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空室の三号室 rw+1,214-0527

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これは、精神科病院で看護師をしていた女性から聞いた話だ。

彼女がまだ一年目で、夜勤にもようやく慣れ始めた頃だった。その病棟には保護室がいくつかあった。自傷や他害のおそれがある患者を一時的に入れる部屋で、扉は重く、窓は小さく、内側には余計なものが置かれていない。

その日、夕方に一人の男性患者が入院してきた。

申し送りで、先輩看護師は「夜、少し見ておいて」とだけ言った。

「暴れるんですか」

彼女がそう聞くと、先輩は一瞬だけ黙って、「暴れる人は、暴れるって言うから」と答えた。

意味がわからなかった。

男性は四十代くらいに見えた。痩せても太ってもいない。声をかけても返事はなく、ただ目だけをこちらへ向ける。睨むわけではない。怯えるわけでもない。彼女が名札を押さえて挨拶すると、男はその名札ではなく、彼女の胸元の少し下を見ていた。

その視線が嫌で、彼女はすぐに記録用紙へ目を落とした。

男は保護室の一番奥、三号室に入った。ベッドだけが置かれた部屋だった。

夜勤は二人体制だった。消灯後、相方の看護師が先に仮眠へ入り、彼女が病棟を見ていた。廊下の照明は落とされ、足元だけに青白い灯りが残る。ナースステーションの時計の秒針だけが、やけにはっきり聞こえていた。

三号室の男は、十九時頃から眠っていた。

モニターで見ても動きはなかった。仰向けで、顔を天井に向け、布団もかけずに寝ている。呼吸の動きだけが、かろうじて見えた。

午前零時を少し過ぎた頃だった。

どん、と音がした。

最初は、どこかの病室で物が落ちたのだと思った。

続けて、どん、どん、どん、と鳴った。

音は保護室の方からだった。彼女は懐中電灯を持ち、廊下を進んだ。保護室前に近づくほど、音は大きくなる。

どん。

どん。

どん。

重いものを扉に叩きつける音だった。

三号室の小窓を覗いた瞬間、彼女は息を止めた。

男がベッドの鉄枠を持ち上げていた。

どうやって外したのかわからない。保護室用のベッドは簡単には動かせない。けれど男は、それを棒のように抱え、扉へ打ちつけていた。顔には笑みが浮かんでいた。楽しそうでも、怒っているようでもない。ただ口角だけが上がっている。

彼女はナースコールを押し、仮眠中の同僚を起こした。当直医にも連絡した。

その間も音は続いていた。

どん。

どん。

どん。

隣の病室から患者たちの声が上がる。廊下の灯りが点き、病棟全体がざわついた。スタッフが集まり、医師が来て、数人で慎重に扉を開けた。

男は抵抗した。

けれど、そこから先は手順どおりだった。押さえ、声をかけ、処置をして、ベッドを片づける。時間にすれば十数分だったと思う、と彼女は言った。

男はやがて静かになった。

仰向けに寝かされ、目を閉じた。笑みは消えていた。

そのとき、隣にいた先輩看護師が小さく言った。

「あれ、三号室だった?」

彼女は聞き返した。

「三号室ですよ。私、さっき小窓から見ました」

先輩は少し首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。

夜勤明け、彼女は記録を書いた。午前零時過ぎ、三号室の患者がベッドを破損し、扉を叩打。スタッフ対応。そんな内容だった。

書き終えたあと、先輩が記録を見に来た。

「これ、三号室じゃなくて二号室じゃない?」

「いえ、三号室です」

「三号室、昨日は使ってないよ」

彼女は笑いそうになった。

疲れている先輩の勘違いだと思った。

だが、保護室の使用表を見ると、三号室は空欄だった。前日から翌朝まで、使用者なし。男性患者の名前は二号室の欄に入っていた。

彼女はすぐに保護室へ向かった。

二号室には男が寝ていた。昨夜と同じように、仰向けで、天井を見ている。三号室の扉は閉じていた。小窓から覗くと、中には何もなかった。

ベッドもない。

床には、うすく擦ったような跡が残っていた。扉の内側にも、金属で叩いたような傷がいくつかついていた。

彼女が黙っていると、背後から先輩が言った。

「そこ、前から鳴るんだよ」

「鳴る?」

「入ってない夜だけ」

彼女は振り返った。

先輩はそれ以上話さなかった。記録も直さなくていいと言った。ただ、三号室とは書かないほうがいい、とだけ言った。

その後、彼女は何度も夜勤に入った。

三号室は、使われることもあれば、空いていることもあった。患者が入っている日は、何も起きなかった。空いている日に限って、夜中に一度だけ、扉が鳴ることがあった。

どん。

たった一回だけのこともあれば、あの夜のように続くこともあった。

不思議なのは、その音が鳴ると、病棟の患者たちはみな静かになることだった。普段なら大声を出す人も、ナースコールを連打する人も、そのときだけは何も言わない。朝になって聞くと、たいていの人は「聞いていない」と答えた。

一人だけ、古くから入退院を繰り返している患者が、彼女に言ったことがある。

「あれ、外から叩いてるんだよ」

彼女は反射的に三号室の扉を見た。

「外?」

患者は笑わなかった。

「だから、開けちゃだめなんだよ。中に入れておく部屋じゃないから」

彼女はその病院を数年後に辞めた。

最後の夜勤の日、三号室は空いていた。

何も起きないまま朝を迎え、引き継ぎを済ませ、白衣を返した。荷物をまとめて職員用の出口へ向かう途中、廊下の奥から音がした。

どん。

彼女は立ち止まらなかった。

振り返れば、また勤務に戻される気がしたからだという。

ただ、外に出てから気づいた。

その音は、保護室の方からではなかった。

彼女の更衣室のロッカーの内側から聞こえていた。

それ以来、彼女は金属の扉を閉める音が苦手になった。駅のコインロッカーでも、古いエレベーターでも、誰かが乱暴に扉を閉めると、あの音が混じる。

どん。

中からなのか、外からなのか、今でも判断できないらしい。

彼女は最後に、こう言った。

「あの部屋は、患者を守るための部屋だったのか、私たちを守るための部屋だったのか、今でもわからないんです」

ただ、話を聞き終えた私が帰ろうとしたとき、彼女は玄関のドアを押さえて、少しだけ声を落とした。

「もし夜中に一回だけ扉を叩く音がしても、確認しないでください」

「二回目が鳴ると、向こうがこっちを見つけた合図なので」

[出典:428 :本当にあった怖い名無し:2024/01/23(火) 14:39:00.98 ID:QBj55jpw0.net]

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