今でも、あの夜の匂いを思い出すと、喉の奥がわずかにざらつく。
乾いた紙と、焦げる寸前の埃が混じったような匂いだ。思い出そうとして思い出すのではない。ふとした瞬間に、向こうから鼻の奥に入り込み、胸の底に沈んでいた何かを静かに起こす。
あの日、私は友達の歩幅に合わせて商店街を歩いていた。夕方の光は濁り、街路灯の橙が舗道にじっとり染み込んでいる。風はぬるく、肌の表面を撫で回すようにまとわりついた。
横目で友達を見ると、輪郭が薄い墨で縁取られたように曇っていた。視界の端が汚れただけだと思い、何度か瞬きをしたが、曇りは消えない。胸の奥が跳ねた。昔から、ああいう曇り方をした人間には、何かが引っかかっている。
私は無言で歩く速度を落とし、予定とは違う角へと進んだ。理由はない。ただ、道を変えると、その曇りの向きがわずかに鈍る。友達は不思議そうな顔をしたが、何も聞かずについてきた。
角を曲がると、空気がふっと軽くなった。喉のざらつきが引き、足首に絡みついていた重さがほどける。ここまで来れば大丈夫だろう。そう思った。
別れ際、軽く会釈して背を向けた瞬間だった。
耳の奥を指で弾かれたような、鋭い震えが走った。
「余計な事しやがって」
男の声だった。振り返っても誰もいない。街灯の下に伸びているのは、自分の影だけだ。人の気配も、猫の影もない。ただ言葉の残り香だけが、後頭部の内側に貼り付いた。
歩き出して数歩、視界の端に薄い濁りが戻ってきた。今度は、私の周囲だけに広がっている。まるで、私自身が薄墨の中に立っているみたいだった。
その夜から、肩口にざらついた気配がぶら下がるようになった。砂粒を擦り付けられるような感覚だ。危うい方向へ進むと、そのざらつきが急に濃くなる。おかげで致命的な場所は避けられたが、視界の濁りは消えない。眠っても抜けず、起きても揺れている。
限界を感じ、私は御祓いをしてくれる神社へ向かった。通された部屋は乾ききった空気で、神棚だけが静かに光っていた。祝詞が始まる前、神職が一瞬こちらを見て、ぽつりと呟いた。
「面倒なのに触れたね」
それだけだった。終わると、視界の濁りはすっと引いた。肩の重みも消え、空気が驚くほど軽い。
だが、帰り道でその感覚は裏切られた。
友達に会うと、彼女の肩から腰にかけて、細い墨の筋が垂れ下がっている。誰かに掴まれた跡のようだ。近づくほど、空気がざわつく。
「手、どうしたの」
右手の甲に赤黒い擦り傷があった。
「自転車が急に出てきてさ。避けたら転んだ」
笑っているのに、指先が細かく震えている。胸の底に冷たいものが沈んだ。このままでは済まない。
「最近、変な人いない」
彼女はしばらく黙り、靴先を見つめてから言った。
「元カレ。近所でよく見かける」
後で、雑居ビルの前に立つ青年を見た。整った身なりの好青年だが、周囲の空気だけが湿っている。腐りかけた木材の匂いがした。
その夜、私は彼のポストに手紙を入れた。
「分かっている」
それだけ書いた。誰が見ているか分からないという感触だけを残す為だ。
数日後、友達の周りの墨は薄れた。青年はアパートを引き払って消えたらしい。
それで終わったはずだった。
数週間後、ニュースで列車事故が流れた。聞き覚えのある路線名。画面に映るホームの黄色い線を見た瞬間、あの匂いが戻ってきた。
翌日、友達は何事もなかったように笑っていた。ただ、右手首を意味もなく撫でる癖だけが残っている。指先に妙な力が入る。
夜、眠れずにいると、耳の奥で囁きがした。
「聞こえるだろ」
誰の声か分からない。
「お前もやった」
進む道を曲げた。止めた。見た。触れた。
再び神社を訪れた時、神職は祓いをしなかった。ただ一言だけ言った。
「距離を覚えなさい」
それ以来、私はこの話を人にするようになった。飲みの席で、怪談めいた話題になった時に。
黙り込む人ほど、輪郭が曇る。
最近、その最中に、相手の耳元で小さな声がする。
「余計な事しやがって」
それが誰のものか、もう考えない。
ひとつだけ確かなのは、この話を聞いた人の視界の端で、薄墨が揺れ始める事だ。
そして今、あなたの耳元でも、空気が少しだけ重くなっていないだろうか。
[出典:252 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.8][新芽] (ワッチョイW b693-kYY8):2025/03/01(土) 11:10:05.02ID:q0jJqXea0]