まだバスケットボールという球技が、黒板消し投げの次に人気だった時代。
小学生の朝は異様に早く、そして妙に熱心だった。自分は誰よりも早く体育館の鍵を開け、誰もいない板張りの床にボールを弾ませていた。澄んだ反響が、冷えた空気を往復する。
最初にそれを見たのは、そんな朝だった。
ステージの袖に、立っている。
人、と呼ぶには動かなすぎる。気配、と呼ぶには輪郭がありすぎる。浅い藍の着物に、褪せた金の縁取り。落雁のように滑らかな頭の中央に、一本だけ結い上げられた髷。太い眉。深い眼差し。何かを諦めたような、しかし諦めきれない顔。
目が合った。
その瞬間、胸の奥が静かに押された。
声は聞こえない。それでも確かに、言葉が届く。
「励め」
そう命じられた気がした。
それからだった。朝練に行くのは義務ではなくなった。行かなければならない、になった。自分が起きる前から、彼はもう体育館にいる気がする。ボールを弾ませるたび、視線が背中に刺さる。
試合に負けた日、彼はステージから降りてきた。
誰もいないはずの体育館の中央で、自分の目の前に立った。逃げようとした足が動かない。あの深い目が、失望を滲ませる。
「足りぬ」
そう言われた。
耳ではなく、骨の内側で。
次の日から、自分はもっと早く来るようになった。まだ空が白みきらない時間に体育館に入り、指の皮が剥けるまでボールをついた。シュートが外れるたび、ステージの闇が濃くなる。
誰にも話さなかった。話せば消える気がした。消えたら、自分も終わる気がした。
やがて学校では、体育館が昔は天満宮の敷地だったという話が出た。百年前の写真。戦時中の記録。初代藩主の肖像画。浅い藍の着物。結い髷。
似ている。
似ているが、違う。
肖像の男は、笑っていない。
ある朝、体育館の鏡の前でシュートフォームを確認していたとき、ふと気づいた。
鏡の中の自分の後ろに、誰もいない。
いや、違う。
鏡の中には、彼が立っている。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、鏡を見る。
そこにいるのは、自分だった。
浅い藍の着物。褪せた金の縁取り。滑らかな頭の中央に、一本の髷。
ボールが床に落ちる音が、ひどく遠くで鳴った。
その日を境に、彼はステージに現れなくなった。
代わりに、早朝の体育館でひとり練習していると、視線を感じる。背中ではない。正面からだ。体育館の入口のガラスに映る、自分の姿。その目が、わずかに細くなり、満足そうに頷く。
今でも、朝は早い。
起きる前から、誰かが立っている気がする。
鏡を見なければ、何も起きない。
だから、見ないようにしている。
けれど、明日の朝もたぶん、ボールを弾ませる。
誰かが、励め、と言う前に。
[出典:250 :本当にあった怖い名無し:2012/12/11(火) 01:19:52.53 ID:kN+tvXbg0]