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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

乾いた手 nw+184

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田んぼの泥が温まりきらずに冷気をまとい始める頃、空気の底だけがじわり湿る。

あれは中学二年の夏休みの終わりで、昼間に遊び疲れた身体のまま息を合わせるように夜へ滑り込んだ夜だった。家に帰って飯をかき込んで、風呂もそこそこに集合場所へ出た。親に見つかったら面倒だと分かっていたのに、面倒より先に「行かないと負け」みたいな薄い感情が勝っていた。

月は細く、森の奥の池へ向かう山道は足元だけが白く浮いていた。先頭を歩く友人がスニーカーを擦るたび、乾いた砂粒の音が一定の間隔で耳に触れた。背中の汗が夜気に冷やされて、Tシャツがぺたりと皮膚に貼りつく。胸の内側では期待だか不安だか曖昧な熱が、歩調に合わせて脈を打つ。

噂は三つあった。

ひとつは水車小屋。林道の外れに朽ちた建物があって、昔そこで男が何人も住んでいたとか、妙な出入りがあったとか、そういう尾ひれがついて、誰かが勝手に変な呼び名をつけていた。二つ目は森の散歩道にある防空壕。入口が崩れかけていて、覗くと湿った息が返ってくる。三つ目が池の中央の鳥居だった。池の真ん中に鳥居だけが立っている。渡し船も橋もない。ただ鳥居だけがある。

最初の二つを見た頃には、もう半ばどうでもよくなっていた。怖がっているふりをしながら、誰も本気で信じていない。ただ「全部確かめた」という達成感だけが欲しかった。夏休みの終わりにやることがないと、人はこういう無駄に燃える。

池に近づくと匂いが変わった。水の皮膚が朝に戻りきれずに残した冷たさが、鼻の奥にひやり貼りつく。草が濃くて、土が湿って、泥の匂いが甘く腐ったように混じる。木々の隙間から見えた水面は黒く、鳥居だけが黒々と立っていた。湖面に反転した影がわずかに揺れて、呼吸のたびに自分の肩が緊張で狭くなる。

「くぐるには入るしかないよな。」

誰ともなく呟いた声が、夜気の膜に吸われていった。池の真ん中まで泳いで鳥居を触って帰ってくる。それだけのことが急に「儀式」みたいに重くなる。俺の足裏は汗ばんでいて、湿った草を踏む感触がぺたりと嫌に鮮明だった。

じゃんけんは三度目で決まった。負けたのが俺だった。掌に残った負けの熱気が、しばらく消えなかった。息を吐くたび喉の奥がひゅうと狭まる。友人たちは焚き付けるように笑っているのに、その笑いの奥に「自分じゃなくて良かった」という安堵が隠れているのが分かった。俺も逆の立場なら、きっと同じ顔をした。

ズボンを脱いでパンツ一枚になった瞬間、夜気が脚に絡みついてきた。皮膚の表面がぞわり逆立つ。草の露が膝に冷たく当たる。池の縁の泥は思ったより柔らかく、足を置いたところからじわじわ沈んだ。

飛び込んだ瞬間、思ったより水が冷たくて肺の奥が急に縮んだ。息が勝手に漏れて、口が水を吸いそうになる。深さは想像以上で、足はどこにも触れない。水の重さが全身をねっとり包み込み、呼吸を奪おうと喉にまとわりつく。水面の上では友人たちの笑い声が弾けているのに、水の中ではその輪郭が潰れて意味だけが遅れて届く。

必死で手を掻くたび、水が耳の中でざらつく音を立てた。指先がこわばり、肩が張りつめ、皮膚が自分のものじゃないみたいになる。鳥居は思っていたより遠かった。月明かりは細く、方向感覚が曖昧で、黒い水面がどこまでも続くように感じる。

「おい、やばいって。」

誰かが叫んだ。笑いが引きつった声に変わるのが分かった。俺も分かった。腕が言うことを聞かない。水を掻いているつもりなのに、身体が前へ進んでいない。水が冷たいというだけで、筋肉が固まっていく。焦りが胸の内側で膨らんで、呼吸がさらに乱れた。

