山仲間から聞いた話だ。
彼は登山だけでなく、渓流釣りも趣味にしている。山に入るときは、必ず釣り竿と簡単な道具を背負い、良さそうな流れを見つけたら糸を垂らす。登ること自体よりも、山の中で時間を潰すことが目的に近い男だった。
その日入ったのは、何度も訪れている山だった。標高は高くないが、谷が深く、水の冷たさと透明度が保たれている場所がある。人の手があまり入っておらず、地元の人間以外は滅多に来ない。
昼前、いつもの沢筋から少し外れたところで、彼は見たことのない渓流を見つけた。苔むした岩の間を、水が静かに滑っている。底まで見えるほど澄んでいて、魚影も濃かった。
「これは当たりだな」
そう思い、早速釣りを始めると、驚くほど簡単に釣れた。型も悪くない。数を揃えたところで満足し、岸に上がった。周囲に人の気配はない。風もなく、木々の影が水面に落ちているだけだった。
彼はその場で火を起こし、魚を焼いた。荷物の底から酒を出し、一人で飲み始めた。昼間の山で飲む酒は回りが早い。空腹と疲れも手伝い、すぐに体が重くなった。
岩を背にして横になり、しばらく空を見ていたが、いつの間にか眠ってしまったという。
どれくらい寝ていたのかは分からない。肩を揺すぶられる感触で、意識が浮上した。
「……いびきがうるさいぞ」
低く、はっきりした声だった。すぐ耳元ではなく、少し離れた位置から聞こえた気がした。
こんな山奥に他の人間がいるとは思っていなかったが、釣り人や地元の人が来ることもゼロではない。彼は半分寝ぼけたまま、反射的に口を開いた。
「あ、すみません」
そう言いながら目を開けた。
視界に入ったのは、木の枝と空だけだった。人の姿はない。立ち上がる気配も、足音も聞こえない。ついさっきまで肩に触れていたはずなのに、そこには誰もいなかった。
寝ぼけていたのだろうか。夢だったのかもしれない。そう思い、体を起こそうとしたとき、妙なことに気づいた。
周囲が異様に静かだった。
水の音は聞こえる。だが、それ以外の音がない。鳥の声も、虫の羽音も消えている。さっきまで確かにあったはずの、山の中のざわめきが、すっぽり抜け落ちていた。
そして、自分の呼吸の音だけがやけに大きく感じられた。
彼はそのとき、自分がいびきをかいていたのかどうか、分からなくなったという。眠る前、確かに横になっただけで、すぐ寝たはずだ。酒は飲んだが、泥酔するほどではない。いびきをかくほど深く眠っていた記憶もない。
それでも、起こされたという事実だけが残っている。
肩に触れた感触は、はっきり覚えていた。力を込めて揺すぶられたわけではない。ただ、確実に「起こそう」とする意志のある動きだった。
急に怖くなり、彼は立ち上がった。周囲を見回しても、人が隠れられそうな場所はない。沢は細く、両岸はすぐに斜面になる。逃げるにしても、隠れるにしても、音を立てずに消えるのは難しいはずだった。
それでも、誰もいない。
片付けを始めたが、手が震えてうまく進まなかった。焼き網をしまい、火を消し、酒の残りを捨てた。その間も、あの声がもう一度かかるのではないかと、何度も周囲を見た。
結局、その日は釣りを切り上げ、急いで下山した。
後日、別の山仲間にこの話をすると、「それ、昼寝してたお前がうるさかったんじゃないのか」と笑われた。彼自身も、そう言われると反論できなかった。
ただ、一つだけ、どうしても説明できないことがある。
あのとき、起こされた直後、自分のいびきが止まっていたのか、それとも続いていたのか、それをまったく覚えていないのだ。
誰かが注意したのか、自分自身が自分を起こしたのか、判断がつかない。
それ以来、彼は同じ山に何度も入っている。相変わらず釣りをして、酒を飲み、昼寝もする。あの場所にも何度か行った。
だが、昼寝から覚めるたびに、必ず最初に確かめることがある。
山が静かすぎないかどうか。
そして、自分の呼吸の音以外に、何かが混じっていないかどうか。
それを確かめてからでないと、安心して体を動かせなくなったそうだ。
[出典:218 :元登山者:2009/09/27(日) 14:50:35 ID:p18NUSZt0]