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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

不可視の加害者 nc+

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あれは小学五年生の夏だったか。

肌にまとわりつくような湿度と、油照りの太陽がアスファルトを焼く、典型的な盆地の午後だった。
私の住む町には、子供たちの間で「裏公園」と呼ばれる少し広い緑地があった。表通りからは死角になる位置にあり、人工的に作られた小川と、その水源となる小さな滝が設えられていた。水は循環式で、消毒薬のカルキ臭と、滞留した水特有の腐葉土のような臭いが混ざり合い、鼻腔の奥に重たく居座るような場所だった。
蝉時雨が耳鳴りのように降り注ぐ中、私は友人のKと二人、その滝の上に立っていた。

滝といっても、高さは二メートルほどのものである。大人の背丈よりも少し高い程度だが、当時の私たちの視点から見れば、それは断崖絶壁にも等しい高低差を持っていた。
水流はチョロチョロと頼りなく岩肌を伝い、下にある淀んだ池へと注がれている。落下地点には、庭石として配置された大きめの岩が一つ、水面から頭を出していた。
常に水飛沫を浴びているその岩は、黒ずんだ苔に覆われ、ヌラヌラと鈍い光沢を放っている。
「ここからあそこの岩まで、飛び移れたらすげえよな」
Kが言い出したのは、そんな他愛のない度胸試しだった。

私は下を覗き込み、即座に首を横に振った。
恐怖心というよりは、生理的な嫌悪感が先に立ったのだ。岩の表面は明らかに滑りやすく、着地に失敗すれば、その周囲に広がる濁った緑色の水溜まりに全身を浸すことになる。水底には割れた瓶の欠片や、誰かが捨てた錆びた空き缶が沈んでいるのが見えていた。
「俺はやらない。絶対に滑る」
そう告げると、Kは鼻で笑い、縁石のギリギリに爪先をかけた。
「じゃあ俺がやる。見てろよ」
Kは運動神経が悪い方ではなかったが、無鉄砲なところがあった。しかし、いざ跳躍の体勢に入ると、その背中が微かに強張るのが見て取れた。

二メートルという高さは、上から見下ろすと足がすくむ。
Kの膝が小刻みに震えているのがわかった。彼は腕を振り、勢いをつけようとするが、その動きは何度も中断された。
「いくぞ……いや、ちょっと待って」
Kは何度も深呼吸を繰り返し、顔を引きつらせて私の方を振り返った。
やめればいいのに、という言葉が喉まで出かかったが、私はそれを飲み込んだ。Kの額から汗が流れ落ち、Tシャツの背中が濡れた色に変色していくのを、私はただ無感動に眺めていた。
暑い。
ただただ、暑かった。
蝉の声がうるさすぎて、思考がゼリー状に固まっていくような感覚。時間の感覚が引き伸ばされ、Kの躊躇いが永遠に続くかのように思われた。

五分、あるいは十分が経過しただろうか。
Kはまだ飛べずにいた。
「やっぱりやめるか……いや、いく」
独り言のように呟きながら、Kはまた体勢を低くする。
私はその横で、靴底で地面の砂利をグリグリと踏み潰していた。退屈と、苛立ちと、じっとりとした不快感。
早く終わればいい。
飛ぶなら飛ぶ、やめるならやめる。どちらでもいいから、この停滞した時間を断ち切ってほしかった。
私はKの無防備な背中を凝視していた。汗で張り付いたシャツの皺。肩甲骨の浮き上がり。
その時だ。

Kの体が、不自然なほど唐突に宙へ躍り出た。
予備動作も、掛け声もなかった。
まるで、見えないフックで背中を吊り上げられたかのように、あるいは、強い突風に煽られた枯れ葉のように、Kの体は前方へと弾き出されたのだ。
あ、と思った瞬間には、Kは空中にいた。
着地への集中も、体勢の制御もなされていなかった。
ドスン、という鈍い音と、バシャリという水音がほぼ同時に響く。
Kの足は狙った岩を捉えることすらできず、岩の縁に足裏を滑らせ、そのまま体勢を崩して前方へとつんのめった。

短い悲鳴と共に、Kが水の中に倒れ込む。
私は慌てて滝の横にある階段を駆け下りた。
Kは岩にしがみつくようにして呻いていた。膝小僧の皮がべろりとめくれ、白い脂肪層と赤い筋肉が露出し、そこからどす黒い血が溢れ出して、緑色の水を濁らせていく。
痛々しい光景だった。
近くにいた中学生くらいの少年たちが駆け寄ってきて、Kを抱え起こし、水道の方へと連れて行ってくれた。私はその後ろを、自分の心臓が奇妙なリズムで早鐘を打つのを感じながらついていった。