鳥居に触れた瞬間、木の表面だけが異様に温かかった。

冷えた水の中で、その温度だけが逆方向に走った。腕の骨の奥までじわり沁みてくるような、血がそこだけ先に煮えたような熱だった。俺は鳥居の柱にしがみついた。木のざらつきだけが現実の境界みたいに頼もしかった。

息が荒れすぎて視界が細い線みたいに揺れ始めた頃、水面の裏側から声が滲んだ。

「大丈夫かい。ほら、手を伸ばしてごらん。」

最初は誰が言っているのか分からなかった。耳に届くより先に背中の産毛がざわり立った。鳥居の上から、ひとつの影がこちらを覗き込み、まるで水面に書き込むみたいに手を差し出してくる。皺の刻まれた指先が月光の欠片より白く浮いた。

溺れかけていると、人は「助け」を疑わない。疑う余裕がない。俺はそれを助けてくれるものだと思い込み、手を伸ばした。

その瞬間、肩の肉だけが別方向へ引かれたように痛み、胸の奥がきゅっと縮んだ。

引かれるのは手首でも肘でもなく、肩そのものだった。見えない糸で肩の関節だけを引っ張られているような、筋がずれる痛みがじわじわ滲む。周囲の音が妙に静まった。友人たちの叫びも夜の虫の声も遠くへ押しやられたみたいに薄くなる。代わりに、水の内側でだけ響くようなこもった呼気が俺の耳裏をさする。鳥居にしがみつく指先は震え、木のざらつきだけが世界と俺を繋いでいた。

差し伸べられた手は水と光の境界で白くぼやけていた。輪郭はあるのに骨の位置が読めない。何層もの薄皮でできた手袋が、水の震えで少しずつ剥がれているみたいだった。それなのに胸は、どうしてか安堵に近い緩みを覚えた。「助かる」という感情だけが不自然に膨らんだ。怖いのに、掴みたい。

距離は腕一本分ほどしかない。その手が近づく速度が一定ではなかった。瞬きするたび少し遠のき、また急に近づく。自分が水中で揺れているせいなのか、それとも相手が揺れているのか、自分の体の位置が曖昧になる。鳥居にしがみつく反対の手が痺れ、肘がゆっくり冷えていった。

「ほら、掴めるだろう。」

声だけが俺の耳の後ろ側から直接吹き込まれたみたいに響いた。水面の上から喋っているはずなのに距離が合わない。その瞬間、肺の奥がぎゅっと縮み、知らず肩が跳ねた。

俺は息を呑んで手を伸ばした。

そのとき、差し出された手の根元が見えた。袖口にあたるはずの部分。そこには布の質感も皮膚の質感もなかった。影だけでできた輪郭が、月明かりを吸わずにそこに「切り抜かれて」いた。水の上下に全く反応していない。波が揺れても揺れない。そこだけ、水とは別の振動の中にいる。

ぞっとして手を引こうとしたが、腕が遅れた。肩だけが先に反応して、肘から先が言うことを聞かない。皮膚の下で、誰かが手首をつまんで確かめているような細い指先の感触がじんわり走った。指の形は細いのに、節がひとつ多いような屈曲がある。数が合わない。掴まれているのに、どこを掴まれているかが分からない。

「……離すなよ。」

声が今度は喉の奥で直接鳴った。誰かに喉の内側から言葉を押し込まれたようで、反射的に咳き込む。鳥居の縁をつかんでいた指先が滑った。胸の奥に押し込まれる感覚が広がり、鼓動がふいに乱れ、頭の後ろがじんと締めつけられた。

そのとき、池の外から鈍い音がひとつ跳ねた。何かが水面近くの木にぶつかった鈍音。直後に二つ、三つと続けざまに軽い衝撃が飛んだ。

ひゅっと頬の横で空気が切れた。石だった。

石が俺の肩より少し上をかすめ、水面を叩いて沈んだ。表面張力が破れた音だけがやけに生々しく鼓膜に触れた。

「まずい。」

怒鳴り声が夜の膜を破った。友人の声だったのか、誰か大人の声だったのか、そのときは判別できなかった。

それと同時に、俺のすぐ目の前にいた爺さんの手が、水に滲んだ絵みたいにじわり薄れていった。白い指先が水の揺れとは逆向きに震え、鳥居にしがみつく俺の腕だけが異様に熱を帯びた。熱いのに冷えていく。皮膚が焼けたあとに氷を当てられたみたいな感覚。

