友人から聞いた話だ。
彼の家は、祖父の代から山を持っている。檜と唐松を植え、定期的に枝打ちや間伐をしてきた。山仕事は日常であり、特別なものではない。
その日も、彼は一人で檜の間伐に入っていた。
エンジンをかけ、チェンソーの音が山に響く。倒す方向を定め、受け口を切り、慎重に作業を進める。何本目かの木に取りかかったときだった。
「逃げろ」
声がした。
反射的に身体が動いた。木が予定外の方向に倒れそうだ、と一瞬思った。誰かが近くで作業していて、危険を知らせてくれたのだろう、と。
彼は倒木方向とは逆へ走った。
だが、檜は予定通りの方向へ倒れていった。危険はなかった。
ほっと息をつく間もなく、倒れた木の根元付近から、黒い塊が噴き出した。
スズメバチだった。
それも数匹ではない。土中に巣を作る大スズメバチの群れが、一斉に飛び出してきた。羽音が空気を震わせ、視界が蜂で埋まる。
彼は全力で車へ逃げ込み、ドアを閉めた。
車内から見る山は、異様な光景だった。無数の蜂が旋回し、怒り狂っている。もし、あの声がなければ、木のそばに立ち尽くしていたはずだ。
落ち着いてから周囲を確認したが、人の姿はなかった。
無線もない。誰かが声をかける位置ではない。
後日、彼はぽつりと話した。
あの声が聞こえた瞬間、危険を理解するより先に、身体が従った、と。
助けられたと思う反面、あれは誰だったのかと考えると、山に入るたび背中がざわつく。
山は、黙っているだけだと思っていた。
だが、何も言わないとは限らない。
そう言って、彼は今も山に入る前、必ず一度だけ立ち止まる。誰にともなく、耳を澄ませながら。
[出典:734 :Lightning Oiseaux 9 ◆/7BXYOpSKI:2009/07/10(金) 23:42:07 ID:OtujuHCy0]