先日、私が一人で残業していた夜のことだ。
時刻は七時半を少し回った頃だったと思う。工場の機械は止まり、事務所には蛍光灯の白い光と、私のキーボードを叩く音だけが残っていた。街外れの山裾にある小さな町工場だ。この時間になると、外を通る車もほとんどない。
突然、電話が鳴った。
「はい、○○工業です」
「おう、サンジか?」
しわがれた老年の男の声だった。「サンジ」という名に覚えはない。うちの番号は、近くのタクシー会社と一桁違いだ。間違い電話は珍しくない。
「いえ、違いますよ」
「んぁぁ?」
ガチャ、と一方的に切れた。
ため息をつく間もなく、また鳴る。
「ああ、サンジか?」
「違います。タクシー会社は×××―××××です」
「んぁぁ?」
また切れた。
三度目の着信で、私は苛立ちよりも妙な違和感を覚えた。受話器の向こうの声は、さっきと同じはずなのに、距離が近い。受話器越しではなく、すぐ背後で囁かれているような湿り気があった。
「ああ、サンジか?」
その瞬間、衝動的に口が動いた。
「そうです。何でしょうか」
数秒の沈黙。
「おお、サンジか。じゃあ今からそっちに行くからな」
通話はそこで切れた。
胸の奥が冷える。そっち、とはどこだ。ここがどこか、相手は知っているのか。
私は着信履歴からリダイヤルを押した。
「もしもし」
若い女性の声が出た。
事情を説明すると、怪訝そうに言う。
「うちに男性はいませんけど。電話も、今は誰も使ってません」
確かに発信履歴は残っている。だが彼女は「気味が悪いからやめてください」と言って切った。
その直後だった。
事務所のガラス戸が、内側にへこむほど強く叩かれた。
ドガッ、ドガッ、ドガッ。
反射的に振り向く。外は暗く、人影はない。だが音は、確かに扉そのものから響いている。
二度目の衝撃で、ガラスがびりびりと震えた。
恐る恐る近づいた瞬間、戸の死角から、顔が滑り出てきた。
皮膚が赤黒くただれ、溶けたように垂れた男の顔だった。片腕がだらりと下がり、動いていない。なのに、衝撃は続いている。腕ではない。足でもない。体のどこも動かさずに、扉だけが内側へ歪んでいく。
「サンジ」
口が動かないまま、声だけが聞こえた。
私は凍りついた。鍵はかけていない。開けられる。
だが、男は入ってこない。ただ、叩き続ける。まるで中にいる誰かを確認するように。
その時、電話が鳴った。
社長だった。
事情を告げると、社長は静かに言った。
「神棚の酒を額と首に塗れ。神棚を開けて、ご神体を見せろ」
理由は聞かなかった。指示どおりにするしかなかった。震える指で酒を取り、額と首に塗る。神棚の扉を開けた。
次の瞬間、外から鈍い破裂音がした。
それきり、音は止んだ。
ガラス戸の向こうには何もない。ただ、内側から押されたように、わずかに歪んだ跡だけが残っていた。
翌朝、社長は言った。
「ああ、やっぱり出たか」
それ以上は多くを語らなかった。ただ、あの場所は昔から“通り道”だとだけ言った。だから壁の中に札を混ぜた、と。
後日、私は個人的にその霊媒師を訪ねた。
彼は言った。
「通り道を塞ぐと、溜まる」
何が、と聞く前に、彼は続けた。
「通れないものは、通れる形を探す」
あの夜、私が「そうです」と答えたことを思い出す。
あれが通れる形だったのか。
最近、残業中に電話が鳴ることがある。受話器を取ると、何も聞こえない。ただ、向こうで扉を叩くような低い振動音だけが続く。
私はもう名乗らない。
だが、受話器越しに、ときどき囁きが混じる。
「サンジか」
それが誰の名なのか、まだ知らない。
[出典:411 1/5 sage 2010/07/07(水) 23:07:24 ID:cQdVfgkq0]