次の瞬間、俺の身体が水の底へ引き込まれるように沈み始めた。

沈むのに水の抵抗を感じなかった。胸の内側だけがひどく冷え、視界が細長い線に変わり、その線の向こうで誰かがこちらを覗き込んでいる影があった。爺さんなのか、鳥居の影そのものなのか分からない。ただ「顔がない」ことだけが分かった。顔がないのに、見られている。

胸の奥にひゅうと細い風が通り、肺の輪郭が曖昧になる。耳の近くで誰かの吐息が、水中に滞りなく流れ込んできて、その吐息だけが生きた温度を持っていた。温かい息が水の中にあるはずがないのに、ある。

暗がりの底で何かが俺の手首をなぞった。皮膚の表面は冷たいはずなのに、触れた感触だけが妙に乾いている。ざらついた紙みたいに乾いている。指の形は細いのに節が多い。肘の裏をゆっくり撫で上げてくる。確かめるように。忘れないように。

頭の中にひとつだけ言葉が落ちてきた。

――離れるな。

声とも思考ともつかないそれが胸骨の裏に直接焼きつく。俺は水中で叫んだつもりだったが、口から出たのは泡だけで、その泡が生き物みたいに耳元で弾けた。鳥居の脚がゆらゆら揺れる。俺の沈む速度に合わせて鳥居の方が伸びてくるように見えた。距離が歪む。世界が薄い膜一枚で裏返りそうになる。

一瞬、頭上で何かが閃いた。直後、後頭部に衝撃が走った。石だ。水面近くから投げ込まれたそれが鈍い痛みとともに闇を揺らした。次に肩のすぐ横でもう一発。その瞬間、肩をつかんでいたものが泡の束みたいにほどけていった。

沈められていた身体が急に軽くなる。軽くなったのに、どこにも支えがない。肺の奥が燃えるように熱い。息が欲しいのに、喉が勝手に閉じる。

遠くで水を割る音がした。誰かが飛び込んだ。

その音が水中でもはっきり届き、次の瞬間、力強い腕が俺の脇を抱えた。その腕の体温だけがやけに鮮明だった。温かい腕に掴まれた瞬間、今まで触っていたものの「乾き」が、逆に異常だったと気づく。人の手は水の中でも湿っている。湿っているのが普通だ。

水面へ引き上げられる途中、視界の端で鳥居の上に影が立っていた。輪郭は夜の湿気で表面だけ光り、手が俺ではない別の方向へ伸びていた。救助してくれた大人の方へ。伸びながらも指が何度も折り返し、長さが少しずつ変わっていた。届かない距離を、形を変えて埋めようとしている。

そこで意識が途切れた。

次の記憶は断片だった。土の匂い。誰かの掌が頬を叩く感触。吐き出した水の苦さ。喉の奥の痛み。熱い布の重さ。消毒液の匂い。部屋の薄暗さ。畳のざらつき。天井の木目。

枕元で低く響いた声だけが、妙に鮮明に残った。

「……黙って帰りなさい。あの池の鳥居に二度と触れちゃいかん。優しく見えるものが優しいとは限らんからな。」

その声の主の顔は思い出せない。体つきも、背丈も、服も曖昧なのに、声だけが残っている。いや、声も本当に耳で聞いたのか分からない。喉の内側に残っていると言った方が近い。

三日間、家から一歩も出られなかった。熱は出なかったが、眠るたびに水の重さが胸に戻ってきた。目を閉じると、乾いた指が肘の裏を撫で上げる感触が蘇る。風呂に入るのも嫌だった。湯の中で肩が熱くなり、湯の外に出るとそこだけ冷えた。

