これは、精神科病院で看護師をしていた女性から聞いた話だ。
彼女がまだ一年目で、夜勤にもようやく慣れ始めた頃だった。その病棟には保護室がいくつかあった。自傷や他害のおそれがある患者を一時的に入れる部屋で、扉は重く、窓は小さく、内側には余計なものが置かれていない。
その日、夕方に一人の男性患者が入院してきた。
申し送りで、先輩看護師は「夜、少し見ておいて」とだけ言った。
「暴れるんですか」
彼女がそう聞くと、先輩は一瞬だけ黙って、「暴れる人は、暴れるって言うから」と答えた。
意味がわからなかった。
男性は四十代くらいに見えた。痩せても太ってもいない。声をかけても返事はなく、ただ目だけをこちらへ向ける。睨むわけではない。怯えるわけでもない。彼女が名札を押さえて挨拶すると、男はその名札ではなく、彼女の胸元の少し下を見ていた。
その視線が嫌で、彼女はすぐに記録用紙へ目を落とした。
男は保護室の一番奥、三号室に入った。ベッドだけが置かれた部屋だった。
夜勤は二人体制だった。消灯後、相方の看護師が先に仮眠へ入り、彼女が病棟を見ていた。廊下の照明は落とされ、足元だけに青白い灯りが残る。ナースステーションの時計の秒針だけが、やけにはっきり聞こえていた。
三号室の男は、十九時頃から眠っていた。
モニターで見ても動きはなかった。仰向けで、顔を天井に向け、布団もかけずに寝ている。呼吸の動きだけが、かろうじて見えた。
午前零時を少し過ぎた頃だった。
どん、と音がした。
最初は、どこかの病室で物が落ちたのだと思った。
続けて、どん、どん、どん、と鳴った。
音は保護室の方からだった。彼女は懐中電灯を持ち、廊下を進んだ。保護室前に近づくほど、音は大きくなる。
どん。
どん。
どん。
重いものを扉に叩きつける音だった。
三号室の小窓を覗いた瞬間、彼女は息を止めた。
男がベッドの鉄枠を持ち上げていた。
どうやって外したのかわからない。保護室用のベッドは簡単には動かせない。けれど男は、それを棒のように抱え、扉へ打ちつけていた。顔には笑みが浮かんでいた。楽しそうでも、怒っているようでもない。ただ口角だけが上がっている。
彼女はナースコールを押し、仮眠中の同僚を起こした。当直医にも連絡した。
その間も音は続いていた。
どん。
どん。
どん。
隣の病室から患者たちの声が上がる。廊下の灯りが点き、病棟全体がざわついた。スタッフが集まり、医師が来て、数人で慎重に扉を開けた。
男は抵抗した。
けれど、そこから先は手順どおりだった。押さえ、声をかけ、処置をして、ベッドを片づける。時間にすれば十数分だったと思う、と彼女は言った。
男はやがて静かになった。
仰向けに寝かされ、目を閉じた。笑みは消えていた。
そのとき、隣にいた先輩看護師が小さく言った。
「あれ、三号室だった?」
彼女は聞き返した。
「三号室ですよ。私、さっき小窓から見ました」
先輩は少し首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
夜勤明け、彼女は記録を書いた。午前零時過ぎ、三号室の患者がベッドを破損し、扉を叩打。スタッフ対応。そんな内容だった。
書き終えたあと、先輩が記録を見に来た。
「これ、三号室じゃなくて二号室じゃない?」
「いえ、三号室です」
「三号室、昨日は使ってないよ」
彼女は笑いそうになった。
疲れている先輩の勘違いだと思った。
だが、保護室の使用表を見ると、三号室は空欄だった。前日から翌朝まで、使用者なし。男性患者の名前は二号室の欄に入っていた。
彼女はすぐに保護室へ向かった。
二号室には男が寝ていた。昨夜と同じように、仰向けで、天井を見ている。三号室の扉は閉じていた。小窓から覗くと、中には何もなかった。
ベッドもない。
床には、うすく擦ったような跡が残っていた。扉の内側にも、金属で叩いたような傷がいくつかついていた。
彼女が黙っていると、背後から先輩が言った。
「そこ、前から鳴るんだよ」
「鳴る?」
「入ってない夜だけ」
彼女は振り返った。
先輩はそれ以上話さなかった。記録も直さなくていいと言った。ただ、三号室とは書かないほうがいい、とだけ言った。
その後、彼女は何度も夜勤に入った。
三号室は、使われることもあれば、空いていることもあった。患者が入っている日は、何も起きなかった。空いている日に限って、夜中に一度だけ、扉が鳴ることがあった。
どん。
たった一回だけのこともあれば、あの夜のように続くこともあった。
不思議なのは、その音が鳴ると、病棟の患者たちはみな静かになることだった。普段なら大声を出す人も、ナースコールを連打する人も、そのときだけは何も言わない。朝になって聞くと、たいていの人は「聞いていない」と答えた。
一人だけ、古くから入退院を繰り返している患者が、彼女に言ったことがある。
「あれ、外から叩いてるんだよ」
彼女は反射的に三号室の扉を見た。
「外?」
患者は笑わなかった。
「だから、開けちゃだめなんだよ。中に入れておく部屋じゃないから」
彼女はその病院を数年後に辞めた。

最後の夜勤の日、三号室は空いていた。
何も起きないまま朝を迎え、引き継ぎを済ませ、白衣を返した。荷物をまとめて職員用の出口へ向かう途中、廊下の奥から音がした。
どん。
彼女は立ち止まらなかった。
振り返れば、また勤務に戻される気がしたからだという。
ただ、外に出てから気づいた。
その音は、保護室の方からではなかった。
彼女の更衣室のロッカーの内側から聞こえていた。
それ以来、彼女は金属の扉を閉める音が苦手になった。駅のコインロッカーでも、古いエレベーターでも、誰かが乱暴に扉を閉めると、あの音が混じる。
どん。
中からなのか、外からなのか、今でも判断できないらしい。
彼女は最後に、こう言った。
「あの部屋は、患者を守るための部屋だったのか、私たちを守るための部屋だったのか、今でもわからないんです」
ただ、話を聞き終えた私が帰ろうとしたとき、彼女は玄関のドアを押さえて、少しだけ声を落とした。
「もし夜中に一回だけ扉を叩く音がしても、確認しないでください」
「二回目が鳴ると、向こうがこっちを見つけた合図なので」
[出典:428 :本当にあった怖い名無し:2024/01/23(火) 14:39:00.98 ID:QBj55jpw0.net]