小学生の頃の話だ。
私は、悪いことが起こる前に、身の回りのものに茶色い泥のようなものが付くことがあった。
土の色をしているのに、手に取ると粘ついて、鼻に近づけると甘ったるい匂いがする。腐った果物と砂糖を混ぜたような、不快なのに離れない香りだ。
最初は些細なものだった。
筆箱の内側に、いつの間にか薄く広がっていたり、下敷きの端にべっとり付いていたりする程度。そのあとで消しゴムを失くしたり、転んで膝を擦りむいたり、せいぜい私物が壊れるか軽いケガで終わった。
だから、あれが「前触れ」だと気づいたのは、もっと後になってからだ。
一度だけ、はっきりと覚えている出来事がある。
学校の図書室で借りた本があった。表紙は何の変哲もない児童向けの物語集で、貸出期限もまだ先だった。ところが家で読もうとしたとき、途中のページだけが妙に固く閉じていて、どれだけ力を入れても開かなかった。
誰かが糊でくっつけたんだろうと思った。
腹が立って、無理やり指を突っ込んで開いた瞬間、強烈な甘い匂いが弾けた。
見開き一面が、茶色い泥で埋まっていた。
文字も挿絵も見えない。泥は乾いておらず、指で触れるとぬるりと広がった。机の上も手も一瞬で茶色に染まり、匂いが鼻の奥にまとわりついて離れない。私は声も出せず、ただ必死にティッシュで拭き取った。
怖くなって、本はランドセルの奥に押し込んだ。
先生に言えばよかったのに、なぜか「見せたらいけない」と思ってしまった。
その夜だ。
まだ幼かった弟が、突然高熱を出して倒れた。痙攣を起こし、救急車が来て、両親と一緒に大学病院へ運ばれていった。私は家に一人残された。
原因不明。感染症でもなく、検査をしても異常は見つからない。電話口で母は泣いていた。私は三日間、誰もいない家で過ごした。
夜になると、あの匂いがする気がした。
実際には何もないのに、鼻の奥が甘く、重くなる。
四日目の朝、私はランドセルを開けた。
奥にしまっていた本の角が、少し濡れているように見えた。
怖くなって、そこでやっと思い当たった。
あれのせいじゃないか。泥の本を返さなかったから、何かが起きたんじゃないか。
理屈じゃない。説明もできない。ただ、そう思ってしまった。
月曜日の朝、私は本を抱えて学校へ行った。
図書室の返却箱の前で、周りに誰もいないのを確認してから、小さく声に出して謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。ただ、本をそっと箱に入れた。
その日の夕方、弟の熱は下がり始めた。
数日後、家族は全員帰ってきた。医者は「原因不明だが回復した」と言った。
それ以来、あの泥は見ていない。
筆箱も本も、きれいなままだ。
だから私は、あれで終わったのだと思っていた。
でも、最近になって思い出したことがある。
弟が退院して家に戻った日、私は久しぶりに自分の部屋で眠った。
朝起きたとき、机の引き出しが少し開いていた。
中に入っていたのは、何年も前に使っていた古いハンカチだけだ。
その隅が、うっすら茶色く変色していた。
触ると、もう乾いている。
匂いはほとんどしない。それでも、鼻を近づけると、かすかに甘い。
私はそのハンカチをすぐに捨てた。
誰にも言わなかった。
弟は今も元気だし、あれ以来、大きな不幸は起きていない。
ただ、ときどき思う。
あの泥は、謝ったから消えたのか。
それとも、用が済んだから引いただけなのか。
もし次に見えたとき、今度は何が起きるのか。
考えないようにしている。
二度と見たくない。
でも、見えなくなっただけで、本当に終わったのかどうかは、今も分からない。
[出典:346 :可愛い奥様@\(^o^)/:2016/06/09(木) 02:25:38.32 ID:DWIaeyR00.net]