高校時代の担任は、普段ほとんど自分のことを話さない人だった。
淡々としていて、余計な雑談をしない。生徒との距離も一定で、踏み込みすぎず、突き放しすぎず、どこか線を引いたまま教壇に立っている。感情の起伏も読み取りづらく、怒鳴ることも笑うことも少ない。そういう人だった。
その担任が、ある日の放課後、ぽつりと昔話をした。
きっかけは理科室の片付けだったと思う。
薬品棚を拭きながら、誰かが何気なく言った。
「山って、なんか怖くないですか」
担任はすぐには答えなかった。ビーカーを一つ一つ元の場所に戻し、しばらく考えるように黙ってから、独り言のように言った。
「入っちゃいけない場所って、本当にあるぞ」
その場の空気が少しだけ変わった。
担任は黒板の前に立ったまま、こちらを見ずに話し始めた。
小学生の頃、夏休みになると父親の田舎に連れて行かれたという。
山と川しかないような場所で、子どもにとっては遊び場しかない世界だった。朝から晩まで外を走り回り、腹が減ったら戻る。それを毎日繰り返していた。
担任も例に漏れず、山に入っては探検ごっこをしていた。
道がある場所、ない場所の区別も曖昧なまま、何となく「ここまでは行ったことがある」「ここから先は知らない」といった感覚だけを頼りに歩いていたらしい。
その日も、いつもの山に入った。
いつもより少しだけ奥へ行ってみようと思った。
理由は単純で、行ったことがなかったからだ。
しばらく歩くと、急に視界が開けた。
山の中に、不自然なほど整った空間があった。
円形だった。
直径は十メートルほど。
周囲は草が伸び放題なのに、円の内側だけは地面がむき出しで、踏み固められている。人が集まって何かをした跡のようにも見えたが、道具や建物は何もない。
その円を囲むように、木の棒が立っていた。
角材のような棒が、十数本。等間隔で、きれいな円を描いている。
色がおかしかった。
鳥居の朱色に近いが、それよりも暗く、湿っているように見えた。乾いた赤ではなく、触れたら指に残りそうな、生々しい赤だった。古いはずなのに、なぜか新しさを感じさせる色だった。
円の中に足を踏み入れる前に、匂いに気づいた。
嗅いだことのない匂いだった。腐臭とも違い、薬品とも違う。鼻の奥に貼りつくようで、深く吸うと気分が悪くなる。
足元には、細かなものが散らばっていた。
虫の死骸。鳥か小動物の骨。
白く乾いたそれらが、円の内側と外側の境界付近に集中している。偶然とは思えなかった。
担任は、その場で立ち止まったという。
理由ははっきりしない。ただ「おかしい」と感じた。
そして、さらに嫌な感覚があった。
円の内側が、こちらを見ている気がした。
風が吹いたわけでも、音がしたわけでもない。ただ、空間そのものに意識があるような感覚だった。
結局、その日は円の中に入らず、引き返した。
だが、頭からあの場所が離れなかった。赤い棒の円。草の生えない地面。匂いと骨。
夕方、家に戻って祖父にその話をした。
話を聞いた途端、祖父の表情が変わった。
冗談好きな人だったが、そのときは笑わなかった。
「中には、入らなかったな」
低い声だった。
担任が首を振ると、祖父は何も言わずに煙草に火をつけ、しばらく黙っていた。
「明日は外に出るな」
それだけ言った。
後になって、父親からも話を聞いた。
あの山には、昔から近づかない場所があるという。理由は誰もはっきり説明しない。ただ、そういう場所として扱われてきたらしい。
父親は、子どもの頃に一度、あの円の中に入ったことがあると言った。
怖かった、という話ではなかった。
ただ、「戻ってきたら、時間の感覚がおかしかった」と言った。
どれくらいいたのか分からない。
入った瞬間と出た瞬間の記憶が、うまくつながらない。
棒を倒したような気もするが、次に見たときには、何も変わっていなかった。
それ以上、父親は語らなかった。
担任は言った。
円の中に草が生えない理由。
境界付近に骨が集まる理由。
それらについて、説明はできるかもしれない。でも、納得できる説明はなかった。
何より気になったのは、あの棒だ。
倒されたはずのものが、元に戻っている。
誰かが直しているのか、それとも最初から倒れていなかったのか。
「自然はな、そんなに几帳面じゃない」
担任はそう言って話を終えた。
妙に整いすぎた場所を見つけたら、近づくな。
山に限らず、どこでも同じだ、と。
その言葉が、今でも頭に残っている。
あの円が何だったのか、担任は最後まで言わなかった。
たぶん、言葉にすると、違ってしまうからだ。
中に何があったのか。
あるいは、今もあるのか。
それを考えること自体が、もう一歩踏み込んでいるような気がしてならない。
(了)
[出典:666 :本当にあった怖い名無し:2011/08/11(木) 00:15:09.14 ID:Ef2ean8y0]