応急処置を受けている間、Kは鼻水を垂らして泣きじゃくっていた。
消毒液が傷口にかけられるたび、悲痛な叫び声を上げる。
私はその様子を、少し離れたベンチの陰から見ていた。心配よりも、どこか現実感のない映像を見ているような気分だった。
処置が終わり、中学生たちが去っていくと、Kは充血した目で私の方を睨みつけた。
そして、震える唇で、信じられない言葉を吐き捨てたのだ。
「なんで、押したん……」

一瞬、何を言われているのかわからなかった。
周囲の蝉時雨がピタリと止んだような錯覚に陥る。
「え?」
「なんで押したんやって!危ないやろ!」
Kは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、私を糾弾した。その目には、明確な敵意と恐怖が宿っていた。
私は首を激しく振った。
「押してない。俺はずっと後ろに立ってただけだ」
「嘘つくな!背中、ドってやったやんか!」
Kは自分の背中に手を回し、その感触を確かめるような仕草をした。
私は茫然とした。私は指一本、彼に触れていない。そもそも、私は彼が飛ぶ瞬間、一歩下がって見ていただけなのだ。
だが、Kの剣幕は演技とは思えなかった。彼は本当に、誰かに背中を突き飛ばされたと信じ込んでいるようだった。
その日は、互いに気まずいまま別れた。
帰り道、私は自分の掌を見つめながら歩いた。
汗ばんだ掌には、何の感触も残っていない。押したはずがない。あの時、私はただ「早くしろ」と念じていただけだ。それだけで、あんな風に人が飛ぶわけがない。
そう自分に言い聞かせ、私はその記憶に蓋をした。Kとはその後、何となく疎遠になり、中学に上がる頃には会話すらしなくなっていた。

それから一年ほどが経過した頃のことだ。

季節はやはり夏だったが、あの湿った公園とは違う、乾いた砂埃の舞う別の公園に私はいた。
当時、私たちの間ではマウンテンバイクが流行していた。変速ギアのついた、ごつごつとしたタイヤの自転車だ。
十人ほどの友人が集まり、公園の入り口付近に自転車を乱雑に乗り捨てていた。自転車たちは将棋倒しのように折り重なり、黒いゴムタイヤと銀色のスポーク、そして剥き出しになったチェーンやギアが、複雑な金属の塊となって鎮座していた。
その日の遊び場は、公園の奥にある複合遊具だった。

その遊具には、少し変わった形の滑り台のようなものが付いていた。
高さは一メートルほど。滑る面は黄色いペンキで塗られた金属製だが、幅が極端に狭く、二十センチほどしかない。滑り台というよりは、傾斜のついた平均台といった風情だった。
私たちはその細い斜面を、靴の裏を滑らせて駆け下りるという遊びに熱中していた。
バランス感覚とスピードが要求される、単純だがスリルのある遊びだ。
乾いた金属音を立てて、次々と友人が駆け下りていく。成功すると「うぇーい」と歓声が上がり、失敗して芝生に転がると嘲笑が起きる。そんな残酷で無邪気な時間が流れていた。

その輪の中に、二学年下の男の子が混ざっていた。
名前は知らなかった。友人の誰かの弟か、あるいはただ近所に住んでいて付いてきただけの子だったかもしれない。
彼は真新しいマウンテンバイクに乗ってきており、それを自慢気に皆に見せていたが、遊びに入ろうとすると明らかに足手まといになっていた。
皆が軽々と駆け下りるその斜面の上に立ち、彼は怯えていた。
一メートルという高さは、彼にとっては高かったのだろう。それに、幅二十センチの足場はあまりに心許ない。
「僕もする」
そう強がって登ってはみたものの、一向に降りようとしない。
後ろがつかえている。
年上の友人たちは「早く行けよ」「無理ならどけよ」と野次を飛ばし始めていた。

私は、その男の子のすぐ後ろ、遊具の踊り場に立っていた。
私の順番が次だったからだ。
男の子は小さく震える背中を私に向けて、斜面の下を見下ろしている。
その視線の先、斜面を降りきった数メートル先には、私たちが乗り捨てたマウンテンバイクの山があった。
金属のペダル、鋭利なブレーキレバー、そして油にまみれたギザギザの変速ギア。それらが夏の強い日差しを反射して、ギラギラと光っている。
もし、勢い余ってあそこに突っ込んだら。
ふと、そんな想像が脳裏をよぎった。

