到着し、彼はその場から逃れるようにしてバスに乗り込んだ。冷や汗が額を流れ落ちるのを感じながら、ようやく一息つける場所を見つけた心地だった。バスはやがて駅に到着し、彼はほっとした気持ちで改札に向かった。だが、その場で足が止まる。改札の向こうに、あの男が立っていた。
その異様な光景に、頭の中が真っ白になった。バス停で見かけてからここに至るまで、バスは一度もその男を追い越していないはずなのに。いつの間に、どうやって先回りしたのか見当もつかない。駅は閑散としており、彼の目にはその男がまるで闇から浮かび上がったかのように映った。パニックに陥りそうな自分を必死に押し殺しながら、彼はそっとその場から後退し、近くの店舗の看板に身を隠した。
こっそりと看板の隙間から覗き見ると、男は改札の向こうでじっとこちらを見つめている。恐怖が脈打ち、体が震えた。逃げ場がない。彼の頭は混乱と恐怖でいっぱいだったが、目を離さないようにと自分に言い聞かせながら再び様子を見ようとした、そのときだ。
男がこちらに向かって駆け出してきた。杖を引きずり、腰をかがめた奇妙な姿勢で、異様に速い足取りだった。男の顔は先ほどの険しい表情から一転して、満面の笑みを浮かべ、しかも涙を流している。その顔は異様に引き攣り、笑みとも泣き顔ともつかぬ奇怪な表情だった。そして「ごくろうさん、ごくろうさん、ああああああ」と大声で叫びながら、異様なテンションで迫ってくる。
「何かに取り憑かれたようだった」と、彼は語った。理屈では説明がつかない恐怖が彼を支配し、思わず反射的に駅とは反対の方向へと駆け出していた。足がもつれそうになりながら角を曲がり、道を駆け抜け、また角を曲がり、さらに走った。どれだけ走ったか記憶が曖昧になるほど全力で逃げ続け、気がつけば駅に戻っていた。
今度こそ改札を抜け、ホームに駆け上がると、ちょうど電車が入ってきていた。車両に飛び乗り、ドアが閉まるのを見届けてから、彼はようやく少し安堵した。動悸はまだ収まらず、震える足をこらえながら、ホームの反対側を見張っていた。
その時、町側のフェンス越しに視線を感じた。電車がゆっくりと発車し始めたその瞬間、フェンスの向こうには、あの男が立っていた。男はフェンスを握りしめ、こちらに向かって何か叫んでいる。しかし、電車が加速していくにつれてその声は徐々に遠のき、やがて完全に視界から消え去った。張り詰めていた恐怖の糸が、ようやく彼の体から抜け落ちた。
それからというもの、彼は部活を早めに切り上げてもらい、できるだけ仲間と一緒に帰るように努めた。二度とあの男を見ることはなかったものの、彼の心にはいまだ恐怖の痕跡が残り続けた。そして奇妙なことに、その年の後半には学校内で不登校や暴力事件が相次ぎ、なにかが一気に崩れていくような不穏な空気が漂い始めた。もちろん、あの男と直接の関係があったとは考えにくい。だが、ふとした時に彼はその記憶を思い出し、背筋が冷たくなるのを感じる。
「あのとき感じた嫌な予感が、ただの気のせいであってほしいと、今でも思う」と彼は語った。
出典:102 :本当にあった怖い名無し:2021/08/05(木) 09:43:28.03 ID:kImfXSrH0.net