大学に真面目に通っていた記憶は、ほとんどない。
片道二時間かけて電車に乗り、講義内容など一秒も聞かずに出席カードだけ出して、また二時間かけて帰る。そのためだけに、満員電車と学費を払っていたと言っていい。
その日も同じだった。
新宿から下り電車に乗り、連結部に近い七人掛けの端に座る。まだラッシュ前で、車内は驚くほど空いていた。西日が窓に反射し、座席の影が長く伸びている。ステンレスの手すりに身体を預け、仕切り板に頭をもたせると、規則的な揺れが背骨を伝って脳を鈍らせた。
ガタン、ゴトン。
そのリズムに抗う気もなく、私は目を閉じた。
うとうとしかけた、そのときだった。
右腕の肘のあたり、シャツの袖を「つん、つん」と引かれる感触があった。
乱暴ではない。子供が遠慮がちに親の注意を引くような、ごく弱い力。
夢だと思った。
だが、布が引かれる抵抗感はあまりに生々しかった。
目を開ける。
車内には、私しかいなかった。
通路の先まで見渡しても、人影はない。吊り革だけが一斉に揺れ、蛍光灯が誰もいない座席を白く照らしている。
背中を冷たいものが走った。
私は反射的に袖を払ったが、当然、何も落ちない。
直後、車内放送が次の停車駅を告げた。
それは、私の最寄り駅だった。
胸の奥に説明のつかない不快感が広がり、私は逃げるように席を立ってドアの前に立った。
ホームに降りた瞬間、夜の冷気が皮膚を刺し、ようやく現実に戻った気がした。
走り去る電車を見送りながら、「疲れていただけだ」と自分に言い聞かせる。
だが、そのまま家に帰る気にはなれなかった。
あの感触を、頭の中から消したかった。
駅前の古いゲームセンターに立ち寄る。
自動ドアが開いた瞬間、電子音と煙草と埃の混じった熱気が吹きつけた。
この騒音だけは、私を現実に繋ぎ止めてくれる。
両替機の前で千円札を入れる。
百円玉が受け皿に落ちる音を聞き、屈み込んだ、その背後で。
ウィーン……。
自動ドアが開く音がした。
振り返ると、誰もいない。
だが、床のゴムマットの中央が、ほんのわずかに沈んでいるように見えた。
見てはいけない、と思った。
私は視線を両替機に戻し、硬貨を掴む。
その瞬間、店内の喧騒が遠のいた。
音が消えたわけではない。ただ、膜一枚隔てた向こう側に追いやられた感覚。
背中が冷える。
空調ではない、局所的な冷気。
そして、匂い。
古い電車の座席、誰かの体温が残した湿った脂、鉄の気配。
あの車内の空気が、鼻先にまとわりついた。
背後に、何かがいる。
右耳のすぐ後ろで、湿った息が触れた。
「……ねぇ」
小さな女の子の声だった。
感情のない、平坦な声。
耳元で、何かを囁いている。
言葉にならない音の連なり。意味が崩れた日本語。
その中で、一瞬だけ、はっきり聞こえた。
「……のり……かえ……」
次の瞬間、右肘に激痛が走った。
肉ごと締め潰されるような感覚に声も出ず、私は反射的に飛び退いた。
振り返らなかった。
百円玉を床に撒き散らし、非常口へ走り、鉄扉を押し開けて夜の路地へ飛び出した。
それ以来、あの店には近づいていない。
あの路線の電車にも乗らない。
数年が経った今でも、理由は分からない。
考えないようにしている。
ただ、時々、街を歩いているとき。
不意に背後で自動ドアの開く音がすると、肘のあたりが、ひどく気になる。
ツン、ツン。
誰も触れていないはずなのに、布が引かれたような、あの感触。
私は立ち止まらない。
振り返らない。
何もなかったふりをして、前へ進む。
空であることを祈りながら。
(了)
[出典:91 :以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/06/20(木) 23:53:08.959ID:+6J2B7rw0]