男の子は動かない。
私の足元で、熱を持った鉄板からの熱気が立ち上ってくる。
靴の中で足が蒸れる不快感。
まただ。あの時と同じだ。
私は微かな既視感を覚えた。
動かない背中。
流れる汗。
周囲の喧騒が遠のき、私の意識はその男の子の背中の一点に収束していく。
早く。
早く行け。
邪魔だ。
そこにあるのは、純粋な苛立ちと、物理法則が働く瞬間を見たいという、冷徹な好奇心だったかもしれない。
私はポケットに手を突っ込み、ただ黙って彼を見下ろしていた。
手は出していない。絶対に、出していない。
私は心の中で強く念じた。
『落ちろ』

その瞬間、世界がコマ送りのようになった。
男の子が、駆け下りるのではなく、まるで誰かに突き飛ばされたかのように、斜面から身を投げ出した。
足は斜面を捉えていなかった。
体は放物線を描き、重力に従って落下していく。
その軌道の先には、当然のように、あのマウンテンバイクの山があった。

衝突の瞬間は、驚くほど静かだったような気がする。

あるいは私の脳が、あまりに衝撃的な光景を前にして、聴覚情報を一時的に遮断したのかもしれない。
少年は顔面から突っ込んだ。
受け身を取る余裕などなかった。彼の体はマウンテンバイクのハンドルやフレームに一度ぶつかって跳ね返り、その勢いのまま、地面に横倒しになっていた後輪のギア部分へと吸い込まれていった。
ガシャッ、という硬質な音と、グチャッという湿った音が重なって響いたのは、その直後のことだ。
世界が通常速度を取り戻すと同時に、耳をつんざくような絶叫が公園の空気を引き裂いた。

「ぎゃああああああああ!」

それは言葉にならない、獣の咆哮のような悲鳴だった。
私は遊具の踊り場から一歩も動けず、ただ眼下の惨劇を見下ろしていた。
少年は地面を転げ回り、両手で顔を覆っていた。
指の間から、鮮やかな赤色が溢れ出している。それは滴るというレベルではなく、壊れた蛇口から水が噴き出すような勢いだった。
周囲にいた友人たちが、弾かれたように駆け寄る。
「おい、大丈夫か!?」
「何があったんや!」
誰かが叫び、誰かが少年の肩を抱く。
少年が手を退けた瞬間、そこにいた全員が息を呑んだ。

瞼だった。
マウンテンバイクの変速ギア、あの鋭利な歯車の山が、少年の柔らかい瞼を捉え、深々と肉を削ぎ取っていたのだ。
眼球そのものが無事だったのかどうか、溢れる血の量で即座には判別できなかった。ただ、目の上の皮膚がめくれ上がり、白っぽい脂肪と骨膜が見えているのがわかった。
鉄錆の臭いに混じって、濃厚な血の臭いが立ち昇ってくる。
夏の熱気の中で、その臭いは強烈な吐き気を催させた。
少年は持っていたタオルを押し付けられたが、白いパイル地は瞬く間に赤黒く染まり、吸水許容量を超えた血液が顎を伝って首筋へと流れていく。
痛い、痛い、と泣き叫ぶ声が、蝉時雨をかき消して響き渡る。
私はその光景を、どこか他人事のように眺めていた。
可哀想だ、という感情よりも先に、「やっぱり落ちた」という奇妙な納得感が胸の奥に広がっていたからだ。
予測通りだ。物理法則は正しかった。

そんな冷酷な思考が、私の頭の片隅で明滅していた。

誰かが公衆電話へ走り、救急車を呼ぼうとしていた(当時はまだ携帯電話など子供が持てる時代ではなかった)。
混乱の極みにある現場で、血まみれの少年がふと、顔を上げた。
片目は血で塞がり、もう片方の目も涙で溢れていたが、その視線は正確に、遊具の上に立ち尽くす私を捉えていた。
一年前の記憶が、フラッシュバックする。
あの時のKと同じ目。
恐怖と、怒りと、そして何より深い困惑を湛えた目。

「なんで……」
少年は嗚咽混じりに、喉から絞り出すように言った。
「なんで、押したん!!!」

その声は、周囲の喧騒を一瞬で凍りつかせた。
友人たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
マウンテンバイクを起こそうとしていた者も、タオルを押さえていた者も、全員が私を見上げている。その目には、明らかな疑念の色が浮かんでいた。
あんなに狭い足場で、後ろにいたのは私だけだ。
彼が落ちた原因を作れる人間は、物理的に私しかいない。
状況証拠は完全に真っ黒だった。