肩には薄い痣が残っていた。つままれた形に近いが、指の数が合わない。四本でも五本でもない。もっと細かい点が並んでいる。爪の跡に見えるのに、爪にしては浅い。間隔が人の指の骨格と違う。

鏡で見るたび、痣の位置がほんのわずかにずれているように見えた。

最初は気のせいだと思った。見る角度だ。光だ。そういう理由はいくらでもつけられる。だが、夜に見た位置と朝に見た位置が違う。右肩の外側だったはずが、翌日には少し内側へ寄っている。肩甲骨の縁へ、じわじわと滑っている。痛みはない。ただ、そこだけが時々ぬるくなる。

夏休みが終わる前日、制服に袖を通そうとして違和感が走った。シャツの肩が引っかかる。布が痣の上でわずかに引きつる。鏡を見ると、痣が増えていた。指の数が増えたというより、指の途中がもう一本ぶら下がったみたいな形になっている。関節の折れ方が、人の手のそれじゃない。見ているうちに、形が決まりきらない。にじむインクみたいに、輪郭が落ち着かない。

俺は思わず腕で擦った。擦った瞬間、痣の表面が乾いた紙みたいにきしんだ気がした。皮膚がきしむはずがないのに、確かに音がした気がした。擦るのをやめると、痣の中心がじんと熱を持った。

登校初日、学校へ行く道すがらふと気配を感じて立ち止まった。後ろには誰もいない。田んぼの上を風が渡り、稲の先がさらさら鳴っているだけだ。なのに、背中の産毛が立つ。肩の痣だけが、陽に焼けないまま白く浮いていた。

教室で友人たちに聞こうとしたが、喉が動かなかった。あの夜のことを話した瞬間、何かが「こちらを向く」気がした。助けてくれた大人のことを聞いても、誰もはっきり答えられない。石を投げたのは誰だと聞くと、皆が自分のことみたいに言う。口々に「俺も投げた」「俺も投げた」と言う。誰の石が当たったのか、誰の石でほどけたのか、誰も分からない。

それがいちばん気味が悪かった。皆が同じ場所にいたはずなのに、皆の記憶が同じ形で曖昧だ。

夜、風呂上がりに鏡の前へ立った。肩の痣をもう一度確かめたくなった。見た瞬間、息が止まった。

痣が、肩から少し下へ移っていた。鎖骨の下へ。腕の付け根へ。掴む位置が変わっている。指の形も変わっている。指の数が合わないまま、今度は指先だけが異様に長い。爪の跡がないのに、先端が鋭い。握るためだけに伸びた指。

鏡越しに見ると、痣の一部がほんのわずかに盛り上がった。皮膚の下で、何かが押している。内側から指で押されている。俺は反射的に肩を押さえた。掌の中で、痣がぬるく脈打った。

その瞬間、鏡の中でだけ痣の輪郭がずれた。

現実の肩ではなく、鏡の中の肩の方で、痣がもう一段ずれる。まるで鏡の中に別の肩があり、そっちの方が先に掴まれているみたいに。

目を離して、もう一度見た。

痣は元の位置に戻っていた。ただし、指の本数が増えていた。増えた指は、肩ではなく首の方へ向かっている。掴むのではなく、引き寄せる方向へ伸びている。

痣の中心が、じんと熱を持った。

その熱が、皮膚の表面ではなく骨の奥から湧いてくる。俺は鏡の中の自分と目が合うのが怖くなって、視線を落とした。落とした瞬間、肩の痣のすぐ下に、もうひとつ小さな赤い点ができているのが見えた。点は三つ、四つと並び、細い指の節みたいな間隔を作り始めた。

掴まれる位置が、下へ下へと降りてくる。

誰かが、ゆっくり腕をたぐっている。

俺は息を殺して、その赤い点を見ていた。見ているうちに、点のひとつがわずかに動いた。皮膚の上を滑ったのではない。皮膚の下で、動いた。湿っていない。乾いた動きだ。乾いた指が、皮膚の内側で這う。

肩の痣が、また一瞬ぬるくなった。

俺はその熱が引くまで、鏡の前から動けなかった。

[出典:270 :270:2012/05/24(木) 16:48:39.30 ID:fHAXJ+lT0]

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