「押してない!」
私は叫んだ。声が裏返った。
「俺はずっとここに立ってただけだ!指一本触れてない!」
「嘘や!背中、ドーンって押したやんか!」
少年は泣き叫びながら訴えた。
私は階段を駆け下り、彼らの輪の中に入ろうとしたが、友人たちが微妙に距離を取るのがわかった。見えない壁がそこにあった。
「本当にやってない。勝手に落ちたんや」
必死に弁解すればするほど、言葉が空回りしていく。
私の言葉は真実だった。私は手を出していない。ポケットに手を入れていただけだ。
だが、少年が感じたという「背中への衝撃」もまた、彼にとっては真実なのだろう。Kの時と同じだ。彼らは嘘をついているわけではない。本当に、誰かに突き飛ばされた感触があったのだ。
それが私でないなら、一体誰だというのか。
私の後ろには誰もいなかった。
私の前には彼しかいなかった。
その間に存在したのは、私の「早く落ちろ」という暗い願望だけだ。

救急車が到着し、少年は搬送されていった。
幸い、眼球へのダメージは致命的なものではなく、視力は失わずに済んだと後日聞いた。しかし、瞼には大きな傷跡が残り、形成手術が必要になったという。
その日を境に、私はそのグループから何となく除外されるようになった。
直接的に「犯人」扱いされたわけではない。けれど、「あいつの近くにいると危ない」「何か変なことが起きる」という空気が、私の周囲に漂い始めたのだ。
私もまた、弁解する気力を失っていた。
自分の無実を証明する術がないこともあったが、それ以上に、自分自身の中に芽生えた薄暗い疑念が、口を噤ませたのだ。

あれから二十年近い歳月が流れた。

私は大人になり、故郷を離れ、あのような無防備な暴力性が剥き出しになる場所からは遠ざかって暮らしている。
それ以来、私の目の前で誰かが突き飛ばされるような怪異は一度も起きていない。
Kも、あの少年も、今はどこで何をしているのか知らない。
ただ、時折ふと思い出すのだ。
あの二つの出来事の共通点を。
高い場所。
足元の不安定さ。
被害者の躊躇と恐怖。
そして、私の背後に張り付いていた、じっとりとした苛立ちと、「やってしまえ」という無責任な渇望。

私は本当に、押していなかったのだろうか?
もちろん、物理的に腕を伸ばした記憶はない。
しかし、人間の記憶など曖昧なものだ。都合の悪い事実を無意識に改竄することなど、脳にとっては造作もないことだろう。
あるいは、もっとオカルトめいた仮説——私の殺意が何らかのエネルギーを持って実体化し、彼らの背中を物理的に叩いたのだとしたら?
いや、そんな馬鹿げたことがあるはずがない。
そう否定しながらも、私は自分の右手をじっと見つめることがある。
何も掴んでいない掌。
けれど、目を閉じると、微かに蘇る感触があるような気がしてならないのだ。
汗ばんだTシャツの布地越しに伝わる、人肌の温かさと、細い背骨の硬さ。
そして、ぐっと体重をかけて押し出した時の、あの独特の反発力と抵抗感。
それが妄想なのか、封印された記憶の残滓なのか、私にはもう判別がつかない。

最近、駅のホームで電車を待っているとき、ふと恐怖に駆られることがある。
私の前に、白線のギリギリに立っているサラリーマンがいる。
スマホに夢中で、足元がお留守になっている。
電車が進入してくる風圧と轟音。
その背中を見ていると、私のポケットの中の手が、勝手にピクリと跳ねるのだ。
まるで、意思を持った別の生き物のように。
そして同時に、背筋が凍るような寒気を感じて振り返る。
私の背後には誰もいない。
けれど、あの時の私のように、誰かがじっとりと濡れた瞳で、私の背中の「押しどころ」を見定めているような気配を感じるのだ。

いつか、私が「押される」側になる日が来るのかもしれない。
あるいは、私が抗えない衝動に負けて、三度目の正直を実行してしまう日が来るのかもしれない。
混雑した通勤ラッシュの雑踏の中で、私は誰の背中も見ないように、そして誰にも背中を見せないように、俯いて歩くことしかできない。
あの夏の日の、血と鉄錆の臭いは、今も私の鼻腔の奥にこびりついて離れないのだ。

(了)

[出典:169 :本当にあった怖い名無し:2018/08/01(水) 11:46:43.30 ID:EhlTazgc0.net]

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